第二章其の一 旅路
鬱蒼と茂る緑、輝く太陽が、随分と久しく感じられた。
五十猛が首を反らし、杉の葉より零れる光に目を細めるのにつられて、八千穂は頭上を見上げた。色濃い緑が、枯れ野に慣れた目に鮮やかに映る。木ノ国。豊葦原の一国でありながら根国堅洲に程近いその場所は、留まるところを知らず育つ草木の国だった。
その全ての根が続く場所に、今まで居たのである。不思議な感慨に囚われて、八千穂はぐるりと首を巡らせる。須世理の姿が目に映った。その少女も木漏れ日を見つめている。ほっそりとした白い横顔、頬は仄かに桃色に染まっていた。青灰色と見えていた髪は、陽光を受けて青銀に煌めいている。
「二十日、です」
その声に、八千穂は慌てて五十猛を見た。
「それだけあれば、出雲の国に辿り着きます」
「二十日ですか?」
一月はかかる道程かと思っていた。問い返した八千穂に、五十猛は頷く。
「砦へはもう三日かかります。しかし二十日もあれば、国境へは」
ですから、と青年は続ける。
「後の三日をゆるりと行くために、これから二十日は歩き通しです」
その言葉は八千穂に、というより須世理に掛けられた言葉だった。妹姫は兄の言葉に気丈に頷き、確かめるように琴を強く抱いた。
炎が、燃える。
その橙色は女の持つ鏡に映り、女の白い手に映り、そして女の顔に映った。紅を佩いた唇が、口惜しそうに歪んでいる。
『見えぬのか』
鏡の内より、軋んだ声が響いた。
「申し訳ございません……」
醜い言い訳をするつもりは無い。八上は臙脂色の瞳を伏せた。鏡は沈黙している。炎だけが揺らめき、陰陽を造形していた。
山に分け入った少年の姿が霞がかかるように朧気になり、そしてついに炎にその姿を映すことが適わなくなって一日が過ぎようとしていた。八上はそれほど強い神力を持っているわけではない。炎と香木、そして鏡の力を借りて、やっと“目”を飛ばすことが出来る。しかしそれも、そう広い範囲には及ばない。
瞳を伏せたまま、どれほどの時が流れたか。
八上の瞼がぴくりと動いた。
目を見開いたかと思うと、俊敏な動作で香木の小枝を取り、炎に投げ込む。途端に茜色をした火花が鮮やかに散り、炎は一際高く燃えた。八上はその火柱を食い入るように見つめる。暫し揺れる炎をその瞳に映すと、女は唇の端を持ち上げた。
「見つけましたわ」
炎に映る影は三つだった。件の少年と、目も覚めるような青銀の髪の少女、そして角髪を結った青年の後ろ姿である。交わされている会話を聞くことは不可能だ。姿だけでなく声をも拾うことが出来るのは、相手を覆う神力が薄い場合のみである。しかしもう、それは些細な障壁だった。
別の小枝を炎に放ると、その三人の影はかき消える。代わって炎に映った影は、二十人はいようかと見えた。黒髪の少年と同じムラに住んでいた八十神達。元より彼らの抱く憎悪は、八上には都合のよいものだった。
八日も前に彼らに嗅がせた香は、まだその効力を失ってはいない。
根国堅洲を発って十日が経つが、目立って大きな変事も無い。木ノ国を抜けてからは木の実や草の実は乏しくなったが、根国より持ってきた食料はまだ十分にある。八千穂は袋の中から、干飯の一かけを摘んだ。咀嚼すると、それは仄かに甘かった。
「八千穂さま」
不意に声を掛けられ、八千穂は慌てて干飯を嚥下した。声の主である須世理はその様子にくすくすと笑いながら、八千穂に串に刺した干魚を差し出した。
「ありがとう」
礼を言う言葉は未だぎこちなかったが、須世理は満足そうに微笑む。そのやりとりを眺めていた五十猛は、自分もまた麻袋から干魚を取り出しながら苦笑した。
八千穂のへりくだった言葉遣いは二人に注意を重ねられて、同等な者に対するものと同じになった。けれど、それが王という肩書きに似つかわしいものだとは、まだ言えない。彼自身もそのことを分かっていたので、五十猛の苦笑が目に止まると思わず困ったような表情になる。しかし五十猛は別段注意するでもなく、手にした干魚を軽く振ってみせた。
「一刻もすれば出発です。今日のうちにもう一つは山を越えましょう」
笑顔と共に口にされた言葉は、なかなかに厳しいものだった。
木陰を縫ってゆく風が、疲弊し、熱を持った両足に心地よい。山を越えるたびに近付く、出雲と呼ばれる国。その場所をぼんやりと思いながら、八千穂は干魚を囓っていた。
再び少年の姿が炎に映るようになって十日が経つが、その影がかき消える兆しは無く、八上はすっかり安堵していた。
「のどかに食事とは、ねえ」
自分たちが狙われているとも知らぬ様子の一行に、炎を瞳に映しながら嘲るような笑みを浮かべる。
『しかし都合は良い』
鏡の内からの答えに、頷いて八上は言った。
「夕刻に差し掛かる前には、八十神が追いつくでしょう」
いくら力ある者と言えど、多勢に無勢では敵うまい。忍び笑いをするかのように、八上は袖で口元を抑えた。
――ふいん。
その音に、いや、正確にはその震動に、須世理はぴたりと足を止めた。
腕にしっかりと抱いている小さな琴を見下ろす。音を立てぬよう、胸に押しつけられている弦が、触れもしないのに細かく震えているのだった。
「須世理?」
後ろを歩いていた八千穂に声を掛けられ、須世理は顔を上げた。五十猛が振り返り、不安げに琴を抱いた腕を解く妹姫を見る。
それだけで、彼は察したようだった。
「天詔琴ですか」
確認するように言った五十猛に、須世理は頷いて答える。
「歩調を早めますか?」
「いえ……残り十日もあります。逃げても埒があかない」
交わされる言葉に、八千穂も気付いた。何に立ち向かうというのかは定かではなかったが、彼らの緊迫した表情に、差し迫る危険だけは察知出来たのだ。無意識のうちに、八千穂は肩に掛けられていた弓を外す。弓には多少の自信があった。未だ一本の矢も使っていない背の矢筒は、須佐ノ王にぞんざいに渡されたときのまま、ずしりと重く感じられた。
重いと言えば、腰に下げた大刀である。鉄。あまりに貴重なために、八千穂のムラでは矢尻として消費することすら考えられなかったその金属を、精製し、錬成して造り上げられた刃だ。剣を扱えぬ八千穂にとって、その重さは苦痛でこそあれ、頼もしさなどは感じなかった。
「五十猛、戦うなら、これを使うか?」
生大刀を指し示しての八千穂の言葉に、五十猛は目を見開く。
「剣を持たずに、貴方はどうやって身を守るのですか」
「弓がある。それに私は剣を使えない」
答えながら、八千穂は剣帯を外した。見たところ、五十猛は大刀を佩いていなかった。小刀くらいしか持ってはいまい。鞘を持ってその大刀を差し出すと、五十猛は一瞬の逡巡の後、その柄を握った。
「ありがとうございます」
慣れた手付きで剣帯を腰に巻き、結わえる。確かめるように半分ほど鞘から刀身を抜いた。陽光に反射するくろがねに目を細めた後、五十猛は再び藤葛の鞘に刃を収める。
かちり、と微かな音がした。
「――見つけたぞ!」
それと同時に、唐突に声が響く。振り返った先には、生い茂った藪から今まさに姿を現した男の姿。即座に五十猛は大刀を抜いた。須世理は兄の背に隠れるように身を翻す。八千穂は矢筒に手を伸ばし――しかしそこで、ぴたりと彼の動きは止まった。その男の顔を凝視する。
見知った顔だ。
男は棍棒のようなものを振り上げた。素早く対応したのは五十猛だった。掬い上げるように剣を使って男の手から棒を叩き落とす。
「五十猛、殺すな!」
咄嗟に八千穂は叫んだ。深く考えたわけではない。良い思い出など無い相手だが、剣が見知った相手の血に濡れるかと思うと、思わず静止の言葉が口を衝いて出た。その言葉を耳にした五十猛は、振り下ろそうとしていた刃を素早く水平に構え、そして――
――ギィィン!
斬るのではなく、叩き付けた。
脳天に一撃を食らった男はよろめいたかと思うと、昏倒し、地に倒れる。五十猛は剣を抜いたまま、辺りに首を巡らせた。
「他の者は、居ないようです」
琴の弦に細い指を置きながら、須世理が言う。五十猛はその言葉に頷くと、一つ息を吐いて刃を鞘に収めた。厳しい叱咤を予想して、八千穂は思わず弓を強く握る。けれど向き直った五十猛の表情に怒りは無かった。
「この男をご存知なのですか?」
問われ、八千穂は頷く。
「何故、殺してはならない、と?」
決して責めない調子で、五十猛はもう一つ問いかけた。八千穂は倒れ込んでいる男に目を遣り、それから五十猛を見て、困ったように眉を寄せて見せる。
「……分からない」
とっさに叫んだ自分の言葉に、彼はまだ当惑していた。その答えに五十猛は、そうですか、と苦笑のような表情をして見せた。
「この、香りは」
不意に声が挙がった。いつの間にやら男に歩み寄っていた須世理である。二人ははっと姫を見た。
「呪の香りがいたします」
「呪……ですか」
呟き、五十猛が男を見下ろす。八千穂は男と須世理の顔を交互に見た。尋常ではなかった男の殺意をふと思い出し、そして思う。かつての彼らは、自分を殺すことだけはしなかった、と。
「……傀儡に?」
「そのようです」
八千穂の確かめるような一言に頷き、須世理は男の側で膝を屈めた。抱いていた琴を地に置き、右の手でその弦に触れる。左手を男の頭の後ろに添えると、一つ、二つと弦をはじいた。
その余韻が木立に消えてしまうまで、須世理は指を離さなかった。三人は伏した男を無言で見守る。弦の震えが収まった後、須世理はそっとその指を離し、琴をゆっくりと抱え上げた。
ぴくり、と男の指が動いた。
須世理は迅速に立ち上がり、五十猛の背に隠れる。対して男はのろのろと指を伸ばし、地を掴んだ。低い呻き声をわずかに漏らしながら、男は重い身を起こす。首を左右に振ると、やおら顔を上げた。
その鼻先に、五十猛はすらりと剣の切っ先を突きつける。突然の事に男は目を見開き、ひっと引きつれた声を上げた。
「殺しはしません。――貴方がその棒を諦めるのであれば」
穏やかな五十猛の物言いに、男は知らず探っていた棒切れから慌てて手を引いた。五十猛はにこりと微笑んで剣を降ろし、切っ先を地に突き立てる。ざくりという朽ちた落ち葉が軋む音に、男は怯えた様子であった。
「お……俺は……」
歯の根が合わぬ口振りで、男が呟く。
「そ、そうだ。八千――」
「違います」
いくらか強い調子で遮られ、男は驚いて五十猛を見上げた。
「それはもう、貴方が呼べる名ではありません」
あくまでも笑顔で彼は言う。当の八千穂何か言いたげに五十猛を見た。五十猛は顔を男に向けたまま、一瞬目線だけを八千穂に向け、穏やかに笑う。
「須佐ノ王より新たにこの豊葦原を託されましたる、将冬衣が子――号を“大国主”。これより、そう呼びなさい」
「……王、だと?」
頭の巡りが悪いわけではないらしく、男は驚愕の面持ちで八千穂を見上げた。信じられぬと言っているも同然のその視線は、八千穂にはどうにもばつが悪く感じられた。そうだと自分で言うことも憚られ、無言でその目を見つめ返す。男は陸に上がった魚のように、声も出せずに喘いでいた。
五十猛はその様子に、唇の端を持ち上げたまま剣を収めた。
「私は須佐ノ王の子、屋彦と呼ばれる者です。――信じられぬなら、再び得物を手にとっていただいて構いません」
その台詞で決まりだった。男は悲鳴を上げて弾かれたように立ち上がると、縺れた脚で藪に駆け込む。がさがさと慌ただしい音はすぐに消え、後には樹枝より垂れ下がる藤葛が頼りなげに揺れているだけだった。
「あれ程までに慌てずともよいものを」
可笑しそうに須世理が笑う。八千穂は安堵の息をついたが、ふと首を傾げた。
「屋彦、とは?」
ああ、と五十猛が口を開いた。
「私の通り名のようなものです」
「戦の最中に呼ばれるようになったのですよ。にいさまの行く処、たちどころに砦が建つ故に、屋彦と」
誇らしげに付け加えた須世理に、五十猛は苦笑で答えた。
その表情に八千穂は思う。彼は剣を扱うことに随分と手慣れた様子であった。何でもないように笑ってはいるが、五十猛はいったいどれほどの戦を経験したというのだろう。
剣を、弓矢を受け取ってしまった。戦は最早他人事ではない。けれど八千穂には、どうしても、いつか自分もあのように笑うようになるのだとは思うことが出来なかった。
「小娘が……!」
形の良い眉をつり上げて、女は吐き捨てた。天詔琴。恐るべき宝物だ。いとも簡単に術を解かれた。無論、少女自身の神力の高さもある。
『須佐ノ王の子達、か。では既に、あの者は王と出会ってしまったか』
鏡の内より響くその声は、冷たい。八上は唇を噛んだ。
「じきに……じきに他の八十神共も追いつくでしょう。あの者は一人であったからいけないのですわ」
己に言い聞かせるように八上は呟き、食い入るように炎を見つめた。熱に浮かされたように走る一人の男。いったい、何が恐ろしいのか。八上に分かる筈もなく、それがいっそう苛立たしい。
八上もまた、恐ろしかった。
失望されたのではないか、と。
「問題は無いでしょう」
そう断定した五十猛に、八千穂は不安げに眉を寄せて見せた。私は名を知られている、という八千穂の言葉を受け手の台詞だった。男に呪を施した者が居るならば、その名は敵に知れている、と。
その表情に気付いた五十猛は、八千穂に向き直る。
「貴方の口から知れた名ではなければ、呪をかけられることはありません」
「――そうなのか」
知らなかった、と八千穂は呟いた。母親から教えられた禁厭や呪術の知識はムラの翁や媼すら凌ぐほどであったのだが、まだまだ知らぬ事も多いようだ。これから多くを学ばなければならない、そう思いながらもひとまずの安心に、八千穂は溜息を一つ吐く。
けれど、それも束の間の安息だった。
「きゃ……っ」
須世理が悲鳴を上げたのだ。同時に、琴が鳴り始めた。
敵襲か。
「鷹羽の矢は、鏑矢です」
それを受けて唐突に言ったのは五十猛だった。
「眉間を狙って下さい。殺したくはないのでしょう」
「五十猛……」
微笑んだ青年に胸の詰まる思いがして、八千穂は彼を見上げた。堅い木の根より作られた鏑矢は、空を切るとき笛のような音を立てる。しかしその仕掛けのために、鋭い鏃を持たないのだ。殺すな、と、その自分の一言に気を遣わせてしまった申し訳なさ、そして感謝に、八千穂は目を伏せる。
「……ありがとう」
しかし矢の一本で相手を魂駆けさせることが出来るかどうかは、八千穂の腕に委ねられていた。また矢筒に収められている鏑矢は多くない。
――いざとなれば、鋭い鏃を使うことも厭うまい。
改めてそう決意して、八千穂は矢を確かめようと矢筒を背からおろした。
その様子に目を遣ると、五十猛は次に須世理の方を振り返る。
「にいさま、琴が」
今や弦鳴は、更に大きくなっていた。姫は不安げに五十猛を見る。それを宥めるように微笑むと、五十猛は鞘から刀身を抜き払った。
「隠れていなさい、須世理」
「は、はい……」
須世理は辺りを見回すが、どこから敵が来るとも知れない。琴を強く抱く姿は所在ない様子である。それを見た八千穂は、声をかけることを迷わなかった。
「姫、私の後ろに」
須世理は驚いたように八千穂を見る。しかし少年は 急いた手つきで、矢筒を再び背に固定する作業に取りかかっていた。聞き違いでなければいいと思いながら、須世理は誰の耳にも届かぬように言う。
「――はい」
頬は、知らず紅潮していた。