古代オリンピック短編 『勝利をもたらすもの』
「ねえねえ父上、一生のおねがーい! 私、オリュンピアの競技祭で優勝したいのっ!」
「はっはっは、キュニスカよ。いったい何を言い出すかと思えば」
かわいく手を組んで目を見開きながら叫んできた娘の『お願い』を、スパルタ王アルキダモス二世は豪快に笑い飛ばした。
「オリュンピアの競技祭は、ゼウス神に捧げる神聖な祭典。
そのはじまりのときから、競技には男しか出場できぬのがしきたりだ。
そんなことくらい、お前もよくよく知っておろうに」
「ええ、もちろん知っています」
「ならば、諦めよ」
愛娘を前にした父親が誰でもそうなるように、アルキダモス二世の傷だらけの厳つい顔には、満面の笑みがある。
その表情のまま、敵を一刀両断にするように、ばっさりと断じた。
「この父は、スパルタの王。父祖伝来の掟を曲げることはできぬ。出場は許さぬぞ。
だが、実にお前らしい願いだな、キュニスカ。
父は、お前のそういうところが実におもしろおか……おもしろいと、常々思っておる」
「今、おもしろおかしいって仰ろうとしませんでした?」
胡乱げな目で呟くキュニスカ。
色の濃い金髪、きりっとした眉。
美人だ。
そして、父王ゆずりといわれる剛胆な性格が、あますところなく表情に出ている。
「御安心ください、父上。私、自分が競技祭に出場するとは、一言も言ってませんわ」
「なに? だが、お前は今、競技祭で優勝したいと言ったではないか」
「ええ、言いました」
アルキダモス二世の濃い眉が、ぐうっと寄る。
山賊でも平謝りに謝って退散しそうな形相だ。
「キュニスカよ。父は、言葉遊びは得意ではないし、好かぬぞ。何をたくらんでおるのか、はっきりと言いなさい」
「ええ」
キュニスカにとっては、見慣れた父の顔など、怖くもなんともない。
堂々と、言った。
「私、戦車競技に出ようと思うの!」
四頭立ての二輪戦車を御者が操り、ゴールを目指す。
土埃を蹴立て、無数の戦車が競り合いながら疾走する大迫力の戦車競技は、オリュンピアの競技祭で観衆が最も興奮する種目のひとつだ。
人気の理由は、ある意味で、その危険さにあると言ってよかった。
操縦を誤って戦車が横転したり、熾烈な競り合いの中で戦車同士が接触、大破したりといった事故はよくあることだ。
馬や御者が大怪我を負う、最悪の場合には命を落とすことさえも稀ではなかった。
こんな競技に娘が出るなどと言いだしたら、アルキダモス二世でなくとも止めるのが当たり前であろうが、キュニスカは、御者として優勝を狙っているのではなかった。
そもそも、王の言う通り、出場は男にしか認められていないのだ。
戦車競技には、もうひとつの大きな特徴がある。
それは、優勝の栄冠を受ける者が、御者でも、もちろん馬でもなく、その戦車の「所有者」であるという点だった。
ギリシャ広しといえども、戦車競技優勝の栄冠を勝ち得た女性は、これまでの歴史上、一人もいない。
「私が仕立てさせた戦車を、私の奴隷が走らせれば、優勝の栄誉は私のものになる!
これなら、出場せずに優勝することができるわ。そうでしょ、父上?」
「キュニスカよ。お前というやつは……」
アルキダモス二世の表情は、先ほどまでとまったく変わらない。
その顔のままで、叫んだ。
「なぜ、そう、おもしろおかしいことばかり考えつくのだ!?
ぜひやりなさい。女が、スパルタの女が、この世で初めてオリュンピアの栄冠を受けるのだ。
それがわしの娘であるとは、痛快至極! ――なあ、アゲシラオスよ、どう思う」
「確かに、おもしろいですね」
それまで黙って父娘の会話を聞いていたアゲシラオス――キュニスカの兄は、考え深げに顎をなでながら言った。
「昨今の、馬を所有しているというだけで、さも国防のために一役買っているかのような顔をする連中に対しても、いい薬になるでしょう。
馬を持つ金さえあれば、女でも、オリュンピアで優勝できる。……つまり、ただ馬を持っているというだけでは、最も大切な男としての勇気や強さの証明にはなりっこないという事実を、連中に突きつけてやれるわけですからね。
応援するぞ、キュニスカ!」
「なんか、応援するふりをして激しく馬鹿にされた気がするんだけれど!?
……まあ、いいわ! とにかく、兄上も、父上も、許してくださるのね?」
「やるからには、優勝以外は認めぬ」
再び笑顔に戻った父の言葉に、キュニスカは、表情を引き締めた。
『この盾を携えて、さもなくば、この盾に載って』
それは、戦いにのぞむスパルタの男たちの掟だった。
生きて凱旋するか、名誉ある戦死を遂げ、仲間に担がれて帰るか。
戦いに出た以上は、そのふたつにひとつしかないという意味だ。
負けて、おめおめ戻ることは、許されない。
「もしも、優勝できなかった場合には……これだ」
アルキダモス二世が重々しく取り出した銅板を、キュニスカは真剣な眼差しで見つめ――
すぐに、その眉がぎゅっと寄った。
「……ん? 何、それ」
「『父上の言うこと何でも聞きます誓約書』だ。ほれ、ここに、お前の印章をおすところが」
「最悪! 最悪なんだけど! ……ていうか、なんでそんなもの常備してるの!?」
「いつか、これを出す日が来るのを待っていた」
「しまっといて、そんなもの!」
衣のすそをひるがえし、キュニスカは威勢よく叫んだ。
「必要ないから。オリュンピアの栄冠は、私のものよ!」
* * *
「オリュンピア……?」
「そうよ」
日陰にだらしなく座りこみ、どよんとした半眼で繰り返してきた男に、キュニスカは勢いよく詰め寄った。
「私の馬をつけた私の戦車を、あんたが御して優勝するの! さあ、今すぐに準備に取りかかりなさい!」
「正気ですか」
「あんた、首をちょん切られたいの?」
口調までどよんとしている男に、キュニスカは厳しく言った。
だが、王女と奴隷という身分の違いを考えれば、こうして男がだらしなく座っていることをキュニスカが咎めないというだけでも、破格の扱いと言っていい。
このどよんとした男こそ、当代のスパルタで最高の呼び声高い御者であり、ローカルな競技祭では負け知らずの戦績を誇る男なのである。
「もちろん、正気よ。父上と兄上の許可も、もう取り付けてあるわ」
「うわあ、無駄に仕事がはやい……」
「何よ。何か不満でもあるの? この私が栄冠を手にするために、一役買えるのよ。この世にまたとない、名誉な役目じゃないの!」
「自分で言いますか」
呆れたように呟いた男は、キュニスカから目を逸らし、思わせぶりにぶつぶつ言いはじめた。
「えー……でもなー……どうしよっかなあ」
「あんた……他の女主人だったら、今の言葉だけで三十回の鞭打ち、三回の食事抜きよ。私の心が広くてよかったわね!」
「もしも、優勝できなかったら?」
目を逸らしたままでぼそりと男が口にした言葉に、キュニスカは、次の言葉を叩きつけようと用意していた口を閉めた。
「そこらの田舎の競技祭じゃあない。オリュンピアの舞台だ。全ギリシャの人々の目の前で戦う。そこで負けたりしてごらんなさい、俺の技量の未熟さのせいで、姫さまに恥をかかせたことになるじゃないですか。もしもそんなことになったら、姫さまの父上や兄上は、俺を許してくださいますかね?」
「うーん」
キュニスカはしばらくうなり、やがて、真剣な顔で答えた。
「そんな役立たずの奴隷は、戦車ごと崖から放り出しちゃうかもね」
「最悪だ……」
ますますどよんとする男の肩をとうとう引っつかみ、がくがく揺さぶりながら、キュニスカはわめいた。
「だから、さっきから言ってるじゃないの。優勝よ! 優勝すれば、何も問題ないわ。
勇気を出して、名誉をつかみなさい!」
「優勝の名誉は俺じゃなくて、姫さまのものでしょうが。えー……うーん……どうしよっかなあ」
「ああ、もう! 煮え切らない男ね! あんたがやる気を出すまで、牢屋に放り込ませるか、足の先からちょっとずつ刻んでいかせてもいいのよ?」
「後半、急に厳しすぎません? ……しかし、姫さま、脅しは効きませんよ。御者の俺が体をいためちまったら、優勝はない。こうして俺に命じてらっしゃるのは、つまり、俺しかいないと思ってらっしゃるからなんでしょう?」
男の言葉に、キュニスカは、今度こそ完全に言葉に詰まった。
奴隷ふぜいが、なんと自惚れた、のぼせあがった、偉そうな口をきくことか。
だが、キュニスカは何も言い返さなかった。
男の言葉は、紛れもない、真実だったからだ――
「まあ、他ならぬ、姫さまの頼みですから」
不意に、どよんとした目を初めてはっきりとこちらに向けて、男は言った。
口調は、なんとなく嫌そうだったが。
「報酬をいただけるなら、お引き受けします」
「報酬!?」
これも、奴隷の言うせりふではない。
「あ、ちなみに、カネじゃありませんよ」
「当たり前じゃないの。そんなことぬかしたら、お前の耳の穴から、とかした金を流し込んでやるわ! ……何が欲しいの? 言ってみなさいよ」
居丈高にたずねるキュニスカの目に、ふと、不安の色がよぎったのを、男は見ただろうか。
(ひょっとしたら、こいつは、優勝と引き換えに、解放を望むかもしれない)
そんな思いが、キュニスカの胸に影を落としている。
こいつは、スパルタ生まれではない。どこだったか、北の方の出身だと言っていた。
解放されたら、こいつは、故郷に帰ってしまうのではないか。
こんな腕のいい御者を手放すことになったら、これほど残念なことはない。
それに――
黙っている王女をふしぎな目つきで見つめていた男は、やがて、囁くように、自分の望みを告げた。
* * *
十数日の後。
「どうして、私がこんなことをしなくちゃならないのよ!?」
早朝の台所に、キュニスカのわめき声が響きわたる。
「パン作りなんて、パン作り職人の仕事でしょ! 私はスパルタの王女よ? なのに、台所にしゃがみこんで、パンを焼いてるなんて! ……ちょっと、ヘリケ、外をしっかり見張っておいてよ!?」
「はあ」
入口に立つ侍女のヘリケが呆れたように返事をしたのも、キュニスカの耳には入っていない。
ここは、ヘリケの実家だった。
すっかり顔色を悪くした家人たちが台所の外にずらりと並び、おどおどと中の物音をうかがっては、キュニスカの金切り声が響くたびに肩を跳ねさせている。
だが、その回数も、初日と比べればずいぶんと減った。
「よし」
きれいに形をととのえ、芥子の実をまとわせたパン生地を、かまどで熱しておいた土皿の上に載せる。
パン生地は、篩にかけた小麦粉に水と塩とオリーブ油を加えて練り上げておいたところに、葡萄と粉をこね合わせてこしらえたパン種を混ぜこんで、さらに寝かせておいたものだ。
王家付きのパン作り職人を胃痛で倒れる寸前まで質問攻めにしながら製法を学んだキュニスカが、手ずから仕込んだものである。
「まったく、こんなところを父上や兄上に見つかったら、なんて言われるか――」
鉄製のパン焼き蓋を生地の上にかぶせ、かまどから掻き出した真っ赤な炭を運んで蓋の上に載せながら、ぶつぶつ言うキュニスカ。
口では文句を言いながらも、今日までパン焼きの修行に打ち込んできたその動作は、本職とは言わないまでも、その入りたての弟子くらいには手慣れたものになっている。
ふっくらとした頬の片方に、黒い炭の線が、猫のひげのようについていた。
「でも、姫さま。兄上のアゲシラオスさまは、もうご存じのようでしたよ?」
ヘリケの言葉に、炭を運ぶキュニスカの動きが、ぎしりと止まる。
「昨日、私に、そうおっしゃったんです。
姫さまが急にパン焼き職人のところへ入り浸ったり、毎日ここに通ったりなさってるものだから、気付かないと思うほうがどうかしてるって。『そのうち友人たちを集めて見物に行き、皆で指さして笑おう』とおっしゃってました。
……あと、お顔に、おひげがついてますよ」
「最悪! ちょっと、最悪なんだけど、もう!」
衣のすそで頬をごしごしこすり、黒い汚れをますます広げながら、キュニスカは地団駄踏んで叫んだ。
「ヘリケ! お前は、どうして、そういう大事なことを早く言わないの!
こうなったら、手遅れになる前に、兄上の寝込みを襲って口を封じておこうかしら?」
「これ以上、人の噂になるようなふるまいはおやめください……
女が戦車競走で優勝しようってだけでも、口さがない連中の語りぐさでございますのに」
「ふん、そんなもの、言いたい馬鹿には言わせておけばいいわ! あんまりうるさいようなら――おっと」
崩れて転げ落ちた炭を火ばさみでつまみあげ、元の場所に戻す。
キュニスカはそれきり黙って、炭がぱちぱちとかすかな音を立てるパン焼き蓋をじっと見つめていた。
大きな目に赤い光が映って、きらきらと輝いている。
やがて、香ばしい香りがあたりに立ちこめはじめた。
「そろそろ、いいかしら。……うん、いいわよね」
火ばさみで蓋のつまみをひっかけ、載せた炭ごと慎重に持ち上げる。
ふわっと、すばらしい香りが立った。
「焼けた!」
見事に焼きあがった、王女の手作りパンだ。
「最高! ね、ヘリケ、今までで一番おいしそうじゃない? 王女でありながらこんなおいしそうなパンも焼けるなんて私最高!」
「姫さまの人生が楽しそうでようございました……」
「なんか、うっすら馬鹿にしてない?」
火傷しないように、分厚い布を使ってパンを取り上げる。
デメテル女神からの賜り物と呼ぶにふさわしい重みが手に伝わってきた。
人間の命を養い、力をつけてくれるもの。
「これで、あいつの優勝は間違いなしね!」
「姫さまの優勝、でございましょう?」
「え? ……ええ、そう。もちろんそうよ」
あの日、男が出場の報酬として望んだものは、キュニスカ手作りのパンだった。
キュニスカは、それを受けた。
「私、これまでの栄えある優勝者たちがさせてきたみたいに、オリュンピアに自分の銅像を建てさせるわ。
私の戦車の銅像も作らせるの。何から何まで、本物とそっくり同じようにね。
戦車も、馬たちも――そして、御者も。
千年先にも残るわね。私たちの勝利が!」
「その勝利が、姫さまのパンでなりたっていたなんて、あとの時代の人たちは、誰も思わないでしょうねえ」
ヘリケの言葉に、キュニスカは、まだ黒いままの頬でにっこりと笑った。
「さ、あいつに、これを渡しに行きましょ!」
* * *
その年のオリュンピアの戦車競技で、男は、王女との約束を果たした。
キュニスカは全ギリシャの女たちの中で初めてオリュンピアの栄冠を受けた者として数々の詩に歌われ、彼女と、彼女の戦車、馬たち、そして御者の銅像は、他の名高い勝利者たちの姿にまじって、オリュンピアの神殿のかたわらに燦然と輝いた。
後代の著名な旅行家パウサニアスも、そのことについてはっきりと語っている。
だが、その勝利の陰に、ひと籠のパンがあったことを、後代の人々は誰も知らない。
私はこの物語を、詩歌女神さまがたの歌に従い、ここに語り伝えおくものである。
※史実とされていることを元にしたフィクションです。
特に登場人物の年齢設定に関して、史料の記述とは異なる点があります。
※「音食紀行」さま主催の同人誌『スパルタ』に同作品を掲載しております。
こちらでの公開について、主催の賛同を得ております。
主な参考文献
・アテナイオス(柳沼重剛訳)『食卓の賢人たち(1)』京都大学学術出版会 1997年
・クセノポン(松本仁助訳)『小品集』京都大学学術出版会 2000年
・パウサニアス(飯尾都人訳)『ギリシア記』龍渓書舎 1991年
・プルタルコス(松本仁助訳)『モラリア(3)』京都大学学術出版会 2015年
・舟田詠子「パン文化の宝庫」『西洋古典叢書月報(3)』1997年 4〜8頁