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第五章其の五 真実

 輝血の腕を脚で押さえつけながら、八千穂は深い呼吸を繰り返す。その度に不安定に揺れる刃は、敵将の喉に突き刺さるかどうかという極限の位置にあった。

「剣で俺が負けるなど、少なくとも千代は無かったことだぞ」

 喉を反らしたまま、輝血は唇の端を上げる。若造に敗れたことが不思議と悔しくはなかった。輝血の言葉に応えて八千穂は小さく微笑む。肩の上下がようやく落ち着いたため、彼は大刀の柄を握り直した。敵将の喉に突き立てるためではなく、誤って取り落とすことがないように、だ。

「どうした、情けを掛けているつもりか」

 八千穂の表情からその意図に気付き、輝血は揶揄するように言った。王は微かな笑みを浮かべたまま、いいや、とそれを否定する。では、何故。既に抵抗する気も無い輝血は、じっと大国主を見上げた。

「……高天原の将よ、聞きたいことがある」

 西日の映り込んだ少年の瞳は、あたかも黒曜石のような鋭さを帯びていた。命を賭した大刀合わせの際にさえ見せなかった鋭さに、輝血は虚をつかれて軽口を忘れる。大国主もまた輝血から視線を逸らすことなく、続けたのだった。

「何故、お前達は豊葦原の地を欲するんだ」

 答えによっては、大刀を支える腕を緩めることも厭わない。射抜くような眼差しは、言外にそう示していた。けれど輝血が覚えたのは恐れではない。

「ああ、そうか。豊葦原の連中は戦が嫌いなのだったな」

 心底意外そうに輝血は言った。その他意の無い様子に、八千穂は毒気を抜かれる。

「では、高天原は戦を望んでいるというのか?」

「いや……そうでもないな。戦が好きだという者は俺以外にはいるまいよ」

 輝血の言葉に、八千穂の表情に再び鋭いものが宿った。輝血は苦笑する。そうしてふと思い立ったように、喉をぐっと反らして見せた。八千穂が訝しげな顔をするが、輝血には見えていない。彼がその体勢のまま発した声音は掠れたものだった。

「見えるか? ――傷があるだろう」

 八千穂には、見えた。その言葉通り、輝血の喉には鋭い大刀の古傷があったのだ。その傷跡からは、首を一刀のもとに切断しようとする意志が感じられる。何故この男は生きているのか。そう思わせる程の傷跡であった。

 八千穂が息を呑んだ気配に、輝血はくつくつと笑いながら顎を引く。

「俺は、生まれ落ちると同時に母殺しの罪を負った。この傷は激情した父につけられたものだ」

 さらりと口にされたその言葉には、あまりに重い過去が込められていた。

「どうしてだろうな……このようなこと、他の者には言うつもりも無かったというのに」

 この世の苦痛を一身に背負ったような顔をしている少年を見ていると、不思議と口が軽くなった。今まで憤りをもってしか思い出すことの出来なかった事実が、清水が湧き出るように流れ去って行くような心地がした。聞かせてやりたい、と思う。戦という不安の中にいた少年に、真実を教えてやりたかった。

「故に、俺は輝血と呼ばれるようになった。母のほとの血、喉を裂かれた己の血……それにまみれた俺は、もはや戦にしか身の置き場が無い」

 あれほどまでに憎んだ字が、抵抗無く滑り出す。

「罪人たる俺には、貴子と呼ばれる資格は無い……だが、俺は照姫の、須佐の末の弟だ」

 八千穂の握る大刀の先が微動した。驚きを隠せないでいるのだ。輝血は口を噤むことが出来ぬ自分に気が付いた。一種の昂揚状態にでもあるのだろう。夕日を照り返す鋭い鋼に否応なく突き動かされているようだ。自分にも人並みに死への恐怖があったらしい。

 輝血は八千穂を見据える。高天原の者さえも知らぬ事実、それを教えてやろうと思った。

 しかし、その前に言わねばならぬことがある。

「真実を話してやる。敗北した身だ、如何様にもしてくれて構わない」

 その言葉に、八千穂は訝しむように小さく眉を寄せた。疑っているのだろう。心の底を見透かそうとするかのようなその漆黒の眼差しに、ふと、輝血はこの少年を気に入っていることに気が付いた。思わず彼はにやりと笑い、続けた。

「抵抗はせぬ。……だから、そろそろどいてはくれまいか。いくら美しいといっても、やはり上に乗られるのは女の方が良い」

 年若い王は暫しの間を空けた後、大刀を取り落としそうになる程に狼狽した。


 □ □ □


 戦には造化三神は介入していない。捕らわれ、杵築の社の一室に移された輝血はそう言いきった。

「三神が重んじるのは己の領域だ。神産巣日神は豊葦原が侵されたために影を顕したのだろうが、高産巣日神はお前らが攻め込んでこない限りは動かぬだろうよ」

 その不躾な物言いに、将達は不満の声を上げる。それを抑えるようにして、八千穂は口を開いた。

「では、何のために」

 けれど輝血の答えは、その問いに対してのものではないように思われた。

「……我らの血は、互いをひたすら憎むかひたすら慈しむかのどちらかだ。須佐の息子には言ったことだがな。父は俺を殺そうとする程に憎悪した」

 輝血は何を言わんとしているのか。誰もが口を噤み、次の言葉を待つ。

「そして、姉上が……照姫が戦う理由は、兄上を慈しむあまりのことだ」

「――須佐ノ王を、か?」

「いいや。月読でもない。三貴子では、ないのだ」

 輝血の言葉に八千穂は当惑したような表情を見せた。輝血は口角を上げる。

「三貴子……そう呼ばれる兄弟の裏側に、貴子と呼ばれぬ者も三人いる。一人は母殺しの俺、そしていま二人。本来我々は六人の兄弟であったのだ」

 耳に新しいその事実に、将らはどよめいた。真かと、五十猛を小突く者もいる。けれど五十猛は曖昧な表情を浮かべてみせた。彼は知らなかったのだ。

 輝血はその光景を面白がるような表情で見渡した後、続けた。

「一の御子であった兄の名は、水蛭児ヒルコ。生まれながらに片端かたわであったために、貴子となることが敵わなかった。姫御子、淡島アワシマが貴子となれなかったのは白痴のためだ」

「莫迦な、そのような理由で」

 八千穂が呻き、小さく頭を振る。

「……豊葦原からすればそうかもしれぬ。しかし父にしてみれば、我々の血は完璧でなければならなかった」

 呼気と共に吐き出すように、輝血は言った。

「照姫は健気な女だ。父に屈することなく、顧みられることの無い水蛭児を、淡島を慈しんだ。淡島のことは聞き及んでいるだろう。今は姉上の支えを受けながら、高天原の王となっている」

「……宇受女、という者のことか……?」

「ああ、そう呼ばれている。そして……豊葦原を、と照姫が望んだのは水蛭児のためだ」

 国を与えられなかった水蛭児が、照姫に話を持ちかけたのだ。己が王となれる地を手に入れるために、手を貸して貰いたいと願ったのである。照姫に反発していた須佐や、既に夜之食国を治めていた月読はそれを知らぬ。

 輝血は、そう語った。

「水蛭児のことも知っているはずだ。――兄は、この出雲に居を置くのだからな」




次回が、ラストです。

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