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第五章其の六 終戦

流血表現注意。

 東の空は白みつつある。明かり取りの窓から見える空には、けれど未だに星が瞬いていた。その清浄な朝の大気の中に、馬の鼻息の音がした。訪問者だ。首を巡らせ、戸口を見る。簾が揺れた。そうして姿を現したのは、彼の予想にあったまさにその者だった。

「よく来たな、大国主――」

 掠れた声で、彼は言う。夜通し疾駆してきたのだろう。白い息を吐きながら、八千穂は大股で彼に歩み寄った。そうしてすらりと大刀を抜き払う。その切っ先を彼に突きつけて、少年は口を開いた。

「全て聞いた……水蛭児ヒルコ

 その大刀程に鋭い眼差しをした八千穂を、彼は今まで見たことがない。

「いや、久延彦クエヒコ殿と呼んだ方がいいのだろうか」

 そう言い直す声音には、揶揄する色は一欠片もなかった。彼は――久延彦はおとがいを上げ、唇の端に笑みを浮かべる。

「どちらでも構わぬ……意味するところは同じだ」

 負けたのだ。この永の戦の終焉は、目の前の少年によってもたらされるのだ。久延彦は深い感慨さえ覚えていた。黄泉への恐怖は、不思議と無かった。


 今や長江山の簡素な小屋は、豊葦原の兵士に幾重にも取り囲まれていた。太刀を突きつけられたままに、久延彦は気配でそれを察した。八千穂が射抜くような眼差しでこちらを見ていた。

「照姫に鏡を通し指示を出していたのは、貴方か」

「そうだ」

「八上に鏡を与え、呪を使わせたのも、貴方か」

「……ああ、そうだ」

 ぎりぎりと大刀の柄を握りしめるために、その切っ先は小刻みに震えていた。

「何故、豊葦原の王になりたいなどと思うんだっ!」

 叫ぶように八千穂は言った。久延彦は笑みを浮かべたまま、顔にかかる藁色の髪を払うために首を振った。そうして露わになった表情は、八千穂が思っていた程に年老いてはいない。けれど何よりも彼が驚いたのは、その瞳の色彩だった。

 薄暗い小屋の中で爛々と輝いて見える程の、紫瞳。

「お前には分かるまい」

 掠れた声が、嘲笑するような響きを帯びて発せられる。

「力を持ち、五体に恵まれ、そして認められ王の地位を得た。何故お前のような者がいる。何故私は、脚が動かぬというそれだけの理由で王となることを許されなかった」

 しかしその声音とは裏腹に、久延彦の眼差しは今にも砕け散らんばかりの哀訴を宿していた。八千穂は奥歯を噛み締めて、ゆっくりと生大刀を振り上げる。

「貴方は、愚かだ」

 賢者と呼ばれた男に向かい、絞り出すように言う。久延彦はその言葉に、ぴくりと唇の端を動かした。何かを言い返そうというのだろうか。けれどもそれを聞くことなく、八千穂は大刀を振り下ろした。

――ダンッ!

 鈍い音がして、大刀は投げ出された久延彦の脚から一寸もない床に突き刺さる。身を固くしていた久延彦が、驚いたように八千穂を見上げた。八千穂はその哀れな男を見つめる。水蛭児――脚が動かぬ程度のことで、そのような名を付けられた哀れな男。

「王というものを、何だと思っていたんだ」

 その地位に就いたところで、何が得られると思っていたのか。八千穂は床板を割った大刀の柄を握り締めたまま、久延彦を見下ろした。

「国を支配する者か? 他者に傅かれる者か? ……違う、そうではない」

 ずっと考えてきた。王と呼ばれ、自分は何を成すのか。八千穂は答えを掴み、そして、そのために王としての己を受け入れた。

「民を豊かにし、彼らに安堵を与えるため……ただそれだけのために王はある」

 久延彦の思いは、最早瞳からは読み取れなかった。表情を消した彼に向かい、八千穂は続ける。

「――民らに田の作り方を教えていた貴方は、紛れもなくこの地の王であったのに」

 それ以上に、いったい何を望んでいたのか。どこまでも静かな八千穂の言葉に、久延彦は黙したまま何も答えようとはしなかった。

「だから貴方が王となりたいなら、それもいい。豊葦原の王となって、民を潤せばいい。貴方がかつて言ったように、僕は豊葦原全ての王となろうとは思わない」

 戦を仕掛け国を疲弊させた者を、民が王として認めるはずはないだろう。けれど八千穂は久延彦にそう告げた。数年の間胸中に燻っていたものを、吐き出すような思いがした。

「だが……この国、この出雲だけは渡さない。高天原との戦に、身を賭してきた者らが住む国だ!」

 八千穂は言い放ち、久延彦を睨み据える。男は沈黙していたが、やがて、微かに喉を振るわせ始めた。何故ここで笑うのか。その意図が分からず、八千穂は眉を寄せる。久延彦はひとしきり笑った後、おもむろに口を開いた。

「この場で私を切り捨てることも出来ように……どうしてお前はそれを考えもしないのだ」

 久延彦は深く息を吐き出し、俯く。暫し彼は床板を見つめていた。八千穂は何を言っていいのかが分からず、ただ久延彦の言葉を待つ。

 藁色の頭髪をゆるゆると振って、男は口を開いた。

「……お前には、敵わぬ」

 久延彦は再び顔を上げる。しかしその視線は、八千穂に向けられたわけではなかった。

「そういうことだ照姫。もう、戦わずともよい」

 それが、久延彦の最後の言葉となった。

 今までの緩慢な動作からは考えられぬ程の素早さで、久延彦はもたれていた藁山から刀子を引き抜いた。八千穂が驚くその目の前で、久延彦は何の迷いもなくその刃をこめかみに勢いよく突き立てる。八千穂は目を見開き、久延彦の腕を掴んで即座に刀子を引き抜いた。鮮血がほとばしる。久延彦は既に絶命していた。

 その刀子が、久延彦がいつか大国主を屠ろうと毒を塗りつけ隠し持っていたものだということを、八千穂は知るよしもなかった。


 □ □ □


 戦の勝利を伝える朗報は、兵士らの帰還と共に杵築を満たした。一時は覚悟を決めただけに、杵築の者達の喜びもまたひとしおであった。降伏した高天原の兵を収容するために物置にされていた兵舎が開かれる。命を落とした兵士を弔わねばならない。時を忘れたように皆が走り回っていた。

 高姫も、その例外ではなかった。剣戟を武器庫に収める手伝いをしていたのだ。大刀を幾本かまとめて木箱に寝かせると、高姫は小さく溜息をつく。杵築の大社そのものが戦場とならなかったことを安堵しながらも、やはり自らの手で勝利を掴んだわけではないという事実が悔しい気がした。

「――高姫」

 名を呼ばれ、はっとして振り返る。そこに立っていたのは、戦装束を未だに解かぬ枳賢であった。彼女は将として、杵築の守りを任されていたのである。返事をしようとした高姫は、けれど枳賢の顔を仰いだ時にそれを忘れた。戦に勝利したというのに、彼女は笑みを浮かべていない。表情を押し殺したような顔をしていたのだ。

 何を言わんとしているのだろうか。高姫は我知らず息をひそめ、枳賢の次の言葉を待った。

 けれど発せられたその言葉は、彼女の予想だにもせぬものだった。

「稚彦が、死んだ」

 言い聞かせるようなその声に、高姫は目を見開き、凍り付いた。

 一呼吸もの間の後に、高姫はわななく唇から呼気を吐く。告げられた事実を呑み込むことが出来ずにいるのだ。まさか、という思いが胸の内に反響する。拍動が異様に大きく、早い。その思いが胸を破って出て行こうかとしているようだ。

「……嘘……っ」

 喘ぐように声に出来たのは、たったそれだけの言葉であった。

 枳賢はゆっくりと首を横に振る。

「真だ。……先鋒の弓兵に志願したそうだ。楯の守りから漏れたのだろうな……胸を一矢に貫かれている」

 淡々と事実を告げるその声音は、高姫にはあまりに残酷なものに感じられた。高姫は激しく頭を振る。耳にした言葉を振り払い、その真実を否定しようとするかのようだった。

 枳賢はそれ以上は言わず、踵を返す。冷たいようだが、仕方がない。枳賢にはまだ役目が残っている。近しい者を亡くした者は、高姫だけではないのだから。

 武器庫に取り残された高姫は、その場にずるずるとへたり込んだ。何を考えて良いのか分からない。木偶のように瞬きを忘れた瞳は、何も見てはいなかった。

 どれ程そうしていたことか。ほんの一瞬のことであったかもしれないし、あるいは数刻も経っていたのかもしれない。どちらにせよ、高姫が近付く気配に我に返ったのは、枳賢が去った暫くの後のことだった。

 高姫はのろのろと頭を上げ、武器庫の入り口を今し方くぐった人影を見上げた。長身の青年。その見知った面立ちに、高姫の瞳に唐突に意志が戻る。

「高、彦……」

 絞り出すように兄の名を呼んだ。死んだと伝えられた男と瓜二つの容貌が、高姫の憔悴を見て心配げに歪む。高彦の唇が動いた。

「稚彦のことは、聞いた」

 そこから発せられた声音に、高姫は驚愕して目を見張る。久しく失われていた声音であった。幼き頃よりも随分と低くなったその声は――あまりに、稚彦に似ているように思われた。

「あ……っ」

 一声発したまま、高姫は何も言えない。代わりに喉を迸るような嗚咽が込み上げる。高彦が膝をつき、高姫の背に腕を回してゆっくりと抱き締めた。その腕の暖かさに、高姫の瞳からは堰を切ったように涙が零れた。

「う……っふ、あぁ……っ」

 溢れ出る嗚咽は言葉にならない。高姫は兄に縋り付き、その衣を握りしめて泣いた。幼い頃と同じように、高彦は華奢な背を叩いてやる。その優しい掌の熱に、嗚咽は慟哭へと変わっていた。

 兄しかいなかった世界に、稚彦の存在は苦もなく同化していた。

 どこか遠慮がちな表情を浮かべる稚彦に、何とか心を開いてもらいたかった。高彦と同じ顔をしているというのに気質が全く違う若者のことが、気にかかって仕方がなかった。

「稚彦……っ!」

 顔を埋める胸は彼のものではないと分かってはいたけれど、高姫はその名を呼ばずにはいられなかった。慟哭の合間にしゃくり上げながら、彼女は言葉を紡ぐ。

「ごめんなさい……ごめんなさい稚彦……」

 怖かったのだ。高天原の者であった稚彦に惹かれていた自分が、そして迷い無く化生の命を絶つことが出来た稚彦が怖かったのだ。そして悲しかった。稚彦にとっての己の重さは、果たしてどれ程のものだろうか。そう思うと、胸が刺すように痛んだ。――だから、避けた。

 高姫は衣をきつく握っていた指をそろそろと解き、その腕を青年の背に回しす。

「……愛して、いました……」

 それこそが、飾り気のない本心であった。

 高彦は今まで何も言わずにいたが、高姫が沈黙したのに気が付くと、ふと彼女を抱き締める腕に力を込めた。そして、ゆっくりと口を開く。

「――私もだよ、高姫」

 意識して模そうとしなくとも、高彦自身にさえその声音は稚彦のもののように感じられた。

 再び嗚咽を漏らし始めた妹の背を、高彦はいつまでもあやすように叩いていた。


 □ □ □


 巡り来た春は、今までのどの年よりも清々しいものに感じられた。戦は終わったのだ。捕虜とした兵士らと交換条件に、照姫には二度と豊葦原に向けて進軍せぬと誓わせた。軍備は解かれ、兵士らにも帰郷の許しが出た。しかし行くあてもない兵士らも多かったのだ。杵築の大社は、今では一つの里として成り立っている。

「気をつけて下さいね」

 須世理はそう言って、馬上の少年に荷を手渡した。八千穂はそれを微笑んで受け取り、馬の後ろ首に括り付ける。旅支度は整った。首を巡らせてみると、宿那が同じように馬に荷を乗せ終わるのが見えた。

「しかし豊葦原を巡るとなると……踏破には随分かかるでしょうね」

「急ぐつもりは無い。出雲に戻ってきながら、少しずつあちこちに行ってみる」

 五十猛の言葉に、八千穂は笑う。豊葦原の王と称されながら、出雲に滞っているだけではいけないだろう。そう思い立っての旅支度だった。戦は終わったのだから、本拠を守って石のように動かずにいるという必要もない。

「おれがついてるんだから、心配ないよ」

 からからと笑う宿那に頼もしさは全く無いが、見送りの者達の顔は綻んだ。その宿那の肩に、不意に羽音を響かせて烏が止まる。肩に蹴爪が食い込む痛みに宿那が顔をしかめたが、烏はさして気にした様子もなくかぱりと嘴を開いた。

『こいつをお供させますよ』

 事代だ。見送りに姿を現してはいないが、こうして窺っていたらしい。八千穂は苦笑して頷いた。

 空を見れば、柔らかな白雲が山際からたなびいている。淡い色合いを帯びた蒼天は、どこまでも遠く広がっていた。

「そろそろ行くぞ」

 宿那が宣言し手綱を引く。烏が飛び上がり、彼らの頭上で器用に旋回して見せた。須世理が八千穂を見上げる。その露草色の瞳に浮かぶ不安げな色をかき消そうと、八千穂は彼女だけに聞こえるような声音で言った。

「必ず、ここに……貴女の所に帰ってくる」

「――待っています」

 頬を染めて須世理は言った。八千穂は微笑み、頷く。そして手綱を取り、訳知り顔でこちらを見ていた宿那に向き直った。


「さあ、行こうか」


 豊葦原。この美しき、豊かな地に生きる民の力となるために。









 記紀神話はこう伝える。


 大国主はかつて豊葦原を治めていた。そして天照大御神に帰順しその地を譲ると、自らは幽世に退いた。



 けれど、出雲国風土記、母理郷もりのさとの項にはこうある。


 豊葦原は手放そう。しかしこの出雲国だけは、私が守り続けよう。大国主はそう宣言したという。――故に、この地を『り』と呼ぶのだ、と。



 その地の名は、今でも確かに残っている。









   神代異聞 了



 日本神話をモチーフとした小説、漫画は少なくありませんが、いつでも重視されるのは天神のような気がしてなりませんでした。

 スサノオ、アマテラスに留まらず、その系譜に連なるヤマトタケル。

 彼らを描いた作品は多いというのに、何故地祇はこうも報われないのか。

 下手をすると地祇は邪神扱い。それどころか、天神は「神」として描かれても地祇は「人」として描かれていたりする。

 負けて堪るか、と思いました。


 日本神話を下敷きにした物語を書きたい。

 それも、天神ではなく地祇の物語を描きたい。

 そう一念発起して書き始めたは良いのですが、結局、天神たちについても地祇と同じくらいの重量で書いてしまいました。

 全てを読み終わった後、登場人物の誰も憎むことが出来ないような物語にしたい、そう願いながら執筆していました。

 その目論見は、成功しているでしょうか?

 最後の展開は、読者様の予想の外にあったでしょうか?

 是非とも、ご感想をお聞かせ下さい。


 また、『神代異聞』をお読みになって、『異聞』ではないオリジナルの方にも興味を持って下さる方がいらっしゃれば、何より幸せに思います。

 この物語のエピソードの多くが、古事記と出雲国風土記の記述からの連想で構成されています。

 機会がお有りでしたら、どうかそれらを手に取ってみて下さい。

 千三百年の長きに渡り、伝えられ続けた想いが感じられる筈です。



2004/09/23 佐井原 景(旧:京佐) 拝


2008/12/30 小説家になろう 投稿完了

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