第五章其の四 剣舞
暴力・流血表現を含みます。
戦況が思わしくない。
一度前線より退き、肩口の傷をきつく縛った五十猛は、浜を見渡しながら唇を噛んだ。あちらこちらで血が流されている。高天原の血も多く流れてはいるが、絶対数が違うのだ。消耗戦に持ち込まれれば、果たして相討つことさえ出来るかどうか。
一縷の望みは全て八千穂らに託されていた。事代を信じるしかあるまい。
五十猛は剣を握り直し、肩が動くことを確かめた。僅かに痛みが走るが、技の鈍りは許容範囲だ。何よりも、場を譲った水方のことが気にかかった。若き者は国を造る次代の宝。水方のように、天賦の才を持つとなればなおさらだ。ゆめゆめ失うわけにはいかなかった。
深く息を吸い、五十猛は戦場へと駆けた。
鎧の間隙を縫うようにして、五十猛は高天原の兵士達を倒していった。時折風の刃さえ交えながら、ともかくも戦うことの出来る者を減らすことに専念する。肉を裂き、腱を断ち、骨を砕いて砂に沈める。そうしながら、五十猛は戦の中心、かの将の元へと進んでいた。
その時、である。不意に歓声が上がったのを、五十猛は聞いた。
声は海岸より聞こえた。はっとして、五十猛は首を巡らせる。波間に影が見えた。勢いのついたその影は、滑るようにこちらに向かっている。あれは、船だ。
「――高志の」
それは高志の船団であった。遠目にも百人ばかりの兵士達が、矛をかざし船の舳先にひしめいている。まさか、援軍とは。
兵士達を押しやり、舳先には一人の男が現れた。恐らく将であろう。彼は胸を反らし、砂浜の軍勢に向かい大音声で叫んだ。
「瓊河姫の占により、今日のこの日の戦を知った! 我ら高志の者、豊葦原の民として参戦す!」
出雲の軍勢から、再び歓声が上がった。高天原の兵士達がはっとした様子で矢を番え、船に向かって弓を引いているが、それは高志の軍勢の持つ楯に阻まれ兵士に届くことはない。
希望が、見えた。
目の前が開けたような心地がして、五十猛はぐっと奥歯を噛み締めた。八千穂らの到着まで、持ちこたえられることだろう。
最早、戦は乱戦を極めていた。それでも五十猛はその中心部へ向かおうと剣を振るう。水方が見つけられない。あちこちに溢れる怒号が、風の声を消す。五十猛は目を凝らしす。――鮮やかな赤の髪が、翻るのが見えた。
五十猛はそこに向かい、駆ける。間違い無い。あの将だ。水方を相手取り、一分の隙もない斬り合いを見せていた。見れば、兵士達は彼等に近付くことを恐れるように間を置き、その戦いぶりを見ている。まるで彼等の周りだけ、戦が終わってしまっているかのようだ。
その敵将が、不意に五十猛に気付いた。視線が合うとにやりと笑う。
そして、彼は。
□ □ □
浜の砂粒の一つ一つが、怯えて軋んだ声を上げていた。八千穂はきつく眉を寄せる。幾千万にも重なり合ったその悲鳴は、個々は微かにも関わらず八千穂に頭痛さえ感じさせた。けれど彼は手綱を握る手を緩めはしない。迷い、躊躇う段階はとうに通り越してしまったのだ。
「――勝ち戦だな」
確かめるように呟いたのは、後に続く宿那であった。八千穂は頷く。四百五十の兵が新たに参戦したのである。おそらく、豊葦原の軍勢の帰還は高天原にとって予測の範疇にはないことだ。事代がいなければ、まやかしをあの短時間に打ち破ることは不可能であったろう。知った地名を片っ端から口にするしかなかった筈だ。
崖から身を投げた少年を思い、八千穂の眉間に深く皺を刻んだ。あのあたりは岩礁が多い。溺れずとも、岩に頭を砕かれての死もあり得るのだ。武神として名高い水臣であったとしても、いくらかの危険があることは否めない。まして事代は実に特殊な神力を要する以外は、病弱とさえ言える少年でしかないのである。
彼が身を投げた理由には察しがつく。水方は、と事代は投身の間際に言った。戦で命を落としたのだろうか。そもそも事代が杵築に身を置くのは、水方のために他ならないのだ。その弟が黄泉へ下ったのだとすれば、事代の絶望は想像に難くない。
「酷い有様だ……」
開けた浜を見渡して、八千穂は呻くようにそう言った。目の届く場所だけで、数十人を下らぬ兵士が砂浜に倒れ伏している。
「治療は――いや、まだ戦が終わってないか」
身を乗り出しかけた宿那が、思い直したように頭を振った。そう、これほどの惨状を生み出しておきながら、戦は未だに満足してはいないのだ。
「八千穂、あっちだ。あの辺りがまだ騒がしい」
そう言って宿那が指さした方向に目を遣ると、成る程、確かに騎乗した兵士らはそこに集まっている様子だ。高天原の残兵が未だに屈せず応戦しているのだろうか。
「降伏をしてくれればいいが……」
「……そうだな、もう十分だ」
八千穂の言葉に、宿那が応じる。血の気が多いように見えても、宿那は戦を好んでいるわけではない。水方のように、報復をと息巻いているわけでもない。彼はただ強情で、負け嫌いなのだ。勝利が決定した今となっては、これ以上の血は望んではいない。
「ああ、本当に」
心からそれに同意しながら、八千穂は馬を走らせる。傷を負い蹲っていた者も敵兵と斬り結んでいた者も、豊葦原の兵士らは皆、王の到着を知り歓声を上げた。高天原の兵士らが驚きに満ちた目でこちらを見つめるのを感じながら、八千穂は声を張り上げる。
「武器を捨てるんだ! この戦いは我々の勝利に終わる!」
矢の一本も飛んでこないところを見ると、余程兵士らは疲弊しているのであろう。夕刻が近くなるまで延々としのぎを削っていたのだから、無理もない。
これで降伏をするならばそれでいい。まだ戦おうとする者も、そう多くはないだろう。何度か同じ内容の言葉を口にしながら、八千穂と宿那は進んでいった。
「八千穂さん!」
声を掛けられ、慌てて八千穂は馬を止めた。振り向くと、一人の青年が駆け寄ってくる。衣の上から肩を布で縛ったその様子に、八千穂は目を見開いた。
「五十猛、怪我か?」
「ああ、いいえ、ご心配なさらないで下さい」
五十猛は苦笑を浮かべてそう言うが、八千穂は彼に向かって手を伸べる。触れる程には近くないが、立って歩ける傷ならば問題はない。五十猛は即座に痛みが引いたことに驚いたような顔をして、すぐに感謝の笑顔を浮かべた。
「すみません。実は馬から落ちてしまって」
「五十猛殿が? 珍しいな」
宿那が声を上げる。五十猛はやはり曖昧な笑みで答えるのかと思われたが、そうではなかった。ふと笑みを消し、厳しい表情を見せたのだ。
「高天原の将に、なかなかの手練れがいたんです」
その声音には、彼には似合わぬ自嘲と侮蔑が微かに籠められていた。それに気付いた八千穂もまた眉を寄せ、五十猛に問う。
「――何があった?」
五十猛はその問いに応え、視線を誘導するように振り返った。その先には騎馬の軍勢。けれど剣戟の気配は無い。奇妙な緊張を孕んだ空気が広がっていることに、八千穂は気付いた。
ぐるりと周りを取り囲んだ兵士らを、輝血はまるで己が優位であるかのように尊大に見渡した。それだけで兵士らがたじろぐのが分かる。臆病者め。くつくつと笑う輝血を窺う視線は、やはり怯えたものだった。
「卑怯、者……っ」
その絞り出すような声に、輝血は笑みを浮かべたまま足下を見下ろした。靴の下の背中が、荒い息を吐くたびに上下している。輝血がいくらか脚に力を込めると、少年は骨が軋む苦痛に声を上げた。
「ぐ……!」
「卑怯者で結構。その代わりに命を残してやったではないか」
「……ほざけ……っ」
水方は吐き捨てる。煮えくり返る程のどす黒い怒りは、激痛をもってしても薄れることはなかった。それどころか、一層に怒りを煽り立てる。
輝血の行いは、剣を持つ者として全く許されぬ行為だった。浜の砂を大きく蹴り上げ、目潰しに使ったのである。斬り掛かられた水方の左腕は、柘榴のように赤い肉を露わにしている。そこから大量の血液が、今なお流れ続けていた。このままでは間違いなく黄泉に下るだろう。命を取り留めたとしても、腕は動かぬ可能性が高い。
「あんたに……恥は、無いのか……っ」
「あれを恥と考える方が俺には不思議だ」
けろりとした表情で言い切ったその言葉が輝血の本心であることは、口振りから伺えた。水方はぎりぎりと歯を食いしばる。殺してやりたい。その力を失った自分が、あまりにも情け無かった。
その時、だった。
彼らを取り巻く空気が変わったことに、不意に水方は気が付いた。輝血もまたそれを察したようで、笑みを潜めて兵士らを睨み据えている。兵士らに広がるざわめきは、不安故のものではないと水方は感じた。それは喜び故のものだった。待ちわびていた者の、到着。
人垣が分かれ、一頭の馬が進み出る。馬上の少年こそが噂に聞く豊葦原の王、大国主であろう。
「……ほう」
輝血がゆっくりと口角を上げる。けれど年若い王は怯んだ様子も無く馬から降り、汗で額に張り付いた髪をかき上げるようにして輝血を見つめた。竹で削いだような頬の線は確かに少年のものだが、その面立ちは佳人に通じる。
柳眉の下の漆黒の双眸。そこに浮かぶ思いを言い表す言葉を、輝血は知らない。
「脚をどけるんだ」
どこまでも静かに大国主は命じる。けれどその言葉の響きは、強制と言うよりも嘆願に近かった。
ふと、興味が湧いた。大国主と呼ばれるこの若き王に、どれ程の力があるものか。容貌だけを見ても天の寵児と思える程、加えて王の地位を得ておきながら、どうしてこのように悲哀の表情を浮かべているのか。
「ああ、いいだろう」
剣の切っ先を少年兵に突きつけたまま、輝血は笑う。
「――大国主、お前が俺と剣をもって戦うことを承諾するのならば、な」
ざわり、と兵士がどよめいた。
圧倒的な不利にありながら、輝血がここまで高圧的に出る謂われはない。水方を人質に取られたような状態であったから、今まで手が出せなかったのだ。しかし治癒の力を持つ大国主が到着した以上、多少の無理をしてでも水方をこちらに取り返せさえすれば、彼の死は免れるだろう。大国主の神力を知らぬからこその台詞であった。
けれども兵士らの思いとは裏腹に、大国主は頷いた。
「ああ、分かった」
迷い無く発せられたその言葉に、兵士達はもう一つの意味でも驚きの声を上げた。王が剣を苦手とすることは、豊葦原の兵の間では語りぐさになってさえいたからだ。
水方はすぐさま宿那の手に渡された。深い傷だが時間を掛ければ完全に治癒することは可能であろう。八千穂がそう見立てると、今にも泣き出しそうな顔をしていた水方はそれでも僅かに安堵したようだった。
「すみません、俺のせいで」
喘ぎ喘ぎ、水方が言う。八千穂は敵将と対峙する形を取りながら、水方に向かって首を横に振った。戦は好きではない。けれど、戦うべき時でありながら兵士の後ろに隠れていただけでは、己を王として認めることが出来なかったのだ。敵将の力は相当なものであろう、とは思う。五十猛が、そしてこの水方が敗れた相手だ。正攻法では勝つことは出来まい。
「――さあ、いざ!」
敵将が叫び、砂を蹴る。八千穂は抜き払った生大刀を手に、その切っ先が定めた狙いを外すために飛びすさった。
八千穂が剣を苦手とする理由、それは守りを留意することが出来ぬということだ。防御する、という本能が打ち壊されてしまっているのである。幼き頃よりの迫害の記憶が、彼に諦めを植え付けた。
そのことは、八千穂自身が誰よりもよく知っていた。
敵将の大刀を八千穂は避けた。けれど、それは急所を外したに過ぎないのだ。鋭い鋼は八千穂の腕を抉り、切り裂かれた袖が血に染まってゆく。あまりに簡単に傷を負ったことに、兵士らはおろか、敵将までもが驚きに目を見開いたようだった。だが八千穂は僅かに眉を寄せただけで、再び体勢を整える。
傷は、既に治っていた。
「……面白い戦い方をするな」
大国主は治癒の術を有する。そのことを今し方知った輝血は、八千穂の離れ技に気付くと賞賛とも呆れともつかぬ声音で言った。八千穂はそこで初めて、ほんの僅かに唇の端を持ち上げる。
防御が苦手ならば、傷を恐れなければ良い。治す力はあるのだから。その結論に八千穂が至ったのは、最近のことだ。実践したのも初めてである。一撃で黄泉に至るような急所――心の蔵や頭を守りさえすれば、体力の続く限り負けはない。
八千穂は砂を蹴り、勢いをつけて大刀を振り下ろした。輝血はそれを剣で受け、薙ぐように弾く。たわんだ鋼が唸るような音を立てた。
防御を考慮に入れぬ八千穂の大刀さばきは、純粋に戦を欲する輝血の目から見れば隙の多いものだった。けれどいくら輝血がその隙をつき、傷を負わせたところで、たちどころに治癒してしまう。時折眉を寄せているから、痛みを感じてはいるのだろう。身を裂かれる痛みに声一つ上げず耐えているとは、細身な外見にも似合わず胆力のある少年である。
腕に、脚に、腹さえに傷を負った八千穂の衣は、余すところが無い程に血で赤く染まっていた。茜で染め抜いたようにさえ見えるその衣は、漆黒の髪を翻す少年にはよく似合う。大刀を繰り出しながら、輝血はぼんやりとそう思っていた。
おそらく輝血自身は意識していまいが、戦いのさなかにそのようなことを考える程に彼は消耗していたのだった。屈強の将であるとはいえど、五十猛、水方という才ある者と大刀を合わせてきたのだ。知らず積もり積もった疲労は、ここに来て彼の大刀さばきに影を落とし始めていた。
「……っは!」
鋭く呼気を吐き、輝血は剣を繰り出す。その切っ先は八千穂を掠めるが、やはり致命傷となることはない。けれど八千穂は避けただけではなかった。軸足を使ってぐるりと輝血に向き直ると、その勢いのままに下から大刀を振り上げたのだ。
――ギィイン!
一際鋭い音が上がった。輝血の剣の柄を握る指が衝撃に力を失う。八千穂はその時を待っていた。斬り掛かると即座に身を引くという今までの戦法を捨て、力任せの押しに出る。輝血の手からこぼれた剣が、数歩離れた場所に鈍い音を立てて落ちた。
輝血の表情が驚きに凍り付く。八千穂は間を置かず、刃を失った敵将の懐に飛び込み鎧に守られたその身体を突き倒した。体格差は大きかったが、既に疲弊していた輝血の背は派手な音を立てて砂浜に沈む。その厚い胸板に素早く馬乗りになって動きを封じると、八千穂は露わになった敵将の喉元に大刀の刃先を突きつけた。
それこそは、豊葦原の勝利が決定した瞬間。
一瞬の静寂の後、夕刻の迫った浜には割れんばかりの歓声が上がった。