第一章其の三 根国
一行は獣が通った跡も無い、道無き道を進んでいた。八千穂を背に負った五十猛が先を行き、それを阿久斗が追う。不思議なことに絡み合った木々や蔦、また下草は、五十猛が足を踏み出す毎にするりと自ずから身を引くのだ。故に彼らは足を取られることもなしに、順調に樹林の奥へと進んで行っていた。
「風の性……」
ぽつりと八千穂が呟く。そういえば、この青年の父である須佐ノ王は嵐――即ち強風、雷鳴、豪雨の神であったか。子である五十猛の性が風に根差すのも無理はない。しかし木々がしなやかに曲がる様からしても、青年の性が父のそれとは違い柔らかなものであることがよく分かる。
「ええ、そうです。それに」
五十猛はそれに応えた。穏やかな声色は、未だ緊張に身を固くする八千穂と、怯えた面持ちで口もきかない阿久斗を安心させようとしてのことだろうか。それとも、それもまた彼の性か。
「この山々の木々は、全て私が手ずから植えたものですから」
言わば子のようなものです、と五十猛はどこか誇らしげに言った。
敵はいない、暗にそう告げている。それに気付いた八千穂は小さく息を吐いた。疲労も傷も深い。好意に預かり、今暫くの夢を見よう。そう自分で決めてから十を数える間もなく、八千穂は再び意識を手放していた。
「――さて」
少年が眠りに落ちたことを気配で知った五十猛は、おもむろに足を止め、振り返った。真白の髪をした子供と目が合う。突然のことに、阿久斗は何事かと五十猛を見上げた。その動作一つ一つの幼さに、五十猛は小さな当惑を覚えずにはいられなかった。
五十猛の確信が真実ならば、この化生の子供は。
「君は、“使者”ですね」
断定的なその言葉に、阿久斗はうろたえる様子もなくこくりと頷いた。
「ああ、そうだ。須佐ノ王へ伝える言葉を託された」
誰から、とは五十猛は聞かなかった。
「止めても、君は行くのですか?」
その言葉を聞いた途端、阿久斗はぎろりと目を光らせて五十猛を睨む。今にも噛み付きそうな勢いだった。迫力は無いが威勢だけはいい。
「止めると言うのか」
「いいえ、違います。しかし」
おもむろに五十猛は身を屈めた。何があるでもない藪の前で、だ。阿久斗が何事かと訝しむその目の前で、彼はがさりと絡み合った下草をかき分ける。
そこには、道があった。
石を葺かれたその道は、そこだけ周りから切り取られたかのように見えた。色濃い緑の中に一筋続く灰色の筋。左右からはびこる下草が今にもそれを覆わんとしている。
「――覚悟はありますか?」
発せられたその問いに、阿久斗は戸惑った。危険な役目だということは分かっていた。しかし偶然か必然か、ここまで来ることが出来たのだ。確かに酷い目に遭いはしたが、現在生きていて、そして須佐ノ王の居場所へ向かうことが出来る。他の送り出された月兎たちと比べれば、それだけでも幸運であったと言えよう。
けれど、それとも、王の屋敷までの道のりで、更なる危険があるというのだろうか。
阿久斗の不安げな表情に気が付いて、五十猛はゆるゆると首を横に振った。
「そうではありません。本当に恐ろしいのは」
青年の顔が、何かを思いだしたように曇る。ためらいがちに口を開いて、それでも彼はその名を口にした。
「本当に恐ろしいのは、須佐ノ王です」
須佐ノ王、その名を聞く度に阿久斗の胸に戦慄のような物が走る。戦王として悪名高いその名は、主である月読がその名を口にするときの悲しげな表情と共に阿久斗の脳裏に刷り込まれていた。
「どういう――」
「そのままの意味ですよ。荒神、戦神。須佐ノ王と渡り合うには、君は幼すぎる」
それでも行くのか、と。
「おれはそのために豊葦原に来た。使命を果たさねば帰ることもできない」
「使命を果たしても、帰ることは叶わないかも知れませんよ」
聞きようによっては酷く冷たい言葉だ。しかしその台詞を口にする五十猛の表情は悲しげで、だからこそ、その言葉の重さが阿久斗の肩にのしかかる。この見るからに優しい青年は、それ故に己の言葉に悲しさを覚えているのだろう。
「それでも……っ」
阿久斗はかぶりを振った。幼い動作だ。けれどその瞳に映る意思はかたくなだった。
「頼むから、おれを王の元へ連れていってくれ!」
頼む、ともう一度繰り返して、阿久斗は五十猛の目を見据えていた。五十猛はその視線を受け止めて、息を吐く。そこまで決心は固いのか。諦めに近い心情で、彼はゆっくりと立ち上がった。
「……それでは、行きましょうか」
下草に隠されていた道を進む。五十猛の容赦のない早足を、阿久斗が必死で追っていた。強情なことだ、と五十猛は瞳を伏せる。引き返せるのは今のうちだと、阿久斗とて分かっている筈なのに。
程なくして、二人はやや開けた場所に出た。五十猛はそこで足を止める。わずかに遅れて阿久斗が息を切らせて追いついてきた。文句の一つも言ってやろうと開いた口は、一瞬、目の前の状況に声を発することを忘れた。
その中心にそびえていたのは一本の巨木であった。
「うわ……」
阿久斗はそれを見上げ、目を丸くしている。空を覆う程に張り出された枝には青々とした葉が光っている。幹は尋常でなく太い。数十人の人間が手を繋いでやっと囲える程であろうか。凄まじい齢を経た杉の大樹である。
そしてその根本、そこにはとてつもなく大きなうろがあった。
まるで昏い口を開けて待ち構えている化け物のようだった。いや、そのものと言ってもいい。耳を澄ませばその穴からは、ごうごうと嵐の轟のような音が聞こえる。光が届くのはほんの入り口までで、それ以降は朔の夜のような闇に覆い隠されていた。
阿久斗はその情景に思わず怯み、後込みする。が、五十猛は迷いも無しにすたすたとそのうろの中へ歩みを進めた。
「ま、さか――」
五十猛はうろの手前で振り返り、縋るように自分を見つめる阿久斗にこくりと頷いて見せた。
「ええ、根国堅洲への入り口です」
子供はたじろいだ。それは単純な恐怖心だけではない。そもそも彼ら月兎の一族は光を糧として生きるものだ。月読の加護の無い、夜のものでない闇を恐れるのも無理はない。五十猛は静かに阿久斗の反応を待った。ここで引き返すと言い出さないかと、ほんの少しの期待を込めて。
けれど阿久斗は唇を一文字に結び、ごくりと唾を飲み込んで、駆けた。跳躍。そして闇の中へ。そこは一直線の下り坂になった道であった。いくつもの石が転がる粗悪な道だ。呆気にとられる五十猛すらも追い越して、幾度も幾度も躓きそうになりながら、阿久斗は遙か先にぼんやりと見えた光に向けて、わき目もふらずに駆けた。
八千穂を負った五十猛が昏い道を抜けきったとき、阿久斗は地面にへたり込んでいた。それを見て、五十猛は表情を曇らせる。
「やはり、この地は君には辛いでしょうに」
阿久斗の正体など、五十猛にはとうに分かっていた。この国、堅洲の光源は、遙か天井の岩盤から仄かに発せられる光である。傷を負い体力を消耗した月兎には辛いだろう。しかしそんな五十猛の心配に、阿久斗は何も言わずに首を横に振る。強がっているのだ。
「無理をしないで下さい」
苦笑を浮かべながらそう言って、青年は背に負う八千穂を担ぎなおした。その震動に、少年はわずかに身じろぎする。目を覚ましたかと思ったが、どうやらそれは五十猛の杞憂に終わったようだった。
「そうですね……私は八千穂さんを、手当を受けさせることが出来る場所へ連れていきます」
流血は止めたとはいえ、八千穂の負った傷は傍目に見ても酷いものであった。今は眠っているため痛みを訴えはしないが、だからといって良くなっている訳ではない。
「君も、まずは休養を取らなければいけませんね」
断定的なその台詞を、子供はかぶりを振って拒んだ。
「おれは、王に――」
「休養が先です」
阿久斗の言葉を阻んで五十猛はそう断言する。子供は口惜しそうに、けれど仕方ないと思ったのか唇を結ぶ。それ以上の反論がないことを悟った五十猛は、阿久斗の視線を誘導するようにゆっくりと首を巡らせた。八千穂を負っている所為で、腕を使って指し示すことが出来なかったからだ。
「ほら、顔を上げて下さい。見えるでしょう……あの屋敷が、王の館です」
そう言って示された先にあったのは、巨大な邸宅であった。阿久斗は入り口の大樹を見上げたときと同じように目を見開く。枯れた草原、ぼんやりと薄暗いだけの空間の中、その邸宅だけが豪奢で、それ故に酷く違和感があった。
「私たちはあちら――あの離れの屋敷に行きます」
言って、五十猛は歩き始めた。阿久斗は慌てて立ち上がり、それを負う。足取りがおぼつかないようだった。しかし立ち止まっている暇は無いとばかりに、五十猛は雑然と茂る枯れ草をかき分けてゆく。
早く、八千穂にきちんとした手当を受けさせなければ。
背中に感じる体温はやや低い。しかし心音はまだはっきりしている。止血は施してある。失血死という可能性はないだろうが、いかんせん満身創痍なのだ。負った傷のどれかが化膿するとも分からない。
「あそこには……誰か、いるのか?」
もはや目の前に迫った離れを示して阿久斗が問う。五十猛はこくりと頷いた。
「私の妹姫の館です」
そのとき、離れの扉がガラリと開いた。扉を開いたのは白く細い手。次いで顔が覗いた。
「――にいさま!」
少女、であった。
結い上げられることなく背に流された長い髪、その色は銀を帯びたような青灰色だ。ぬけるように白い肌と相俟って、この荒野の中で唯一輝くもののようにすら感じられる。ぎょっとして阿久斗は足を止めたが、少女は一行へ向かって駆けてくる。絹糸のような髪がさらさらとなびいていた。だんだんに一行と少女との距離が短くなると、その瞳の色も分かるようになる。宵の山際の空のような、凛とした露草色だった。
目鼻立ちはくっきりと鮮やかで、どこか気丈な印象を受ける。化粧はしていないようだったが、唇は紅を差したように紅かった。
少女は紗の衣をはためかせながら五十猛に駆け寄って、それから阿久斗の方に視線を向けて小さく首を傾げた。
「お客様でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうです」
その返事に少女はにっこりと笑うと、阿久斗に向けて礼儀正しく一礼した。しかしその笑顔は、ふと顔を上げて兄の背に負われた少年を見た途端に曇る。
「なんて酷い、お怪我を……」
八千穂の衣には、いくら渇いたとはいえ血糊がべったりと張り付いたままであった。血の気を失った彼の顔は、まるで人形のように生気が無い。五十猛は妹姫に向かい、頷いてみせた。
「彼に手当をお願いできますか」
「ええ、勿論です」
慌ただしく少女は踵を返し、二人もまたそれに続いた。少女の纏う珠や玉、そして衣がさらさらと鳴る。その装身具の煌びやかさがほとんど感じられないのは、彼女自身の美しさがそれに勝るからであろう。
少女の刈安色の帯が揺れる。そのわずかにくすんだ黄色を追うように、阿久斗は走った。