第二章其の二 出雲
緊張からか背を伝う冷たい汗、しかし鼓動は恐ろしく静かだった。
弦鳴は、消えてゆく。しかしいつまでも弦は震えていた。その不可思議さを感じている暇は無い。――危機は去ってはいないのだ。張り詰めた空気の中、三人は各々に辺りを見回す。さやさやという木葉の音に、下草を踏みしだく音が混じる時を彼らは待った。
「……来ました!」
そしてついに、須世理が言った。
一呼吸、たったそれだけの間だった。八千穂が矢を番えて弓を引き絞り、五十猛が剣を構えてわずかに腰を落とす。その一呼吸の後に、喧噪はこちらへと迫ってきていた。乱雑に入り交じった足音は優に十人を超えているだろう。息を詰めてそれを待つ八千穂の胸中には、敗北の予感は一欠片もなかった。しかし彼等は傀儡なのだという事実は、その胸に随分と重く感じられた。
須世理が琴を抱き直すために身じろぎをする衣擦れの音、それが耳に届いたと思った瞬間だ。木と木の隙間に、喧噪の主である人影が姿を現した。
咄嗟に八千穂は矢を放った。鏑矢は想像以上の鋭い音を立てた。ぎょっとしたように人影達は立ち竦む。その中の一人の額に、矢は正確に叩きつけられた。
男は、仰け反るようにして倒れた。声が挙がったかどうかは距離があって分からない。一瞬の間を置いて、人影は三人に押し寄せた。
その後はただ、必死だった。指先の感覚だけで鏑矢を手に取ると、力一杯引き絞った弓で狙いを定め、放つ。その度に鏑矢は鋭い音と共に八十神の額、さらにはこめかみを弾いた。須世理を後ろに守っては立ち回ることが出来ないために、矢は消費されて行く一方である。五本も鏑矢を使ったところで、残りはもう鏃を持つものだけだと気が付いた。
戸惑い、八千穂は五十猛を見た。彼は剣を手に、木々の間を縫って八十神達を次々に昏倒させている。ざっと見渡してみると、未だ棒切れを手に二本の足で立っている者はほんの三人ばかりだ。
――どうする?
先程の決意がありながら、八千穂は躊躇した。五十猛の腕があれば、すぐに片が付く人数だと思えたのだ。次の矢を弓に番えることが遅れた。その隙を見逃すほど、彼等は無能ではなかった。
五十猛を狙っていた八十神の一人が八千穂と須世理に目を留め、こちらへ向かって駆けてきたのである。五十猛までもが、一瞬焦りの表情を浮かべた。弓を引き絞る暇はない。
けれどその男は、唐突に地面に倒れ込んだ。その場にいた誰もが驚きに目を見張る。――たった一人を除いては。
一人の男が、地に伏せた八十神の横に立っていた。今まさに振り下ろされた拳を握りしめて、彼は五十猛を見る。
そして唇の端を持ち上げるように、笑った。
「後二人!」
男の発した短い言葉に、五十猛はふと笑顔になった。驚きはもう、彼の表情から消え去っている。剣を手に足を踏み出すことで、彼はその言葉に応えた。
突然の乱入者に硬直していた八十神は、いとも簡単に倒された。
木々に伝う蔓を使い襲撃者たちを縛り上げてみると、その数は十四人ほどだった。先の一人と合わせてみても、あと数人の襲撃があると思われる。そう告げた八千穂はしかし、困惑して見知らぬ青年を見上げた。体格の良い若者だ。珍しく、刈り込まれたような短い髪をしている。その色は紺青。同じ色の瞳が、やはり不思議そうに八千穂を見下ろした。
「誰だ?」
単刀直入な物言いに、五十猛は苦笑する。
「きっと二度手間になるでしょうから、彼等の呪を解くのを待って下さい」
須世理は既に琴を手に、地面に転がる八十神に駆け寄っている。そうすれば全て分かるでしょう、と言う五十猛に、男は首を傾げながらも頷いた。
炎を前に、八上は憤怒の表情を浮かべていた。額に張り付いた幾筋かの乱れ髪がいっそう彼女の表情を鬼と見せる。妖艶な赤い唇を噛み締めて、八上は鏡を抱く手に力を込めた。
『……もういい』
冷ややかな声に、八上は身を固くする。
『お前は、もういい』
「そんな……っ」
それは、彼女が最も恐れていた言葉だった。縋るような声を挙げ、鏡を凝視する。訴えかけるような眼差しに、しかし鏡は答えなかった。平たいその表面に、ただやつれきった女の形相が浮かんでいるだけだった。
「そんな、待って、待って下さい……」
細い指先で、鏡の縁を一心不乱に撫でる。撫でていた指が、縁の装飾を掻きむしり始めた。――そして最後には、八上は冷たい鏡そのものを狂ったように殴り続けていた。
「あ、ああ……っ」
形の良い爪が割れて血が滲む。最早媒介とはならない鏡を打ち壊そうとしながら、八上は嗚咽を漏らす。声にならぬ叫びのようなそれは、橙色の炎を揺らして響き、薄暗い宮の梁へと消えていった。
驚きに目を見張る八十神達を縛り上げたまま転がしておいて、四人となった一行は山道を再び出雲に向かって歩き出していた。
「しかし……あんたが新しい王か」
まじまじと八千穂を見て、男は信じられない、と呟く。八千穂はそれに当惑しながらも頷くが、対して五十猛は渋面を作った。
「失礼な物言いは控えて下さい」
「おっと、すまなかったな」
「いや……」
八千穂は首を横に振った。むしろその反応が普通なのだ。気にくわないと思うことなどなかったし、気さくな態度をとられた方が楽だ。その旨を男に告げると、彼はふうん、と笑みを零す。
「なるほど、これが建速の選んだ王か」
その名に首を傾げる八千穂の耳に、父の真の名です、と須世理が囁いた。思いもしなかった人物だけに、八千穂は面食らって男を見上げた。須佐ノ王と呼ばれた者の名を容易く呼ぶことが出来るなど、この男はいったい何者なのか。八千穂の驚きを知ってのことだろう、男は笑みをいっそう深くした。
「そうだな、俺も我らが王に名を明かそう」
そう言って、歩き続けていた足をぴたりと止めた。慌てて八千穂も歩みを止める。その目の前で、男はいきなり膝を折った。
「――俺は豊葦原が将の一人、名を水臣と申す者。この度の新たな王の門出を、心よりお慶び申し上げる」
またも将だ。呆気にとられた八千穂を、今度は短い髪を振り払うようにしてから見上げた水臣は、にっと人好きのする笑みを浮かべた。
「そういう、ふざけたところはちっとも変わらないですね」
呆れたように須世理が言った。水臣は笑って立ち上がると、腐葉土の付着した服の膝をはたく。
「まったく手厳しい。久しぶりだ。須世理も変わらないな」
そう言いながら、彼は須世理の頭をわしわしと撫でた。幼い子供にするような仕草だ。須世理はみるみる眉をつり上げ、止めて下さい、と息巻いた。
「妹を怒らせないで下さい」
呆れたように五十猛が言って、水臣の手首を掴んで引き離す。悪い、と言いながらもやはり水臣の口角は楽しげに上がっている。
その様子に、八千穂は思わず小さく声を立てて笑った。
「仲が、良いんだな」
三人は八千穂に目を向け、一瞬惚けたような表情を見せる。しかしすぐに、五十猛は苦笑し、須世理は頬を膨らませ、そして水臣はどこか誇らしげな表情を浮かべた。
――初めて、こんな表情を見た。
かすかに楽しそうな笑みを浮かべた八千穂を見つめながら、兄妹はどちらもそう思っていた。感情の見えない面立ちは、それはそれで確かに整ったものだったが、ほんのわずかに晴れやかな表情を浮かべるだけで、一変して華やいだ印象を受けるようになったのだ。
「そうだ……この、もう少し先なんだが」
ふと途絶えた会話に、水臣が唐突に切り出した。
「連れが待たせてあるんだ。早く迎えに行ってやらないと」
一人の少女が藪の中に蹲っていた。言い聞かされた言葉は一つ。
『ここを離れてはいけない』
少女はそれを忠実に守っていた。
裸足の上を虫が通り過ぎて行くのや、耳の周りで羽虫が飛ぶのを必死で耐えながら、少女はじっと蹲っていた。
――パキン
不意に、小枝を踏み折る音がした。はっとして、少女は顔を上げる。息を殺して耳を澄ますと、落ち葉を踏む音が聞こえてきた。
――あの人だ。
きっとそうだ。少女の表情が明るくなる。待ちわびたその人を迎えようと、彼女はぱっと立ち上がった。
立ち上がった彼女が見たのは、見ず知らずの男が手にした棒切れだった。
辺りの藪を覗き込みながら、水臣はしきりに首を傾げていた。
「この辺だと思うんだが……」
「忘れたんですか?」
呆れた五十猛の台詞に返す言葉もなく、水臣は唸って更に別の藪を覗き込む。
「目印みたいなものがあるなら教えてくれ。私も探そう」
八千穂が申し出る。それに礼を言って、水臣がその場所を説明しようと口を開いたその時だった。
耳に届いた地を蹴る音に、四人は即座に同じ方向を見た。
藪をかき分けるようにして必死で走っている様子の小柄な人影。――少女だ。それに続いた人影は、いっそう大柄で無骨に見える。
「あの野郎……っ」
吐き捨てるように水臣は呟き駆け出した。その反応に、少女こそが彼の連れであることを皆が悟った。八千穂は拾い集めておいた鏑矢を再び手に取り、弓に番える。その時にはもう、水臣は男に追いついていた。拳を振り上げ、怯んだ男の肩に叩き落とす。よろめいた男の頭にさらに一撃を食らわせると、男は地面に崩れ落ちた。
「ミズ……ミズオミ……」
しゃくりあげる少女が水臣にしがみつく。腰にしがみついた少女の頭を、水臣は須世理にしたのと同じように撫でた。
「すまない、遅くなった所為で……」
殊勝に謝った水臣に、少女は首を横に振った。
――ヒョウッ!
突然の鋭い笛の音に水臣は振り向く。その目に映ったのは、仰け反り、そのまま仰向けに倒れる男の姿。
「……二人目が、いたのか」
呟いて、山道の三人に目を向けると、弓を手にした八千穂が深い息を吐いたところだった。
呪を解くだけ解いてやり、経緯の説明は仲間から受けるだろうという水臣の言葉に促されて彼等は再び道を進みはじめた。小柄な少女はおずおずと他の者達を伺っていたが、水臣が早口で何か説明すると、途端に表情が明るくなった。――八千穂が驚いたことに、水臣の言葉は豊葦原の言語とはまったく違ったものだった。
「はじめまして、おうさま、あたらしい?」
一言ずつ区切るようにして喋る少女は、大きな瞳を八千穂に向けた。つり目がちなその瞳からは活発な印象を受けたが、それ以上に八千穂が気にかかったのは彼女の漆黒の髪と瞳だった。――そう、自分と同じもの。
それに加えて不思議なことに、目の前の少女からはどんな微弱な神力も感じ取れなかったのだ。
「わたしの、なまえ、アイカ。よろしくね」
そこまで言って、少女は満足げに笑った。水臣もそれを誉めるように、頭に掌をぽんと載せてやる。その様子に、五十猛もまたにこりと微笑んだ。
「秋鹿さん、随分とこちらの言葉を覚えたんですね」
覚えていますか、と少女に問いかける。初めはきょとんとしていた秋鹿だったが、みるみる瞳を輝かせ、今度は五十猛に飛びついた。
「イタケル!ひさしぶり!げんき?」
「元気ですよ。貴方も元気そうで、何よりです」
飛び跳ねんばかりの秋鹿を、当惑したように見ているのは八千穂だけではない。須世理もだ。その二人の様子に気付いたのは水臣だった。
「須世理が根国へ下った後に、俺や五十猛は佐伎国へ渡ったことがある。そこから帰ってきたとき、秋鹿は共についてきたんだ」
佐伎国とは、海の先を表す言葉だ。海原を越えた遙か先、荒波を横切り遠く舟を走らせ、辿り着く国をそう呼ぶのだ。それでは海の向こうからやってきたのか。驚きに目を見張る二人に、水臣はさらに付け加える。
「秋鹿はカミではない。――人民草、大八洲に住む者と同じ、人の子だ」
それだけ言うと、水臣は二人に背を向けて秋鹿の方へ向かった。もう放してやれ、という苦笑混じりの言葉に、少女は渋々ながら掴んでいた袖を放す。
水臣の背はそれ以上の問いかけを拒んでいる気がして、二人は顔を見合わせて首を傾げた。
それからの道中に危険はほとんど無かったと言っても良い。二、三の八十神の襲撃はあったが、彼等は難なくそれを追い払うことが出来た。水臣など腰の大刀がありながら、一度もそれを抜かなかった。
「刃の平だけでも使えば、奴等の身体が真っ二つだ」
水臣がそのように言うのは空言ではないと、八千穂に耳打ちするのは須世理だった。
「水臣殿はとても力が強いのです。戦にて呼ばれるようになった名を、八束。常の者が束になったのと同じ程の力を持つ、と」
つまりは、それこそが彼の神力なのであろう。かつて島に縄を掛け、これを引き寄せたという武勇伝があるのだとも言っていた。それが真実か否かは少年には分からなかったが、誰一人としてそれを否定はしなかった。
何にせよ、頭数の増えた一行はそれだけで賑やかになった。食料を得ることも人数がいればそれだけ楽だった。残り十日と読んでいた道のりは、それより一日短い九日目で終わった。
彼等は出雲の国境へと辿り着いたのだ。
「これで少しはゆっくりできますね」
そう言って五十猛が一歩を踏み入れた場所を、八千穂は不思議な心地で見ていた。たった一歩。それなのに、五十猛が随分と遠くなったような気がした。他の者達も次々に『出雲』へと渡って行く。八千穂もまた慌てて、その一歩を踏み出した。そうしてみても、別段変わったことはない。――ふと思い立って、後ろを振り返ってみた。
先程まで立っていた場所が、随分と遠く感じられた。
「出雲は結界です」
その様子を見ていた五十猛が、八千穂に教える。
「八雲立つ、出雲の地は高天原の“目”を覆い隠します。それに加えてこの地は、大八洲に向けて埋め込まれた豊葦原の楔の一つ。高天原が欲して止まない要所の一つでもあるのです」
「八十神どもが襲ってくることが出来たのは、俺達の位置を把握していた連中がいたからだ。しかし出雲に入ってしまえば監視は出来ない。これから先狙いを定めて襲われるような事はほとんど無いだろう」
次いでの水臣の言葉に、八千穂は頷いた。地祇達の本拠が出雲だということも、それならば頷けた。こちらの動向が筒抜けである地などが、軍勢の本拠と成り得る筈が無いのだから。