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第五章其の二 御津

 武器庫と兵舎を行き来しながら、五十猛は滅多に使わぬ声量で指示を飛ばしていた。限られた兵士、限られた武具。それらを如何に配置するべきか目まぐるしく頭を働かせていた。肩にかかるのは久しく感じていなかった重責だ。留守を任された者として、何が何でも出雲を守らねばならない。

「弓を前に置き高天原の兵力を削げ! 剣を使うのはその後だ!」

 言葉に気を配る余裕もなく、五十猛は声を張り上げる。兵士達は動揺していたが、出雲に残っていた将らに促され、動き始めた。

 ――足りない。

 五十猛は唇を噛む。兵士、武具、そして何よりも時間が足りない。高天原はいったいどこまでやってきているだろうか。

「須世理!」

 妹の名を呼ばわると、雑踏の中の少女が振り返る。腕には琴を抱いていた。須世理はすぐに心得て、大きな声で答えを返した。

「弦鳴がまた大きくなりました! おそらく多伎々山の関は破られ……」

 最後まで聞かずに五十猛は頷き、再び武器庫へ向けて走り出した。時間さえあれば、農具を剣に打ち直すことも出来よう。しかしその暇のない今、どんなになまくらでも剣をかき集めねばならない。打ち直されるのを待つ折れた剣や、儀式用の銅剣さえ惜しいのだ。

 幾人かの兵士が、一山程の剣を鞘から抜こうと躍起になっている様子が見えた。錆がまわって鋼が鞘に張り付いてしまっているのである。

「錆び付いた剣は私の所へ!」

 叫ぶと、それに気付いた兵士が慌てて剣を抱えてやって来た。

「お願いします」

 五十猛はそれを受け取り、膝をつくと、剣を地に横たえて両手を鞘に添えて念じる。唸るような音と共に、藤葛の鞘は風を吹き込まれて砕けた。抜き身となった刀身には、しかし黒い錆が見える。五十猛は再び手を添えた。いや、その掌は刀身から僅かに浮いている。そのまま撫で上げるように掌を滑らせると、鋭い風の刃が錆を刮げ落とした。

 感嘆の声を上げる兵士に、輝きを取り戻した剣を渡す。すぐに別の剣が手渡されるのを、五十猛は頷いて受け取った。

 そうするうちにも、時間は刻々と過ぎてゆく。二十ばかりの剣の錆を落としたところで五十猛は立ち上がった。

 ――さあ、後は何が必要だ。

 挑みかかるような勢いで、辺りを見渡す。その五十猛の目に、一人の兵士が駆け寄ってくるのが見えた。

「五十猛殿!」

 名を呼ばれ、五十猛はそちらに向き直る。帯を翻すようにして彼の目の前に現れたのは、見知った娘の顔だった。

「女は杵築に残れなど、あまりのお言葉ではございませんか!」

 礼を示すために膝をついてはいるが、その剣幕は並大抵のものではない。噛み付かんばかりの高姫の言葉に、五十猛は不思議と緊張に張りつめていた心が緩むような気がした。子供に言い聞かせるように、彼は落ち着いて語りかける。

「女人が戦えぬと思っているわけではありません。貴女の武勇も聞き及んでいます」

「でしたら……」

「だからこそ、最後の砦を――この杵築を守っていて欲しいのです。命を奪うという役目は、貴女達には似つかわしくない」

 女は命を与える者だ。その認識があるだけに、高姫は言い返せずに俯いた。悔しさに頬が紅潮している。拳を握りしめる様は、彼女を随分幼く見せた。五十猛には、この娘の思いが分からない。高天原を憎悪していながら、己を殺そうとした化生の死に傷ついているのだ。同じように、天稚彦を許したいと願いながらも、そう出来ないで突き放している。

 高姫は、自分の思いに引き裂かれて立ち尽くしている。いつか須世理がそう言っていた。その言葉の意味するところを察することは出来たのだが、理解は出来なかった。

 その高姫が、はっとしたように顔を上げた。五十猛もつられたように振り向く。そこには、今し方彼が思い浮かべた名を持つ男の姿があった。

「――失礼します」

 高姫は低い声音で呟くと、逃げるように身を翻した。いや、逃げたのだ。走り去ってゆく高姫の背を見つめる天稚彦は、ひどく辛そうに眉を寄せていた。しかし五十猛と目が合うと、思い出したように一礼して歩み寄ってくる。

「ご苦労様です」

「いえ……本当に苦労するのはこれからですよ」

 天稚彦の労いの言葉に、五十猛は苦笑を浮かべてみせた。しかし天稚彦はそれだけのことを言いに寄ってきたわけではあるまい。促すように彼を見つめると、天稚彦はどこか緊張した面持ちで切り出した。

「私を浜に向かわせて下さい」

 天稚彦の言葉に、五十猛は虚をつかれた。かつての同胞に弓を向けるのは辛かろうと、天稚彦に杵築の守を命じたのは五十猛自身だ。だというのに、彼はその前線に立ちたいという。

「ですが、それは」

「……お願いします」

 もう一度、天稚彦は深々と頭を下げる。それ程までに望むのならば、と五十猛はその願いを許した。

「それでは、貴方を信じましょう。――杵築ではなく、豊葦原を守って下さい」

 微笑みを浮かべてはいるが、その緑の瞳には強い願いが籠められていた。


 □ □ □


 ここは、どこだ。

 冷や汗が背を伝うのを感じながら、八千穂は首を逸らして頭上を見上げた。しかし生い茂った樹枝の隙間からは、狭い空が覗くだけだ。雲は道標にはならない。

 背後から舌打ちが聞こえた。手綱を握ったまま、八千穂は振り向く。水臣が険しい顔をしているのが見えた。

「……道を失う筈が無い。この国のことは隅から隅まで知っている」

 唸るような声音に八千穂は頷き、口を開いた。

「地が何も言おうとしない……我らが踏み締めているのはいったい何だ」

 そう口にした途端に、八千穂はそれが如何に恐ろしいことであるかを悟った。聞こえぬのではない。語りかけてはこないのだ。そのようなことは、今まで一度として無かった。

 踏み締めているのは大地ではない。目に映っているのは木々ではない。耳を澄ましても、鳥の声さえせぬではないか。

「まやかしだ」

 確信と共に八千穂は呟く。彼の周りの兵士達にざわりと動揺が走った。しかしその言葉は彼らに自覚を持たせた。まやかし。確かにこの状況はあり得ぬものだ。

「いつの間に術中に」

 悔しげに呻いたのは宿那であった。

「八千穂、これは堅固な術なのか?」

「……だろうな。恐ろしい程綻びが無い」

 神経を張り巡らせながら、八千穂は応えた。母親から教えられた禁厭を思い出す。これは一人の者に成せる術ではない。おそらくは烽の見た一個隊、彼らの多くが術者であろう。

「くそ……っ」

 水臣が吐き捨てる。彼の御する馬が、呼応するようにいなないた。宿那が不安げに八千穂を見る。

「何とか破れないのか」

「常のまやかしなら、それがまやかしだと気付けば消えるのだが……」

 八千穂はゆっくりと辺りを見渡した。兵士達が怯えた様子で、縋るように自分を見ている。しかしまやかしは揺らぐ気配さえ見せてはいない。八千穂は迷った。方法は無いわけでもないが、それはあまりに絶望的だった。しかし望みの綱を欲する視線に、ついに八千穂は屈した。

「……まやかしは、本来の地の上に重ねられている幻だ。打ち破るには、ここが本来何処であるのかを知ればいい」

 しかしそれが出来ぬから立ち往生しているのだ。それではまやかしに捕らわれ、抜け出せぬと同じこと。場は、しんと静まり返った。

「――こうしていても埒があかないよ」

 ふと、宿那が言った。その声音は奇妙に明るい。皆が驚いて見つめる中で、宿那は笑って見せた。

「日が高いのだし、そろそろ飯にしよう」

 それは彼の虚勢であったのだろう。しかしその言葉に、兵士達もまた笑みを浮かべることが出来た。水臣も宿那の意図に気付き、声を上げて荷を解くことを許す。兵士達は活気を取り戻し始めていた。

「すまない、助かった」

 囁くように八千穂が礼を言ったのを聞き届けて、宿那は唇の橋を持ち上げた。

 そうして一刻ばかり、彼らは不安を忘れて食料を分け合った。いや、不安を忘れようとしたのだ。しかし一度自覚してしまえば、それは容易に無かったことに出来る感情ではなかった。

 けれども彼らは気丈に振る舞った。得体の知れぬまやかしの中で、握り飯をがつがつとたいらげたのだ。ところがその味もどこか霞んでいて、何が真実なのやら全く分からなかった。

 その時、であった。

「お、大国主っ」

 名を呼ばれ、八千穂は顔を上げた。何事かとそちらを見遣ると、兵士たちの間に喉を押さえて呻く高彦の姿があった。

「どうした!?」

「高彦が……いきなり……」

 傍らの兵士が、狼狽えながら高彦の背を叩いてやっている。八千穂も慌ててそちらに駆け寄った。興味を引かれた宿那が後に続く。

「大丈夫か、高彦」

 声を掛けると、高彦は額に汗を浮かべて顔を上げた。喘ぐように唇を動かしている。何かを言おうとしているのだろうか。八千穂はその表情を固唾を呑んで見つめた。高姫や稚彦程ではないにしろ、そこから言葉を読むことは出来る。

 ところがその必要は無かったのだ。

『――見つ、けた』

 高彦の喉から発せられたその声に、その場にいた誰もが目を見開いた。

『見つけた。やっと見つけた』

 繰り返す、その声音は単調だった。

「た……高彦……?」

 怯えたように宿那が呟く。この声音の調子には聞き覚えがあった。どんなに気が高ぶっていても、他者の喉を通した声は平坦になるもの。それに気付き、八千穂ははっとする。

『違います。僕は事代だ』

 返ってきたのは、八千穂が予測していたまさにその答えであった。兵士達の間のどよめきが大きくなる。事態を聞きつけた将らが、何事かと集まってきた。

「事代、どうして」

『杵築の現状を伝えよと、五十猛殿に命じられたのです。――高天原が大挙してやって参りました。その数は七百を超えている』

 まやかしの空間を、呼気すらも押し殺した静寂が過ぎった。しかし一瞬の間を置いて、弾かれたように声が上がる。信じられぬ、と誰もが言っていた。

『急ぎお帰り下さい。早く。今の数では守りの戦しかできません』

 高彦が、いや、事代が言う。ざわめきは収束する気配を見せなかったが、八千穂がそれを制するように片手を頭上で降ると、やがてその声は小さくなっていった。

「事代、聞きたいことがある」

『……何でしょうか』

 事代の返答はいささか低い。このような時にまで、と思いながらも、八千穂はそのことには触れなかった。

「この場がまやかしであることには気付いているか」

『何かがおかしい、とは思っていましたが……まやかしですか。通りで烏の目には映らぬはずだ』

 八千穂は頷き、そして続けた。

「外に身を置くのだから、分かるかもしれない。――この地の名が分かるだろうか」

 その問いかけに、未だにざわついていた場は水を打ったように静まり返った。知らず望みを託された事代は空気の変化に戸惑ったようだった。しかし注がれる視線の真摯さに気付くと、彼は高彦の喉の奥から、ゆっくりと答えを絞り出した。

『おそらくは、烏の目で見ていた時、不審に思っていた歪みの場所でしょう。分かります』

 おお、と感嘆の声が漏れる。

 そして事代は、鍵となるその地の名を口にした。

『ここは、仁多郡にたのこおり御津郷みつのさと

 ぱきん、と、まるで玉の砕けるような音がして、一軍を覆っていた厚いまやかしは崩れていった。

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