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第一章其の六 過去

 耳に入ったその言葉は、しかし解するには暫くの時間を要した。


 呆けたようにしている八千穂を見て、須佐ノ王は再び声を上げて笑う。

「私は、そのような」

 訳も分からぬままに、少年はかぶりを振った。与えられた情報の全ては切れ切れに、形を成してはいなかった。けれど、それでも耳に残った一つの言葉がある。

 ――次代の王、などと。

「そのような……」

 再び口にしたその言葉は、掠れがちに消えた。

 八千穂の表情はあまり変わることがないのが常であった。今もそうだ。眉根を寄せて当惑を示してはいるが、傍目にはそれ以上には見えはしない。けれど彼は混乱していた。端正な顔がわずかに俯いて、またも小さく溜息が漏れた。

「父上」

 諫める調子で五十猛イタケルが言う。

「先に申し上げました通り、彼は自身のことながら何も知らないのです」

「ああ、そうであったか」

 言うが早いか、黄金色の稲を薙いだ右手をそのままに、須佐ノ王はいきなり左手で八千穂の腕を掴んだ。驚いたような八千穂を気にする様子もなく、稲穂の円陣から引きずり出すようにして立たせる。

「そこに座り込んでいては差し支えるだろう」

 五十猛の隣を指し、座れと示した。素直にそれに従いはしたが、八千穂の戸惑いは隠しきれてはいない。腰を下ろしながらも、どこか構えた様子であった。須佐ノ王はそれを認めると、自らも稲穂の群より一歩離れる。

 その時、ふと、少女の声が響いた。

「父さま」

 呼ばれ、王は娘を振り返った。その瞳には、ちらと怒りが見える。

「何だ?」

「その方は、お怪我を負っていらっしゃるのですよ」

 憤然とした調子で言う須世理スセリに、須佐ノ王は一瞬毒を抜かれたようだった。僅かな間をおいて、また笑う。

「で、ですから、そのような無体は真似は……」

 軽くあしらわれたという怒りから、須世理の頬に薄く朱が上った。その様子を、須佐ノ王はくつくつと笑いながら見遣る。

「ほう、そうか――しかし、この者のどこに傷がある?」

「……まあ!」

 酷い言葉だ。いつ黄泉路へ赴こうとおかしくはなかったその傷を、手当てしたのは須世理自身だというのに。しかし言い返そうとする少女を、須佐ノ王は片手で制した。

「もう、治っている筈だ」

 須世理が不思議そうに眉を寄せる。王は八千穂を見た。

「溜め込んでいた神力が溢れたのだろう。黄泉帰りの術さえ使いかけたというのに、己の傷が癒えぬ訳がない」

 そうだろう、と問いかけられて、八千穂は今更ながらにそれに気付く。

 ――痛みが、無い。

 渇いた血糊に染まった服の上から、腹の辺りを押さえてみた。転がり落ちてくる大岩を、避けることも適わず受けた記憶は新しい。須世理の肩を借りながらも、鈍い痛みを忘れることなど出来なかった筈だ。けれど、きつく巻き付けてある布はそのままであったが、その下に傷があるのだとは全く感じられなかった。右手をそっと握り締め。開く。射抜かれた肩は痛まない。

 驚きに八千穂は目を見開いた。そしてその様子に須世理も、父の言葉が真実であることを知ったのだった。

「さて、どこから話そうか」

「全ての始まりから、です」

 須佐ノ王の自問のような言葉に、律儀に応えたのは五十猛だった。王は承知した、と言ってあかがね色の髪をがりがりと掻きむしると、適当な場所に座り込み、居住まいを正す。

「長い話になる……」

 呟いたその言葉は、あまりに遠い過去を想っていた。



 照姫テルヒメは高天原を、月読ツクヨミ夜之食国ヨルノオスクニを、須佐は海原ワタノハラを治めよと、那岐ナギの父神は三人の子に命じた。生まれながらの王たる彼らは三貴子と呼ばれる。

 思えば、それが始まりであったのか。

「暫くは、俺達は皆その命を忠実に守っていたよ」

 王の言葉は皮肉な響きを帯びていた。

「いつからだろうな。……いや、端からかもしれぬ」

 そう、最初から。

 天照姫の望むものは、月読尊とも須佐ノ王とも違うものだった。もっと言えば、月読の望むものとて、照姫とも須佐とも違うのだ。彼らは血を分けた姉弟でありながら、あまりに互いに違っていた。

 それも、当然なのかもしれない。彼ら三人は、互いの真の名すら知らないのだから。“天照姫アメノテルヒメ”、“月読尊ツクヨミノミコト”、“須佐スサオウ”。その全てが仮の肩書きだ。

 照姫は、多くの神の坐す高天原を任せられたことに驕った。更なる力と領地を求め、そして目をつけたのが豊葦原だった。豊葦原にも多く神が坐した。しかし王は居ない。統治されぬ彼らは、日々流れゆく時を心のままに生きていたのだった。

「簡単に手中に収められると思ったのだろうよ」

 照姫の統制した高天原の軍勢の元に、豊葦原の神々が対抗できる筈もなかっただろう。

「しかし父は豊葦原に王を定めはしなかった。豊葦原に王は必要なかったのだ。豊葦原を照姫に渡してはならなかった――少なくとも、俺にはそう思えた」

 一際大八洲オオヤシマに近い豊葦原は、それ故大八洲に影を落とす。豊葦原が熟すれば大八洲もそうなるし、干上がればそれに続く。神々は気ままに生きているように見えながら、その均衡を崩さぬように己の神力を発していたのだ。

 高天原がそれを壊しにかかったので、国々は軋みはじめた。日照りと思えば長雨になるといった具合で、自然病も流行る。

 けれど那岐の父神は須佐の問いに対して、老蒙した答えしか返さなかった。

『お前次第だ』

 歯がみする思いだった。その時程、黄泉へ下った母に会いたいと願ったことはなかった。三貴子の行く末を示して欲しいと、縋りたかったことはなかった。

「俺は高天原へ赴いた。照姫を止めたいと思ったのだ。しかし――我が姉君は、どう言ったと思う?」

 須佐ノ王の唇の端が、歪む。

「高天原を奪いに来たのだろうと、血走った目で俺をなじった」

 あの金に輝く髪に縁取られた美しい面が、鬼のように変じていた。恐れを知らぬと謳われた須佐ノ王に、それを覚えさせる程の勢いであった。

 そして獣を狩るように矢を射かけられ、ついに須佐ノ王の怒りは堰を切った。

「生まれて初めての大暴れだったな、あれは」

 笑いながら須佐ノ王が言ったが、口調はやはりどこか寂しかった。

「剣は、敵意は無いことを示そうと照姫に渡してしまっていた。それでも何人か殴り殺した。家々を覆し、田を壊した」

 そして豊葦原へ降り、自らを王と名乗り、高天原を迎え撃った。

「本末転倒だと思ったか?」

 須佐ノ王が問うた。確かにそうだ。豊葦原に王を定めないことを、望んだのではなかったのだろうか。

「豊葦原は照姫の治めるべき国ではなく、同じように俺の治めるべき地でもない……仮の王だ」

 永の時を戦った。幾千の神が死んだだろう。それは豊葦原についても、高天原についても然りである。己の胸騒ぎだけを理由に、須佐ノ王は戦い続けた。世界はその間も軋んでいた。

 一番酷い綻びを見せたのは、主が不在となった海原だった。吹き荒ぶ風の性を持つ須佐ノ王がいたからこそ、海原には波の躍動があり、そしてそれが命を育む。だから王を失った海原は躍動をも失い、それ故に海原の民である和邇わにたちは、一人また一人と倒れていった。

 その海原に救いの手を差し延べたのは、三貴子の残りの一人、月読尊だった。彼は戦には決して介入しようとはしなかったけれど、世界の軋みには人一倍気を張っていた。月の巡るに海原を重ねて波を生み、命の消えゆくを留めようとしたのだった。

 月読は使者を寄越す。海原を治めるのはお前なのだ、どうか諍いなどやめて戻ってくれ、と。使者は全て、彼が神力を注いだ化生であった。

「始めに送られてきたのは梟だったか」

 夜之食国には馴染みが深いものであろう。

きつ鹿かのししましら……いずれも、歳古りた化生共だった。俺はそれらを全て切り捨てた」

 指折り数えながらの淡々とした言葉に、その場にいた者、全員の顔が強張った。――須佐ノ王も含めて、だ。

 切り捨てるより他に、どうすればよかった。彼らは全て己の運命を理解していた。化生に変じた獣の末路を。

「化生の行く末を知っているか?本来なれば決して得ることのない神力は、奴等にとっては重すぎる」

 神の手によってか、或いは神力の留まる場所にて年を経たか。何れにせよ、それは獣の身の器には収まらぬ力だ。

「故に自我を失い、鬼へと変じる」

 その最大たるものと、須佐ノ王は戦ったことがある。水の神力を得た蛇の化生から、後に彼の妻となった女を救った折であった。巨大な鬼灯ほおずきのような瞳の、八つの谷、八つの丘を渡る程に膨れあがった化け物は、民草達を貪り食った。

 月読がそれを知らなかった筈がない。おそらく月読は、使者を殺すことで須佐ノ王に罪悪感が芽生えるのを期待していたのだろう。だからこそ最後の手段とでも言うように、あのような子供を送って寄越したに違いない。

「末路も知らぬ哀れな仔兎だった。同胞と共に豊葦原へ送り出されて、ただ俺を捜して使者となれと言われていたそうだ」

『夜之食国より海原を越えてやって参りました。和邇の一族を数えながらやって参りました。それだけ彼らは減ってしまった。どうか、お戻り下さい、須佐ノ王――』

 教えられた言葉をそらんじている訳ではない、心からの言葉であった。

 使者の役目を果たした阿久斗に、須佐ノ王は化生の行く末を話して聞かせた。何故自分が使者を殺すのかも教えた。覚悟はあるかと問いかけた王に、阿久斗は確かに頷いた。――わずかに、青ざめながら。

「……これが真実だ。そして奴等を切り捨てることで、俺もまた迷いを切り捨てていた。それも否定する気はない」

 須佐ノ王は、腰に佩いた大刀にそっと手を掛けた。

「この剣の名は、“生大刀いくたち”。切り伏せた者の新たな生を約束する剣だ」

 彼に似合わぬ静かな声に、無言で話を聞いていた八千穂は唇をそっと噛んだ。俯いた八千穂を察しながらも、王は話を続ける。

「そんな折だった。翌日に戦を控えた俺に神産巣日神カミムスヒノカミが託宣を下したのだ」

 曰く、時は巡り来る、と。

「それだけの、言葉だった」

 けれど目の前の少年を見れば、真実は疑うべくもない。待ち望んだ真の王。手の内にあるこの少年に望むものは、とうの昔から分かっていた。

 ――高天原の軍勢に、豊葦原を渡してはならぬ。



「始まりの話はこれで終わりだ。さて、五十猛、次はお前の番だろう」

 長い語りを終えた須佐ノ王が言った。五十猛はこくりと頷くと、八千穂の方をそっと窺う。俯いていた少年が顔を上げた。射干玉の瞳に映る困惑に、五十猛は苦笑めいた笑みを返す。

「私が知っていることは、ほんのわずか――たった二つの事柄です」

 いわれ無き迫害に傷を負った者が、この木ノ国を訪れる。その託宣を下した神産巣日神が、次いで語った言葉があった。

「その者の母の名は刺国、神産巣日神に直に仕えた巫女。そして父の名は」

 八千穂は戸惑いを忘れ、驚いて五十猛を見遣る。

 母から死んだと聞かされた、父の名を彼は知らなかった。

「名は、冬衣フユギヌ

「……ほう」

 その名に反応を示したのは須佐ノ王であった。片眉がぴくりと持ち上がる。よもや父を知っているのかと、八千穂は王を振り返った。

「私の父を、ご存じなのですか?」

 今まで聞き手に回り沈黙を守っていた八千穂であったが、はっきりと真実を告げない彼らの態度に、思わず問いが口を衝く。須佐ノ王はそれに頷き、肯定の意を示した。

「冬衣は俺の部下、豊葦原の将の一人だった」

 須佐ノ王の言葉に、八千穂は瞳を見開いた。将、と王は言った。その地位にある者が、どれ程の神力を持った人物なのか知らぬ八千穂ではない。己の母である刺国が巫女であったことは知っていたし、その神力の強さも知っていた。だからこそ己が力を持たぬのは父から受け継いだものなのだと、心のどこかで考えていたのだ。

「将……」

 呟いて、遠い記憶に思いを馳せてみる。しかしその情景のどこにも、父親の姿は存在しなかった。

「勇敢な方でした」

 八千穂のどこか寂しげな様子を気に掛けてか、五十猛は小さく微笑んだ。

「私も将として、共に戦ったことがあります」

 目の前の穏やかに笑う青年が、戦場に立つ情景というのも想像し難い。しかしそれ以上に八千穂には、彼らの言葉の端々に見える――追慕が気にかかった。

「父は、既に黄泉路を辿ったのですね」

 それもおそらく、戦の中で。確かめるような八千穂の言葉に、二人は頷く。ただ父親は死んだのだと、母に聞かされて育った幼い時分。しかし、かえって今になって、その事実は酷く悲しく感じられた。

「冬衣に妻子がいたとは知らなかったが……成る程、確かに面影がある」

 八千穂の思いを知ってか知らずか、独りごちるように須佐ノ王が言う。

「愛想が無いところがよく似ているな」

「父上……」

 笑みを浮かべながらの王の言葉を、五十猛が呆れたように諫める。愛想が無いなどと言われた当人はといえば、父に似ていると言われたことを喜んで良いものかと当惑していた。

「ふむ、冬衣は剣技の名手であったな。どうだ、お前は剣が得意か」

 問われたのは自分だと気付き、八千穂は首を横に振る。

「剣を持ったことはありません」

「では、弓は」

「狩りでならば」

 答えながら、八千穂はいくらかの不安を感じた。須佐ノ王が、武芸について自分を期待しているのだろうかと思ったからだ。将であった父の後釜として考えられているならば、それに応えられる筈がない、と。

 しかし須佐ノ王は何を思ったか立ち上がると、ちょっと待っていろ、と言い残して部屋を出て行く。八千穂は不思議に思い、五十猛に目を遣るが、彼もまた困ったように首を傾げた。

 何か落ち着かず、八千穂はそわそわと居住まいを正す。その耳に、くすりという笑い声が届いた。

「あの人ったら、あんなに嬉しそう」

 そう言ったのは櫛稲クシナである。八千穂は彼女の名を知らなかったが、王の妻であることは伺い知れた。おっとりとした笑い方だった。けれど、彼女はふと笑うのをやめ、その視線を八千穂に向ける。困惑のような曖昧な表情を浮かべて、櫛稲はほんの少しだけ首を傾けた。

「ごめんなさい」

「……え?」

 唐突な謝罪の言葉に、八千穂は戸惑った。櫛稲はそれ以上は何も言わない。しかしその苦笑めいた表情の下の悲しさに、八千穂は気付いた。そして、それが五十猛と同じものであるということも。

 席を外した須佐ノ王のことを考える。

 化生は鬼に変じるのだと彼は言った。それと戦ったことがある、妻を助けた折りだった、と。――故に、王は化生を殺すのだと。

 それ以上考える前に、再び須佐ノ王が戻ってきた。

「待たせたな」

 そう言う彼の両の手には、長弓と矢筒が握られていた。須佐ノ王は八千穂に歩み寄ると、放るような無造作さでそれらを差し出す。慌てて、八千穂は弓矢を受け止めた。

「これは」

「“生弓矢いくゆみや”。お前の性に相応しい名であろう。おお、これもだ」

 当惑する八千穂を余所に須佐ノ王は剣帯を外し、腰に佩いていた大刀の鞘を持って八千穂に手渡そうとした。

 けれどその時八千穂の脳裏を過ぎったのは、振りかざされていた刀身、血の海に伏した子供の姿だった。思わず、わずかに身を引く彼に、しかし須佐ノ王は強引に大刀を押しつける。意気に圧されて受け取った剣に、八千穂は畏れるように目を落とした。

「……どちらも、私には必要ないものです」

 それだけの辞退の言葉を呟くように言葉にする。しかし須佐ノ王は口の端を持ち上げると、どかりと八千穂の前に腰を下ろした。

「必要になる」

 少年は顔を上げて須佐ノ王を見る。

「何故――」

「王だからだ、お前は」

 断定的な言葉に、八千穂は戸惑い、言葉に詰まった。

「今まで封じられていた、己の神力を自覚しろ。王無き豊葦原の行く末を思え。さすれば迷いは無い筈だ。何をためらうことがある」

 朗々と、芝居がかった調子で須佐ノ王はたたみかける。

「……お前は何のために生きている?」

 付け加えるように口にされた言葉が、やけに真摯に響いた。

 どうすればいい。

 どうすれば。

「――時間を」

 絡まり合った思考の中から、八千穂は辛うじてそれだけを見つけ出す。

「時間を、下さい」

 喉を震わせて発せられた言葉に、須佐ノ王が頷いた。

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