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第一章其の五 覚醒

暴力・流血表現を含みます。

 一瞬であった筈のその光景は、何故かゆっくりと、鮮明に展開された。


 何かが削れるような音と共に、阿久斗の小さな体躯がくずおれた。

「ひ……っ」

 八千穂を支える須世理スセリが、ひきつれたような悲鳴を漏らす。突然のことに反応できないでいた少年は、その小さな声に正気を取り戻した。途端目の前に広がる、板張りの床を染め上げる赤い赤い血の色。

 そして鮮血の海に浮かぶのは、白く幼い子供の身体であった。

「阿久斗……っ!」

 叫び、八千穂はその化生の子供に駆け寄った。己の傷の痛みは、既に意識の外であった。それに初めて気付いたかのように、血の滴る大刀を下げた須佐ノ王が振り向く。返り血を浴びたその姿に、須世理は八千穂を止めることすら忘れて顔を覆った。しかし少年は王には目もくれず、倒れ伏し、動かぬ阿久斗の身体に手を掛ける。

「八千穂さんっ!?」

 隣の間に控えていた五十猛が驚いたように姿を現す。そして目前に広がる光景に目を見開き、耐えきれぬように視線を逸らした。

 阿久斗の肌はまだ温かだったが、急速に熱が失われつつあることはすぐに分かった。先程聞こえた音は、骨を断つ音だったに違いない。袈裟切りにされた身体は上半身と下半身が不自然に歪み、かろうじて繋がっている限りである。断ち切られた衣から覗く赤は血の色だけでなく、腹圧に押し出された腑だ。見開かれた瞳はそのままに、紅い瞳孔は大きく開き、もはや光を映してはいなかった。

「阿久斗! 阿久斗ぉ……っ!」

 八千穂は子供の肩を掴み、三度名を呼ぶ。元より並外れて白かったその肌は、今ではもう青いと言える程だった。血に濡れた箇所の赤との対比が、作りもののように際立って見えていた。

「――五十猛イタケル

 唐突に名を呼ばれ、五十猛ははっとして顔を上げた。

「この者は?」

 父、須佐ノ王の言葉だった。短い言葉ではあるが、鋭く響く声である。指し示すのはもちろん八千穂だった。五十猛はその問いにわずかに躊躇を見せる。妹姫を窺うように見れば、彼女は青ざめた表情で、しかし確かに頷いて見せた。

「……我が領地にて、使者と共に追われ傷付いていたところを保護いたしました」

 王の不評は買わぬようにと、言葉をひとつひとつ、慎重に選んでゆく。そっと八千穂に目を向けてみたが、彼はまだ骸に向かって半狂乱に呼びかけていた。

「八十神がムラの民、名を――」

 そこで五十猛は言い淀んだ。己が父に対してのことだとて、他者の名を勝手に明かすなど礼儀に適う所作ではない。しかし先程、無意識にだが彼の名を呼んでしまったような気もした。暫しのためらいを見せた後、五十猛は何も言わずに八千穂の方へ目を遣った。


 名を呼べど、名を呼べど応えぬ阿久斗に、ふと八千穂は揺さぶる手をぴたりと止めた。阿久斗の身体を半ば抱きかかえるようにしている腕が、掛けられた指が震える。

 共に歩いたの記憶はほんの七日。けれど、互いを真に友だと疑わなかったと、応えを返さぬ骸を前にしてさえ確信できた。傷の手当をしてやったときに見せたあどけない笑顔、お前を置いて行けるかと流した涙が、あまりにも鮮明に思い出せた。

 血の染み込んだ衣を握る八千穂の指に、関節が白く成る程力が籠もる。

「う……うわぁああ……っ! ああああ!」

 言葉にならぬ慟哭が、震える喉から絞り出された。


 ――その時、八千穂の叫び同時に、凄まじい衝撃がその場を襲った。


「きゃ……っ!」

「く……っ!?」

 突然のことに体勢を崩しながらも、須世理は柱に縋り付いた。須佐ノ王と五十猛は動揺しながらも踏み止まる。衝撃は一瞬では過ぎ去らなかった。拳を握り締めてそれに耐えながら、五十猛はその根元に顔を向ける。須佐ノ王もまたそちらを見ていた。

 そう、八千穂を。

「八千……っ」

「静かにしろ、五十猛」

 思わず名を呼びかけた青年を父王が制する。納得がいかないまでも口をつぐんだ五十猛に、しかし須佐ノ王は顔を向けなかった。その視線は化生の子供の骸を抱える少年にだけそそがれている。髭に覆われた口元には、うっすらと笑みすら浮かべていた。

 八千穂自身は周りの様子にも、己が現した神力にすらも気付かぬように声の涸れた嗚咽を漏らす。

 しかしその時、八千穂に抱えられた子供の骸は異変を起こしはじめていた。腑が見える程の大きな刀傷に溢れていた血、それが沸々と泡立ちはじめたのである。

 再生、だった。

 ぴくり、と、阿久斗の指がわずかに震えるのさえ、彼らは見たのだ。

 兄妹は愕然と嗚咽に震える少年の背を見ていた。黄泉ヨミ帰りの術を使うなど、三貴子たる己が父すら不可能であろう。それは天地開闢に携わった、国生み以前の最上位神たちだけに許された力である。ましてや八千穂の髪も瞳も漆黒だ。神力などほとんど持たぬと考えるのが道理であろうに。

 それなのに、この凄まじい重圧を起こす程の神力は、何故。

「……残念だが、それは禁忌だ、小僧」

 須佐ノ王が呟き、大刀の柄を振り上げる。

「父さま!?」

 須世理は柱に縋ったまま高い悲鳴を上げた。五十猛は我知らず、父の行動を止めようと身を乗り出している。しかし重圧に耐えかね足は進まない。

「眠らせるだけだ」

 言って、王は勢いをつけて腕を振り下ろす。どさ、という重い音と共に、柄で首を打たれた八千穂は鮮血の広がる床に倒れた。

 途端に今までの重圧が嘘のように体が軽くなった。青い顔をした須世理が八千穂に駆け寄るのに続いて、五十猛は妹姫の横に膝を突き、八千穂の腕より離れた子供の骸を持ち上げる。

 体温は、失われていた。

「それでいい」

 大刀を拭い、鞘に収めて須佐ノ王が言う。王は無造作に腰を屈めると、微動たりともせぬ少年の身体を担ぎ上げた。彼は決して小柄ではなかったが、須佐ノ王の屈強な肩に抱え上げられると幼い子供のように見える。不安げに涙を浮かべて八千穂の手を握っていた須世理は、突然に引き離されたことに戸惑い父王を見上げる。その視線に応えるように、須佐ノ王はにやりと笑った。

「五十猛、その兎の童はいつものように。櫛稲クシナの部屋に移るぞ」

「母上の部屋に、ですか?」

 言葉を濁す五十猛に、須佐ノ王はわずかに声を低くする。

「この度のことを説明してもらわねばな」

 言い返せない五十猛の沈黙を背に感じながら、須佐ノ王は歩みを進めた。須世理もまた慌てて立ち上がり父を追う。追いながら、振り返って血の海の中の子供を見た。

 唇を噛んで自分を見た妹に、五十猛は思わず顔を背けた。

 手を下したのは確かに父、しかし。


 血液を失った軽い身体を横抱きに抱え上げ、五十猛は無言で踵を返す。向かうは敷地の片隅に作られた、四つの塚の並ぶ場所。


 五つ目の塚を作るのは、贖罪であるような気がした。


 □ □ □


 五十猛が再び父と合流したのは、それから四半刻程経ってからのことだった。須佐ノ王への釈明の場で、父子といえど見苦しい格好は出来ない。土と血糊に汚れた衣を整えたはいいが、角髪みずらに結っていた髪が乱れてしまったのには難儀して、結局高い位置で一つにまとめて括り上げる。正装には程遠かったけれど、今は時間が惜しかった。

「やっと来たか」

「――失礼いたします」

 先駆けた須佐ノ王の言葉に、五十猛は一礼をして部屋に足を踏み入れる。窺うように首を巡らせて、父母と、妹と、そして八千穂の姿を認めた。円を描くように広い部屋の中央に散らされた稲穂、その円の中にぞんざいに投げ出されている少年は、今だ意識を取り戻していないようだった。

 五十猛に視線を向けたのは、結局のところ父母だけだった。須世理はといえば不安げな面持ちで、八千穂を見つめるばかりである。治癒しきっていなかった傷が気になるのか、それともまた別の理由か。

 いくらか寂しく思いながら、五十猛は内心苦笑を漏らした。そのような彼の心境を知ってか知らずか、母である櫛稲は五十猛に向かってやんわりと笑いかける。同じ表情でそれに応える様は、まさしく母子といったところか。稲穂で作られた鎮めの結界は、この若々しい母親の敷いたものだった。

「さあ、話してもらおうか」

 髭に覆われた顎を撫でながら須佐ノ王が言う。随分と落ち着きを取り戻した五十猛は、しかしその言葉に小さく首を横に振った。その動作に、王の眉がぴくりと持ち上がる。

「全てをお話しすると誓います。ですが」

 五十猛の視線は八千穂に向けられた。

「彼は自身のことながら何も知らない。出来れば共に聞かせたく思います」

「……いいだろう」

 にやりと笑って、須佐ノ王が頷く。櫛稲が、小さく何かを唱えた。

 途端、八千穂が弾かれたように身を起こした。動転した様子で彼は首を巡らせ、射干玉の瞳を瞬いた。

「……あ」

 渇いた血のこびり付いた衣に目を落とし、それからその視線を須佐ノ王に留めると、彼の瞳は大きく見開かれる。それも無理はない。意識を失っていたというのなら、あの惨劇はつい今し方のことと感じられることだろう。五十猛は思わず、再び衝撃に見舞われることを予測して身を堅くした。

 けれど、彼は深い深い息をひとつ吐いて、ゆっくりと瞳を伏せたのだった。

「ほう」

 八千穂のそんな様子に、須佐ノ王は唇の端を持ち上げる。

「全くもって面白い奴だ。お前、よもや夢と思っている訳ではあるまいな」

「――そのようなことは」

 いっそ夢であれば良いのにと思いながら、八千穂はかろうじて口にした。意識を失うほんの一瞬前、あの白い子供は、確かに温かさを取り戻した気さえしたのに。

「何故、睨め付けることをせぬ」

 再び王が問う。八千穂は戸惑うように、屈強な骨張った顔を見返した。

「どうしてですか」

「俺はあの子供を手に掛けたのだぞ」

 率直なその物言いに、八千穂は柳眉を寄せた。

「理由が、おありでしたのでしょう。私如きが何か言える筈もありません」

 八千穂は自分の神力を心得ているつもりだった。炭のような髪と瞳が現すように、神力など持たない人の子と同じ存在であると。

 先程現した神力のことは、もはや意識の片鱗にすら無かった。

「理由が無いと言ったら?」

 須佐ノ王が揶揄するように言う。八千穂ははっと息を呑んだ。しかしそれもほんの束の間に、詰めた息はゆっくりと吐き出された。

「私に何を言わせんとしていらっしゃるのかは、量りかねます」

 確かめるように、一つ一つの言葉を口に出す。

「ですが、王が何を思い、何のために阿久斗を殺したか知ることは、私には意味がありません」

 無情ともとれる物言いだ。しかしこの場には、その意を汲むことが出来ない者はいない。八千穂の静かな横顔を見つめる須世理の瞳は今にも涙が滲みそうであった。

 ――八千穂さま、あなたは。

 彼があの化生の子供のことを本当の弟のように思っているのは、彼を止めようと縋り付いたときに察していた。何があったのかは想像の範疇でしかないが、それでもあれ程の傷を負った中で共に歩いたのだろうから、その絆は疑うべくもない。

 ――あなたは、ただ悲しむのですか。

 須佐ノ王を畏れてではなく、ただその思いを内へ内へと凝らせるように。おそらく一度吐き出してしまった感情のあまりの激しさのため、胸の内には空虚な悲しみしか残ってはいないのだろう。

 そんな娘と少年を交互に見た母姫は、縋るように夫の背を見る。五十猛は歯がみするように顔をしかめていたが、やおらに膝を突き、八千穂に向かって一礼をした。

「……どうか責めて下さい」

「五十猛殿……!?」

 その言葉に、八千穂は思わず名を呼んだ。

「私が連れてきたのです。殺されると分かっていながら、それでも」

「そんな、いえ、顔を上げて下さい」

 方や王の子、それも、鮮やかな緑の瞳を持つ高位神である。八千穂は戸惑い、思わず五十猛の方に手を伸ばした。袖がわずかに、環状に並べられた稲穂を掠める。


 途端、それは芽吹いた。


「……え?」

 八千穂は幻かと目を疑った。その稲穂の籾という籾から乳色の半ば透き通った芽が伸び、それは、やがて若緑を経てするすると育っていく。連鎖反応を起こしたように、触れもしなかった稲穂が一歩ずつ遅れながらやはり芽吹く。気味の悪さに八千穂は即座に腕を引いたが、結局彼は密生する稲の描く円の中に閉じこめられることになった。

 その場に居た者は皆、呆気にとられて突如現れた緑の稲穂の群集を見た。円の中に居る八千穂も然りである。

 しかしそこに、場違いな程のどかな声が響いた。

「あら、まあ……素晴らしい実りだこと。ねえ、あなた?」

「う、うむ……」

 少女のように微笑む妻、櫛稲に、須佐ノ王は我に返って頷いた。まじまじとその緑の塊を見つめると、細い茎の向こうから当惑したように窺う黒い瞳に気付く。

 何よりも深い、漆黒の瞳に。

「くくっ……はははは! 成る程! そういうことか!」

 突然に、須佐ノ王は笑い出した。精悍と思われた顔の中に、一瞬隠されていた陽気さが見える。ひとしきり彼は笑って、それから己の息子に目を遣った。――呆けたように須佐ノ王を見る、膝を突いたままの五十猛に。

「今のうちに、しっかり頭を下げておけ」

「はい?」

 当惑したように聞き返した五十猛に、やはり須佐ノ王は笑った。自分だけが何もかも心得ているといった様子で、当然周りの者は良い気持ちがしない。

「教えて下さいな、私たちにも。何がお分かりになったのですか」

 王の袖をついと引いて、櫛稲が問う。そんな妻の様子に破顔して須佐ノ王は立ち上がり、茂った稲穂に手を掛けると中の八千穂が現れるようにがさりと薙いだ。

「黒髪、黒瞳――類無き鮮やかな漆黒(・・・・・・・・・)だ」

 髪の色、瞳の色、それらの鮮やかさは神力に比例する。だからこそ黒に近ければ近い程、無力な八十神、神力を持たぬ“人”でしかないのだ、と。それが世界の条理であるのは、誰も疑わぬことであった。

 だが全ての色を内包しながらに拒絶する、真なる黒を身に纏って生を受けたカミは。

「待った甲斐があったというものだ……見つけたぞ」

「何のことですか。私は――」

 己の神力に自覚のない八千穂は、しかし須佐ノ王の言葉に戸惑う。助けを求めるように五十猛の方に目を遣ったが、彼は真摯な瞳で八千穂を見つめ返した。

「納得が、いきました。神産巣日神が、何故彼を助けよと仰せられたか」

 ぽつりと、自分に言い聞かせるように五十猛は言う。その言に王はにやりと笑った。

「ほう、神産巣日が、ではいよいよ間違い無いな」

 父子は互いに視線を交わし、頷く。


「豊葦原を継ぐ者――次代の王は我が手中だ」

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