2・抜けない指輪
紅茶のグラスの中で氷がしゃらりと融け崩れた。
グラスに浮いた露が、涙の様に表面を伝い落ちる。それは先に落ちた水滴の環に加わり、木製のテーブルをしっとりと濡らした。
「じゃあ……この指輪は素性の分からない少年に無理矢理填められたんですか!?」
侍従のヨルデンは、愛嬌のある琥珀色の瞳を丸くして指輪とラゼリードを交互に見つめた。彼の視線の先で、北の大陸一美しいと謳われた美姫は溜息を吐く。
「無理矢理と言うか、勝手にと言うべきか……ともかく求婚と同時によ。信じられる? あの時わたくしは男だったのに、わたくしの性別を確かめもせず」
ラゼリードは左手を右手で軽く包み込んだ。その左手薬指には、先程話に上がった血の色をしたルビーの指輪が輝いている。
彼女はそれを心底嫌な物でも見る様な目つきで眺めた。
ラゼリードは幼い頃より、性別についてはかなり拘る癖があった。性別を誤解されるのも、どちらか片方の性別だけを重要視されるのも嫌う。
尋常ならざるその体質の事を考えると無理もないのだろうが、彼女の拘りや葛藤を正しく理解出来た者は居なかった。
ラゼリードに仕えて早や10年になるヨルデンや、最も彼女に近い場所に居たカテュリアの先の守護精霊フィローリでさえも。
何故なら人間も精霊も、その他の亜人種も、皆どちらか片方の性別しか持たないのだから。
「でもそれってその少年……ラゼリード様に一目惚れしたという事ですよね? ラゼリード様のお美しさに動揺して突拍子も無い行動を取ったのかも知れませんよ」
あからさまにお世辞臭く聞こえる言葉だが、これでもヨルデンは本気で意見を述べている。上手く世の中を渡って行けるのか、思わず心配になる程に彼は口下手だった。
「有難う。でもあなたの恋人の可愛さには負けるわ。彼女はお元気かしら?」
ラゼリードは意味ありげな視線をヨルデンに向けると、意地悪く問うた。
「あ…はははは。勿論元気ですよ。あっ、お茶の氷が融けてる! ……淹れ直して来ますね」
ヨルデンは笑って目を逸らし、結露に濡れたグラスを持ち上げるとわざとらしく取り換えに走る。
彼は長く仕えてくれている気心の知れた侍従だ。だが主君一筋に見えて、その実、最近出来た可愛い恋人に骨抜きになっているのをラゼリードは知っている。
ラゼリードは話し相手が居なくなり、退屈した表情で椅子の背凭れに寄りかかった。
急に体重を掛けても軋まない、良い造りをしたこの椅子は、是非母国にも一脚欲しい所だ。
ラゼリードは控えの間の入り口を見た。ヨルデンはまだ戻って来ない。
仕方なく再び視線を指輪に向ける。
どうにもこの指輪は気に障る。彼女は指輪を引き抜くべく、右手で銀色の環を引っ張った。
抜けない。まるで泣きながら眠った翌朝、指が浮腫んだ時の様に。
「そういえば、ラゼリード様」
ヨルデンが新しいグラスをトレイに載せて控えの間から現れた。ラゼリードは指輪と格闘しながら顔を上げる。
「何?」
「どうしてそんな指輪を填めたままになさっているのですか?」
見れば解るだろうに。全く、この子は。
ヨルデンの間抜けな問いにラゼリードの片眉が微かに上がる。
なんだか出来の悪い弟を持った気分になるのは何故だろう。それでも憎めないのは彼の才能だと思う。
「この動作で状況を察して頂戴。抜けないのよ」
ヨルデンはトレイをテーブルに下ろすと、ラゼリードの手元を覗き込んだ。
「えぇ? そんなまさか。宜しければ僕が外しましょうか?」
「無理だと思うけど……やってみなさいな」
ラゼリードは青年に向かってそっと左手を差し出した。それをまるで壊れ物を扱う様に優しく包み込むヨルデン。
侍従ではあるけれども、その仕草の慎重さは騎士にも負けず劣らない。
「王子の指に合う指輪なら、姫様の指には大きい筈ですよ……」
つるり。優しい手つきで指輪を抜こうとした手が空振りした。
「ほらね」
「あれ? おかしいな。……姫様、太られました?」
「なっ……」
ラゼリードの頬がピクリと痙攣を起こした。綱玉を思わせる紅い左目が細められ、剣呑な光を帯びた。彼女は、低く地を這う様な声で、それでも甘く囁く。
「ヨルデン……女性にも主君にも言うべき言葉ではなくてよ?」
「もっ、申し訳御座いません! お許しを!」
ヨルデンは遅蒔きながら失言に気づいたらしく、ドレスの足下に身を投げ出す様に跪き、頭を垂れる。
ラゼリードはそれをあからさまに無視して目を閉じた。
彼女の姿が一瞬、陽炎の様に揺らめき、直ぐに元に戻る。
否。元に、ではない。椅子に座っている人物はドレスを纏った王女ではなかった。
「ヨルデン、私の手を見ろ」
「え?」
呼び掛けは低い、男性の声。額を床に擦り付けんばかりに平伏していた侍従は、慌てて顔を上げた。
彼の視線の先には怒っても艶やかな美姫は居ない。居るのは簡素なシャツとズボンを身に付けた、姫と同じ目の色、同じ髪の色、同じ顔をした男性だ。
「ラゼリード様、いきなり切り替えないで下さいよ」
「いいから、手を見ろ! 見逃すぞ」
彼、ラゼリードは驚いた顔をした侍従の前に左手を突き付ける。
その左手薬指には先程までと同じルビーの指輪。ただ一つ違うのは指輪が大層小さく、指がきつく締め付けられて痛そうな所だ。
それを証拠にラゼリードの手は震えている。
「ラゼリード様! 指が!」
「大丈夫だから……見ていろ」
顔色を変えたヨルデンに小さな声でそう言うと、彼は指輪に視線を落とした。
キラリ、ルビーが光を放つ。
同時に小さな指輪が目に見えて大きくなり、細いながらも筋張った男の指に丁度良い大きさになる。
もう、指は締め付けられていない。最初から彼の指に誂えられた物の様に、指輪は自然に指に填まっている。
ヨルデンが目をまんまるく見開いた。
「な、なんだこの指輪……。大きくなった……!?」
「解ったか? この指輪は魔法道具なんだ。誰が何の為にかけた魔法か知らないが……指輪が外せない上に、自動的に環の大きさまで調節する魔法が掛かっている」
「そんな魔法があるんですか……凄い……」
「なにせ精霊の国だからな。人の国からしてみれば及びもつかないものに溢れているんだろうさ」
魔法に不慣れなヨルデンは、やはり姫にする様に慎重にラゼリードの手を取り、指輪に恐る恐る触れている。と、その手が指輪を離れて彼の薬指をさすった。
「ラゼリード様」
「ん?」
指から視線を上げたラゼリードは、思いの他、瞳に厳しい色を浮かべたヨルデンが自分を見ているのに気付き、少々戸惑いを覚える。
「痛かったのでしょう? 僕に見せる為なんかに痛い思いをなさらないで下さい。下手をすれば指を失う所ですよ」
「……確かに痛かった。そうだな、お前の言う通りだ。軽率だった」
ラゼリードは暫し黙り込むと素直に非を認めた。女性的な顔立ちとはいえ、大人の男がこくりと頷く様は、可愛らしいのだか滑稽なのだかよく分からない。ヨルデンは小さく吹き出した。
「それに、さっきも言いましたけど……いきなり性別を切り替えないで下さい」
「何を今更。見慣れているだろう?」
ラゼリードの眉間に軽く縦皺が入る。
「ラゼリード様、皺が出来るからその顔もやめて下さい。……見慣れていますよ。でもこちらが俯いている間に切り替わっていたら誰でも驚きますよ」
「そうだな……。しかし、口うるさいな、お前は」
ラゼリードは困った様な笑みを唇の端に浮かべた。
「主君をお諫めするのも良い家臣の役目ですから」
ヨルデンは少しすました顔で答えた。
自分で『良い』と称する辺りが可笑しくて、ラゼリードは笑って呟く。少しばかり寂しげに。
「良い家臣ね……。弟みたいなものの間違いじゃないのか?」
「お戯れを。勿体無い事をおっしゃらないで下さい」
ぴしゃりと言い切るヨルデンは紛れもない家臣だった。
ある程度言いたい事を言い合って仲良く付き合えても、やはり友ではない。
弟にはなってくれない。兄にも姉にもなれない。
主君と侍従でしかない。
急にヨルデンが遠く感じられた。
やはり私は、ひとりなのだ。