第一章其の四 対面
瞼の裏の闇の中、熱を失っていく己の身体が、あたたかな手で包まれたのを知った。
離れに運び込まれた八千穂は、清潔な敷布の上に横たえられた。不安そうに阿久斗が窺う中で、少女は実にてきぱきと働いた。止血のために巻いてあった布と血糊のこびり付いた衣を解き、上半身を露わにする。熱い湯に浸し、きつく絞った布で傷口をそっと拭う。小振りの壷を取り出してきて、その中の薬を惜しげもなく傷に塗り込んだ。――まずは臓腑に近い傷を処理しなければ。
「にいさま、清潔な布をもう一枚持ってきて下さいな」
「にいさま、お湯をもう一度沸かしてきて下さいな」
五十猛も妹姫に請われるままに、屋敷の中を行き来している。阿久斗だけが所在なく、ただ八千穂の血の気のない顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですよ、阿久斗君」
所用の合間合間に、五十猛は阿久斗を安心させようと繰り返す。
「身体の傷は、魂まで至ってはいませんでした。こうして治療を行っている以上、これ以上の悪化はありません」
その言葉を後押しするように、少女も美しい笑顔を阿久斗に向けた。
「でも、ここは黄泉なんだろう。こんな、死に近い場所で」
訝しげに阿久斗が言う。しかし子供の予想に反して、兄妹は驚いたように顔を見合わせたのだった。
「黄泉……? いえ、違います。ここは“根国堅洲”であって、黄泉とは別のものです」
五十猛が説明するが、阿久斗には納得がいかなかった。
「だけど、光の届かないこの場所が、黄泉でなくてなんなんだ?」
自分は死者の国に居るのだとばかり思っていた阿久斗は、訳が分からず二人の顔を見る。少女は少し考え込むような仕草をして立ち上がり、部屋の隅に据えられていた櫃に寄った。櫃を探り、数枚の色とりどりの紗の切れ端を取り出して阿久斗に向かう。
「ではこの藍の紗を、黄泉平坂の下の下、黄泉の国といたしましょうか」
そう言って、一枚の紗を床に広げた。さらに半分だけ重ねて上に、群青の紗を広げる。
「これが、根国堅洲です」
阿久斗が頷く。続けて妹姫は浅紫の紗を取り出し、やはりずらして重ねた。
「大八洲国。人民草の住む場所です」
色調が、青から赤へ変わる。
「その上に桃染の紗、これが豊葦原、地祇の坐す場所です。最後に紅――高天原、天神の坐す場所です」
五枚の紗を重ね、並べたとき、そこには見事に様変わりする一連の色が見て取れた。
「この世は、何層にも、何層にも重なっているのです。私が示したのは、我らに馴染みの深い、ほんの五層に過ぎません」
「……根国とは、生命の根なのですよ。黄泉へ下った魂は、根の国を経て生を受けると言われます。大八洲、豊葦原、高天原に生きる全ては、ここに根を張っているのです」
続けて五十猛の優しく諭すようなその説明を呑み込むと、阿久斗は神妙に頷いた。けれどもふと、疑問が浮かぶ。
「夜之食国や海原も、この中に?」
その疑問に、少女はにこりと笑って答えてやった。
「そうです。加えて……この世界の全てを造った、造化三神の住まう常世国が、どこかにあると伝えられます」
「へえ……」
与えられた情報を咀嚼するように整理して、阿久斗はふんふんと一人頷いた。そして兄妹に向かってにこりと笑う。
「それなら、きっとこの国に満ちる力は、八千穂を助けてくれる」
安全なのだと、やっと認めることが出来たのだ。とたんどっと疲れが押し寄せてきて、軽い目眩のようなものを感じた。それを悟ったのだろう。妹姫が言葉を紡ぐ。
「あなたも、休んで下さいな。疲れていらっしゃるのでしょう。床の準備をいたします」
しかし阿久斗は首を横に振った。八千穂が目覚めるまでは、眠ることなど考えられないのだ。そんな阿久斗の気持ちを測って、兄妹はそれ以上のことは言わなかった。けれど、ついに耐えかねた阿久斗は、うつらうつらと船を漕ぎ始める。五十猛は八千穂に倒れ込む前にその身体を受け止めて、隣の間に用意した敷布に運んでやった。
「やっと休んでいただけましたね」
少女が、兄に向かって嬉しげに笑った。けれどそれに応える五十猛の微笑みは、どこか。
「にいさま」
すう、と少女が目を細めた。
「お話下さいな……わたくしには分かりません。あの化生の子は、何をしにここへ」
あのように幼く、弱い、神にもまだ届かぬ兎。何故須佐ノ王の治める根国へ、あえて降ってきたのであろうか。
けれど妹のその問いに、五十猛は答えない。
憶測の真実とはいえ、それを告げることはどうしても出来そうになかった。
□ □ □
この地に太陽は無い。月も、星も無い。ただ枯れた草の続く平原、遠くそびえる山々。本当にここが生命の源たる地なのかと、問われてもただ頷くしかない。
その荒野に佇み、瞳を閉じれば分かるかも知れない。黄泉より沸き立つ魂を、汲み上げる根の深い鼓動、枯れ草を巻き上げ吹き荒ぶ風の、慟哭にも似た目覚めの叫びを――感じることが出来るかも知れない。
けれど術を知らぬ者にとっては、結局その場所は枯れ果てた草原でしかなかった。
八千穂は、術を知る幸運な者の一人だった。
五十猛の背で手放した意識を、本当はもう一度掴むつもりもなかった。ただ全てが億劫で、助けに来たという五十猛には悪かったが、自分の命など惜しくもなかったのだ。
けれど今、胸の奥深く、己の鼓動に同調するように、語りかけてくるものがあった。
目を覚ませ、と、ただそれだけを。
それに促されるように、八千穂は瞼をこじ開けた。感じていた腹の鈍痛は随分と薄れ、足や背の火膨れも痛んでいない。手足の一本も、損なわれていなかった。
五十猛に感謝しなければ、そう思い深く息を吸い込んだ、その時だ。
「八千穂……っ!」
突然に視界が塞がれる。
「痛ぅ!?」
腹に走る引きつれた痛み。子供の身体がのしかかってきたのだ。塞がりきっていなかったらしい傷が、破れるかと思う程だった。それに気付いて、阿久斗は慌てて身を引く。八千穂は二、三度咳をして、涙目になって子供を見た。
「ああ、お前も、無事だったんだな」
流石に異国の装束はもう着ることが出来なかったらしく、阿久斗はこざっぱりとした、この国の衣装に着替えていた。ざんばらな白髪も誰の手によってか綺麗に結われ、まるで祭に備えたように玉を帯や耳に携えている。
「お目覚めになられましたね」
それを怪訝に感じる暇もなく、耳に涼やかな声が届いた。鈴を転がすような少女の声。はっとして首を巡らせれば、奥の間の間仕切りの手前に、肩を並べる青年と少女。青年はもちろん五十猛だった。隣の少女には見覚えが無い。
彼女程に美しい姫を、八千穂は見たことはなかった。背に流れる青銀の髪、露草色の瞳、紅を差したような唇に浮かぶ微笑みは柔らかく、それはどこか五十猛に似ていた。
少女は一歩進み、膝をつく。
「はじめまして、八千穂さま。わたくしは須佐ノ王の娘、名を須世理と申します」
「はじめ、まして……」
何気ない挨拶の声が、掠れる。自分がこのように怪我人で、情けなくも床に転がっているという状態が妙に悔しかった。頬に血が上る。
「私の妹です。貴方の治療をお願いしたのですよ」
五十猛の言葉。須世理がはにかんだように笑って見せた。そんな姿もいじらしい。
「そうだったのですか、貴女が……ありがとうございました」
横になったままでは礼も出来ず、起き上がろうとして阿久斗に押し留められた。どん、と勢いを付けて床に抑えられ、背の打ち傷が痛んで顔が歪む。何をするんだ、と言おうとすると、阿久斗はにっと笑って見せた。
「寝てろ、って。おれはちょっと用があるから――美人さんとよろしくやっててくれ」
最後の全く子供らしくない台詞は、わざわざ耳元で囁くように。
「阿久斗っ!」
「怪我人なんて恐くないよ」
減らず口を叩いて飛びすさり、けけけ、と笑う子供が憎らしい。そんな二人の掛け合いを、須世理はにこにこと笑って眺めていた。けれど五十猛の表情は、どこか堅い。
「……阿久斗くん」
名を呼ばれ、子供はくるりと五十猛を振り向いた。
「五十猛さま、連れていってくれるんだろ?」
「阿久斗くん、君は」
五十猛に見下ろされた阿久斗は、持ち上げられていた唇の端を引き下ろして、ぽつりと言った。
「先延ばしにはしたくないんだ」
八千穂と須世理は状況が掴めず二人の表情を窺っていた。しかし兄の表情に、須世理ははっとする。もしかしたら、と。
「にいさま、まさか」
「“使者”ですよ、この子は」
呟くような五十猛の声に、須世理は青ざめた。八千穂だけが何も分からない。疎外感を禁じ得ず、眉をひそめて彼らを見る。この子供がどこに行こうというのか。
そして気付く。そもそも自分は、阿久斗の目的を知らないのだ。
五十猛の口にした須佐ノ王の名にあれ程怯えを見せていたくせに、その屋敷だというこの場所で、何故このように平然と振る舞っているのだろうか。
「とにかく、行こう」
さらに言い募る阿久斗に、五十猛は躊躇した後、しぶしぶながら頷いた。
二人が部屋を出ていく。その背をじっと見つめる須世理の青い横顔。
「……何があるのですか?」
彼らが居たときには憚られて口に出来なかったその問いをぽつりと漏らす。須世理が八千穂を振り返った。その瞳に映る色は何だろうか。諦めか、悲しみか、それとも怯えか。
長い睫毛が震えている。血の気の引いた肌はいっそう白く、透き通るようだ。
「あの子は、王に会うつもりです」
王、とは則ち須佐ノ王のことであろう。その意が掴めず八千穂は訝しげに眉を寄せた。
「幾度も、使者はこの屋敷を訪れました。けれども一人として――使者の一人として帰路についた者はおりません」
「な……っ」
その意味するところを察し、八千穂は目を見開く。須世理が、続けた。
「皆、王に殺されたのです……」
「いけません!」
須世理は叫び、八千穂に縋り付く。けれど所詮は手弱女だ。歯を食いしばって八千穂は身を起こし、少女を引きずるようにして這った。二人が、最後に背を向けた方向へ。
「放して、下さい……っ!」
腑が千切れそうだった。嫌な脂汗が額に浮かぶ。数歩分進んで彼は激しく咳き込んだ。――どうやら本当に腑が千切れたらしく、板張りの床に赤い色が散った。
「お願いです、やめて……っ」
髪を振り乱して須世理が嘆願する。その傷の深さを知る治療者だから分かるのだ。彼の行動が、いかに危険であるのかと。
けれど八千穂はやめなかった。口元を衣の肩で拭うと、腕を使って立ち上がる。足に力が入らない。痺れたように感覚が薄かった。
「く……っ」
「おやめください……二度と立てなくなってしまいます……」
須世理の声は、もはや啜り泣きに近かった。その悲痛な声が、だんだんと冷静さを取り戻させる。思えば自分は、王の居場所すら知らないのだ。
八千穂の足から一気に力が抜けて、彼は床に膝をつく。崩れ落ちそうな上体を腕で支えて、まともに声を出すこともままならぬ乱れた呼吸を整える。須世理がその背を優しくさすってくれた。
「――すみませんでした」
「いえ、お気持ちはよく分かるのです……」
頭を垂れた八千穂に、須世理は首を横に振って見せた。父を止めることも出来ぬ自分がもどかしく、そしてそのような父が悲しかった。
八千穂は少女の顔を窺う。本当はこうして自分を止めるのを、迷っているのがありありと分かった。誰も阿久斗を見殺しにしたい訳ではないのだ。
少年は唇を噛んだ。
「姫君、どうか私を、王の所へ連れていって下さい」
自分の体の状態も、危険だということもよく分かっていた。しかし、阿久斗をみすみす死なせることも、須世理にこんな表情をさせることも、彼は望まなかったのだ。
須世理に肩を貸り、八千穂はそろそろと床を踏みしめていた。時折響く痛みにも、段々と慣れてきてしまった。――痛みに慣れるというのも、因果な話ではあるのだが。
思えばムラの若衆たちに打たれ、蔑まれてきたのが役に立っているのか。そんなことを考えながら自嘲的な笑みを浮かべた八千穂を、不思議そうに須世理が見る。
「……なんでも、ありません」
言って、彼はそっと首を巡らせた。豪奢な館。しかし調度の類はあまりに少ない。この場所に住む者の少なさ故か、それともそのような細やかなものを、王が好まぬ所為なのか。
「あちらが、王の間です。にいさまは、もう一つ奥の間に控えています」
少女の声が耳に届く。ぼんやりと考え事をしているといつの間にやら辿り着いたらしい。八千穂は慌てて顔を上げる。二間程離れた場所から、灯りが漏れているのが分かった。
「須佐ノ王が、あそこに……」
誰に告げるでもなく少年は呟いた。幾年月も豊葦原を統べ、戦乱を招いた王がそこに居る。神経が張り詰め背筋が粟立ち、冷たい汗が流れた。
一歩、もう一歩。歩を進めながら、ここへ来て自分は何をするつもりなのだろうかと、今更ながらに自問した。答えは、無い。どうしようもないではないか、と囁く声はあえて無視した。今願うのは、阿久斗の無事だけだった。
一歩、もう一歩。大きな背が見えた。八千穂はごくりと息を呑む。燃えさかる炎のようなあかがねの髪、筋骨逞しい腕が腰の大刀にかけられている。まさしく須佐ノ王に違いない。
その向こうに阿久斗の姿が見えた。膝をつき、顔だけを上げて王を見ていた。須佐ノ王と比べ、その体躯はあまりに幼く、小さい。ふと、彼と目が合った。阿久斗の瞳が驚きに見開かれる。そして――
止める暇も、無かった。
王は大刀を抜いたのだ。