第一章其の七 出立
流血表現を含みます。
並ぶ五つの塚の端、他よりわずかに離れたそれは、一回り程も小さかった。
盛られた土も新しい、その小塚を前にして、少年は膝をついていた。表情が無いために、彼の整った面立ちはいっそう作り物めいて見える。永遠にも思えるような長い間、八千穂は微塵たりとも動かなかった。鼓動や息遣いでさえ存在していないかのように、髪の毛のひと筋も揺れはしない。
五十猛は(イタケル)八千穂の背を見下ろしていた。掛ける言葉も見つからず、ただその垂髪を見つめていたのだ。櫛稲の用意した真新しい衣の白い背には、傷を負い、血を流していた八千穂の姿は見えなかった。
――それなのに、こんなにも痛ましい。
彼は心を抑える術を知っている少年である、と五十猛は思っていた。しかし今はどうだ。抑えきれぬ想いが、まるで器から溢れる水のように地に滴り落ちてゆく。居たたまれない心地がして、五十猛は音を立てぬように踵を返した。
「……阿久斗は」
不意に、静寂を割った声が、五十猛の背の向こうから届く。その名を口にした声の調子は、あまりに不自然に平静だった。
「いえ、化生は。いったい、どれ程の時を経れば、鬼に変じるというのでしょうか」
五十猛は八千穂に向き直った。声を発したために、少年の背は微かに震えたようだった。
「……百年、二百年では足りません。千代程の年月が過ぎれば、鬼に変じることもありましょう。けれど」
答える五十猛の声も、静かだ。
「多くは怪我に、病に倒れます。鬼に変じるのは一握り……です」
八千穂が振り向く。尾のように括られた黒髪が翻る。――黒い瞳が五十猛を見上げた。
「須佐ノ王は鬼を見ました。膨れあがった蛇が、里の民を呑んでゆくのを。私の母もその時に、姉たちを喰われたと」
だから殺す。例え、鬼に変じることなく消える命であろうとも。
乱暴な理論だ。しかしそれは、荒ぶる者たる王の性である。そしてそれは、ある側面では真実でもあるのだ。歳古りた化生は皆、明日にも鬼に変じるのではあるまいかと恐れている。
「須佐ノ王は、戦い、殺すことで、豊葦原を守ろうとしました」
讃えるでも責めるでもない、静かな声を五十猛は紡ぐ。憤ってくれたなら、八千穂も共に須佐ノ王を責めることが出来るだろう。もし王を讃えたとしても、逆に五十猛を恨むことが出来る。けれどもそのどちらでもない青年の姿に、八千穂は口を閉ざしていた。
唇を噛むような八千穂の表情に、五十猛は微笑して見せる。
「貴方は、どんな王となるのでしょうね」
「僕は……っ」
王、という言葉に、八千穂は即座に強い調子で返した。五十猛はふと違和感を覚える。しかし、それが何かとは思い至らなかった。
「僕は王になど……!」
懇願にも似た眼差しで、八千穂が彼を見上げた。その短い言葉の中に、不安も、憤りも、全て含まれている気がした。
五十猛は膝を曲げ、八千穂に目線をそろえる。
「貴方の神力は地に根差しています」
いったい何を、と思う八千穂に対して、五十猛は脈絡も無く話題を変えた。
そう、八千穂には思えた。
「先程の稲を見たでしょう。あれこそが貴方の神力、育む力です」
そして死者すら黄泉帰らせる治癒の力、と、五十猛は胸中で付け加える。
「それは、豊葦原の力でもある。大八洲の人民草に、糧を与えるのがかの地の役目。――だから貴方は王なのです、八千穂さん」
五十猛はにこりと笑った。
「けれど……」
その言葉を否定するかのように、八千穂はかぶりを振る。しかし五十猛は口を噤まなかった。
「豊葦原には、真の王が必要です。その性を同じとする、大地の王が」
風を性とする須佐ノ王では、豊葦原は御しきれなかった。荒ぶる彼の勢いは、そのまま戦に表れた。豊葦原を衰弱させる、戦に。
青年の笑顔の下の想いに、八千穂は戸惑うように眉を寄せる。大地、という言葉が胸の奥で響いた。そうだ、大地は苦しんでいる。
呻き、すめき、喘ぐ――その声を、八千穂は知っている。常に傍らにあった耳鳴りのような地の声を、知っているのだ。
八千穂の表情がわずかに変わったのを、五十猛は見た。何か言いたげではあるが、それだけだった。青年はそれ以上を言うことはせず、母親から言いつかった言付を穏やかに残すに留める。
「床が用意してあります。今夜は、ゆっくり休んで下さい」
――そして、王になるのではなく、王であるのだと、気付いて下さい……。
五十猛は八千穂に背を向ける。枯れ草を踏んでゆくかすかな音と、どこか遠くに聞こえる風の音だけが感じられた。
耳の奥底に響く音を聞くまいと、八千穂は衾を頭まで被るようにしてうずくまっていた。それは蛇や蜈蚣の這う音とも似ている。あるいは蜂の羽音か。根国堅洲の地の声は豊葦原とは異なり歓喜の色に満ちていたけれど、それでも今は耳を塞いでいたかった。
ふと、一人で眠るのが随分と久しぶりであることに気付く。ここ七日程は傍らに阿久斗が居た。それ以前、八十神のムラに居た頃も、若衆宿と呼ばれる寝屋で他の若者達と寝食を共にしていたものだ。他人のいびきに眠れぬ夜さえあった。
それなのに、今は己の鼓動さえ聞こえる。
一度そう思ってしまうと、その音は一際煩く感じられた。八千穂には居心地の悪い真新しい衣の上から、胸に衾を握った拳を押し当てる。しかしその音が止まる筈もなく、かえってそこに血潮が流れているのだと、確かになるだけであった。
――根国堅洲よ、何が嬉しい。
地の声にたぎる己の血が悔しくて、八千穂は胸中で吐き捨てる。失われた幼い化生の命など、根国堅洲にしてみれば爪の先程の関心事ではない。当たり前のその事実が、ひどく口惜しかった。
かき消そうとすればする程に、耳鳴りは音を増してゆくようだ。それは鼓動と共鳴りを起こし、八千穂が眠ることを許さない。
――何が嬉しいんだ……
認めたくは、なかったのだ。
自分が王であるなどと。
必死で気付かぬふりをして、八千穂はきつく瞼を閉じていた。衾を再び手繰り寄せ、鼓動を整えようと細く息を吐く。肺の中の空気を全て絞り出したところで、彼は一度呼吸を止めた。
『瞼の裏の闇ですら、黄泉の闇には敵わない』
突然に、そんな言葉が脳裏に響いた。はっとした拍子に、八千穂は思わず息を吸い込む。反射的に開いた瞼は、結局夜の闇を見た。
いつの、誰の言葉だっただろうか。消えてゆこうとするその言葉の、尾を掴む心地で思い起こす。
――これは。
『されど私は行くだろう』
再び響いた別の言葉を、今度はしっかりと抱き留める。遙か昔に聞いた心地のするその声は、落ち着き払った女の声だ。
――これは……
『私が願うはただ一つ』
淡々としたその言葉は、随分と簡単ながら、呪言の形式をとっている。そしてこれ程簡略化された呪言に効果を期待するならば、その術者の力は相当なものだ。
声を聞いたことのあるそれ程の女性といえば、八千穂には一人しか思い出せない。
『我が子、八千穂の神力を――封じらん』
――母さん……?
掴んだ言葉に見えた真に、八千穂は気付く。
『さあ、これで終わった。忘れなさい八千穂。思い出すときまで』
声の調子が突然変わった。これはいったい何だ。遙か遠い記憶の再現にしては、あまりに鮮やかなこの声は。
『そのときが来ないことを、祈っている――』
言葉が終わり、一瞬の間をおいて、突然に目の前が真っ赤になった。
「な……っ!」
驚き、咄嗟に目を覆う。その赤がじわりじわりと消えてゆき、やがて再び闇色しか見えなくなるのには、そう長い時間は要さなかった。
――まるで水面に血を流したような。
無意識にそう思った次の瞬間、ざあっと血の引く思いがした。
まるで、ではない。
血は、確かに流れたのだ。
「母さん……っ」
何故忘れていたのだろう。幼い自分の目の前で、喉をかき切った母の姿を。
《私の仕えていた御方に言われたことがある。私は刺国、国を揺るがす者。王の出現に不可欠な者なれど、王の出現を妨げる者だそうだ》
なれば妨げよう。お前を戦場に立つ者になどにさせない。そう言って唇を引き結んだのが、最後の母の表情だった。
――何故忘れることが出来たのだろう。
血で織り上げられた封印は、血によって解かれた。
そして、それが誓約の終わり。
人と神との間なら、誓約は占いでしかないが、神と神との間なら、それは文字どおり約束だ。神力の強大さに比例するその拘束力は、卜占の比ではない。命を賭さねばならぬことも珍しくはなかった。
その誓約の効果は失われたのだ。封じられていた神力を自覚せよ、と須佐ノ王は言った。その意味するところはただ一つだろう。
――“そのとき”が、来たのか。
「神産巣日神……貴方ですね」
姿が見える筈もない相手に向かい、聞こえるか聞こえないかの微かな声で八千穂は呟いた。会話を再び現してみせる、など。
そうまでするか、と思った。
耳鳴りは相変わらず煩くて、脳裏に響いた声の余韻と混ざり合う。八千穂が深く考えることを疎んじているようだった。
――そうまでして、僕を王にと望むのか……!
何故と考えるより先に、望まれるならそうあるまで、という結論に至った。それは思考を奪う音の所為だったのかもしれない。
けれど八千穂は気付いていた。その決断すら、神産巣日神の掌の上で舞っていることに等しいのだ、と。
王となりましょう、と言った八千穂に、須佐ノ王は笑みを深くして頷いた。
「その言葉、確かに受け取った」
真向かうように座した二人の間には、剣と弓矢が揃えてある。武具を前にした少年の姿に、須佐ノ王は髭をさすった。
――本当に、面白い奴よ。
昨日あれ程困惑を露わにしていたくせに、一夜が明けてみればどうだ。開き直ったとも言うべき彼の態度は、いささか栄養が足りなかったと見える、未熟な骨張った体躯の中に壮士の片鱗を見せていた。
「王ともあらば、号が必要になるだろう」
「号、ですか」
八千穂は腑に落ちないような表情をしているが、無理はない。真の名が知れ渡ることは首を絞められることに等しいのだと、実感できる程の立場にいたことが無かったからだ。
「そうだな……豊葦原の、国土の王」
須佐ノ王は暫し考え込んだ。大仰華美な号はいかにもこの少年には似合わぬように思われたのだ。ややあって、王は顎に掛けていた手を膝に置いた。
「“大国主”だ」
簡素だが、その意味するところはあまりに重い。
八千穂は深く礼をした。
それから出立までは早かった。当の本人が知らぬ間に、あれよあれよと荷が纏められ、そして今、八千穂は須佐ノ王の館の門に立つ。
傍らには、何故か五十猛が居た。
「同行して下さるのですか?」
八千穂の問いに、五十猛は柔らかく笑った。
「そのような言葉遣いは無用です。今、私の仕えるべきは大国主なのですから」
王が不在であった百年の間、須佐ノ王の意を豊葦原の軍勢に伝えていたのは五十猛だ。根国堅洲と砦を幾度も行き来し、火の手を上げる高天原の軍勢に対抗してきた。しかし真の指導者無くしては、長続きはしないだろう。そう思われた矢先の八千穂の出現だ。正直疲弊しきっていた五十猛は、そのことに大変安堵していた。
戦の行く末がどうなるか、ということについてはまた別の話であるのだが。
改めて呼ばれた己の号にぎこちなく頷く八千穂の前に、裳を引いて櫛稲が進み出た。彼女は五十猛と同じ表情で八千穂に手を差し延べる。
「これを、どうぞ」
その手に握られていたのは、碧の管玉を連ねた首飾りである。それを受け取り驚いた様子の八千穂に、櫛稲はくすりと笑った。
「鎮めの力を籠めておきました。今のままで山歩きなどなさったら、どうなるとお思いでしたか」
その言葉に稲に囲まれて当惑していた八千穂を思い出し、五十猛は控えめに吹き出した。
「木々が生い茂って進めなくなりそうですね」
「蔦に足を絡め取られるかもしれませんよ」
どこまで本気か分からぬ、母子の暢気な問答だった。
「本当ならば、櫛稲が他の男に物を贈るなど許さぬのだがな。今回は特別だ」
須佐ノ王が八千穂に歩み寄り、耳打ちする。
「……ありがとうございます」
その言葉に八千穂は場違いに礼を言うと、首飾りを掌に載せてまじまじと見入った。玉などとは無縁の生活を送ってきたが、その石の見事さには気付かざるを得ない。青竹色、水浅葱、白緑。蒼天の下、岩礁に叩き付けられる波の色、水底へ続く碧だ。
「どうした、それは首に掛けるものだぞ」
からかい混じりの口調で須佐ノ王が言うのに、慌てて八千穂は碧玉の環に首を通す。内心、管玉を欠いてはしまわないか、紐を千切ってはしまわないかと緊張ししていた。
ところがその緊張は、管玉のひやりとした感触が首元に感じられた途端に別の驚きにすり替わる。不意に、周りが静かになった気がしたのだ。
もはや意識もしていなかった耳鳴りが、ぴたりと止んでしまったのである。
「神力に慣れるまでは、肌より離さずにいてくださいね」
櫛稲の言葉に、こくりと八千穂が頷いた、そのときだった。
「――とうさまっ!」
明らかに怒気を孕んだ少女の声に、八千穂は思わず肩を竦めた。確かめるまでもなく、須世理である。
振り返ってみれば、肩を上下させる少女の姿があった。怒りに紅潮した頬、眉をつり上げたその表情は、はっとする程美しく見える。胸に何かを抱き込んで、須世理は四人の元へと駆け寄った。
「何をそんなに怒っているのか」
「惚けないで下さい! 私を閉じ込めるなどとは……などとは!」
少女は父王に詰め寄った。須佐ノ王は気まずげに頬を掻いて、娘を見下ろす。
「……どうやって出てきたのだ」
「戸を破りました!」
須世理の答えに、須佐ノ王が呻いた。
「確かに、あの戸は薄かったが……しかし」
まだ何か言おうとする父親を、須世理はきっと睨む。
「とうさまなど、知りません!」
言って、彼女はくるりと須佐ノ王に背を向けた。八千穂はその父娘の会話に仰天して二人を眺めていたのだが、次に須世理が自分を見たことには内心更に驚く。何かこの姫の気に障るような真似をしたのだろうかと、柄にもなく心が騒いだ。
しかしそんな八千穂の思惑を余所に、須世理は苦笑めいた表情を浮かべる。
「申し訳ありません。お見苦しいところを」
「いえ」
八千穂が首を横に振ると、須世理は花が綻ぶように笑った。
「実は、お願いがあるのです」
「私にですか?」
頷いて、両の腕を延べる。腕に載せられて示されたそれは、装飾の施された小さな琴だった。
「“天詔琴”、です。これがあれば、私とて足手まといではありません」
共にお連れ下さい、そう言った須世理の晴れやかな表情に、八千穂が反対など出来る筈もない。しかし須佐ノ王を見てみれば、まるで苦虫を噛み潰したかのようだった。
途方に暮れる八千穂に、五十猛が助け船を出した。
「父上、こうまで言っているのです。道中も私が居るのですから」
櫛稲も穏やかに言い添える。
「若い娘が、根国で今までじっとしていたのですよ」
再び豊葦原の地を踏みたくもなるだろう、という妻の言葉に、須佐ノ王は随分躊躇した挙げ句、渋々ながら諾と言った。
若者達が、枯れ野を進んでゆく。時折振り返るのは須世理だ。櫛稲はそれに小さく手を振るが、須佐ノ王は腕を組んで不機嫌に黙っていた。やがて彼らの姿は小さくなって、根国堅洲と木ノ国とを繋ぐ道へ消えてゆく。
針の先ほどのその姿が見えなくなったその時である。須佐ノ王は不意に腕を解くと、大きく息を吸った。
「いいか若造!」
凄まじい大声だった。
「真に大国主と成れ!」
遙か遠くへ声を届かせるために、両の掌で口を囲んでいる。
「高天原に、その名を轟かせよ!」
低い声が根国の天井の岩盤に跳ね返り、奇妙に響いた。幾重にも重なったその音が、八千穂の耳に届いたかは定かではない。届いたとしても、それは既に聞き分けることの出来る“声”では無かったかもしれない。
その叫びの余韻が消えたとき、須佐ノ王は確かに笑みを浮かべていた。
櫛稲が、夫の袖を引く。
「ねえ建速、私たちはどうしましょう?」
妻に呼ばれた真の名に、王と呼ばれていた男はいっそうの笑顔を見せる。それを八千穂が見たならば、五十猛は彼の子なのだと心から納得したことだろう。
「無論、早急に海原へ行かねばな」
月読が煩いのだと建速は苦笑した。
「どんなところでしょうね」
「そりゃあ、海原と言うくらいだ。鯛や鮃の舞い踊りだろうよ」
さぞや美しかろうと二人は笑って、屋敷の門をくぐる。もちろん旅支度を調えるためだった。
そしてこれより、建速と櫛稲の名は、歴史より姿を消す。
戦神と畏れられた須佐ノ王は、二度と表舞台に立たなかったのだ。
第一章 了