第五章其の一 策略
鳴女が姿を見せなくなって、既に二月が経とうとしていた。主を持つ化生は忠実なもの。それが戻ってこないとあらば、何かあったとしか考えられない。照姫は空を睨み据える。何もかもが上手くゆかぬ事が、ひどく腹立たしかった。
一体何があったのか、考えられる可能性はいくつかある。杵築への道中、もしくは帰路で、何らかの事故に遭ったのだろうか。照姫はかぶりを振る。違う、そうではないだろう。
――天稚彦の、離叛。
幾度も思考を巡らせ、そして辿り着いている結論に、照姫は今宵もまた唇を噛んだ。思えば、もう随分前から天稚彦の報告は意味を成さないものであった。それは無能故の事かと思っていたが、まさかこのような形で裏切られるとは。鳴女は捕らえられたか、殺されたか。何れにせよ、あの雉が照姫の手元に戻ってくることは無いだろう。
照姫は白砂の敷き詰められた、館の敷地を進んでいた。何か意味があってのことではない。日はとうに落ちたというのに、うだるような熱気を帯びた夜の空気が疎ましかったのだ。そうして歩を進めているうちは、幾らか風を感じることが出来た。
「……姉上」
不意に後方から声を掛けられ、照姫は足を止めた。そのように自分を呼ぶ者は、この高天原には一人しかいない。振り向くと、丈夫の姿が見えた。
「どうしたのか、このような夜更けに」
「それはこちらが言おうとしていたこと」
苦笑混じりの弟の言葉に、何故か苛立ちを覚える。
「この屋敷は私のもの。何故お前がここにいるのか、問うているだ」
眉をつり上げると、弟は肩を竦めて見せた。からかうようなその態度が、腹立たしい。
「輝血」
堪りかね、憤りを籠めて名を呼んだ。弟はすうと目を細める。唇にこそ笑みが浮かんでいるが、その表情は確実に怒りを表すものだった。
「その名を――」
大股に、輝血は照姫に近付く。
「呼ばれるのは好かぬと言っている」
手が届くほどの距離まで近付いてきた輝血に、真向かい見下ろされる。照姫は冷たく微笑んだ。
「あら、良き名ではないか。負け知らずの将なのであろう」
輝血の瞳に怒りの火がともる。それを眺めている自分が随分嗜虐的になっていることに、照姫は気付いた。微笑みの内側で、照姫はもう一つの歪んだ笑みを作る。須佐にしろ輝血にしろ、彼ら兄弟というものはどうしてこうも憎しみ合わずにはいられないのか。
輝血は今一度照姫を睨み付ける。そのまま去るのではと思ったが、彼はそこに踏み止まった。
「……何用か」
「鳴女が帰ってきていないと聞いた」
今し方の思考を読まれたような気がして、照姫は不快そうに眉を寄せた。しかし輝血は気にした風でもなく、続ける。
「大方、出雲の連中に殺されたのだ。間者にも気付かれたことだろう」
「何が言いたい」
照姫が強い語調で問う。輝血は唇の端を持ち上げた。
「腹の探り合いはここまでだ」
戦を欲する者の目であった。彼が否定する輝血の名そのものに、血を求めて爛々と目を輝かせていた。それに気付き、照姫は薄く笑う。求めるものは違えど、彼らの利害は一致していた。
「大きな戦を仕掛けたいのだな」
今までよりも柔らかな声音で問えば、輝血は肯定の笑みを浮かべた。
□ □ □
多夫志烽に狼煙が昇った。見張りの兵士が叫んだ言葉に、杵築の大社は色めき立った。それは即ち、高天原の襲来を意味する。狼煙を読み解いた兵士の言を信じるならば、その数三百。まれに見る大部隊が山を越えているという。――しかし、勝てぬ数ではない。
「そろそろ来る頃だとは思っていたが」
桂甲を身に縛りつけながら水臣が言うのに、八千穂は頷く。天稚彦の一件から三月。晩夏は米作りにいくらかの余裕が出来る季節だ。耕作が不可能な冬と比べても、兵士を動かすにはこれ以上の時はない。籠手をはめながら首を巡らせると、身支度をすませた兵士達が次第に集まってくるのが見えた。
「四百五十程の兵士で事足りるでしょうか」
そう問うてきたのは五十猛であった。
「ああ、十分だと思う。杵築を守る者も必要だ」
八千穂の答えに、五十猛は満足そうに微笑んだ。王としての振る舞いが随分板に付いている。
「では、将はどなたを」
「俺は行くぞ。勿論な」
当然とばかりに言う水臣に、八千穂は笑って許しを出した。それからふと思い巡らすようにした後に、幾人かの将の名を挙げる。何れも馬を駆るのに秀でた将だ。山を越えねばならぬとすれば、確かに馬の脚が必要となる。五十猛は頷き、その決定を将らに伝えるために席を立った。
両手の籠手を調整し終わると、八千穂は腰に大刀を佩く。ずしりと重い鋼の感覚には、いつまで経っても慣れることが出来ない。八千穂が顔をしかめたのに気付いたのだろう。桂甲をがちゃつかせながら、水臣はからからと笑った。
「相も変わらず、剣が好かないか」
「そうだな……出来れば、抜きたくない」
戦を前にしてのその言葉は、恐れと取られても仕方のないものだった。しかしそうではないことを、水臣は重々承知している。年若い王は、水臣が自分を見ているのに気付くと何かを問うように微笑んでみせた。王としての余裕。それを身につけたことは確かだが、果たしてそれが虚勢ではないといったい誰に分かることだろう。水臣は我知らず八千穂の頭に掌を載せたが、すぐに彼が驚きの表情を浮かべたのを見て己がしたことを理解する。内心そんな自分に驚きながらも、その手をどけるつもりは無かった。
幼い子供にするように、大きな掌で八千穂の頭を軽く撫でる。
「俺たちは出雲を守ればいい。高天原の連中など追い払うだけでいい」
初めこそ目を見開いていた八千穂は、水臣の言葉を理解するとその表情を微笑みに変えた。五十猛に見られれば叱責では済まないだろう行いだったが、八千穂は気にした様子もなかった。ありがとう、と微かな声で八千穂が呟いたのが、水臣には聞こえた。
「八千穂っ」
慌ただしい足音と共に、聞き慣れた声が八千穂を呼んでいる。水臣は慌てて掌を浮かせた。八千穂が振り返ると、跳ねるようにしてやってくる宿那が見える。細身のものとはいえ、珍しく腰に剣を下げていた。
「どうした」
「須世理姫が、戦に行くなら鎧を着ろと言うんだ。あれは重いから嫌いだ」
だから逃げ出してきたのだと宿那は言う。
「お前も来るのか?」
「勿論だ!」
先程の自分の言葉と同じ答えが返ってきたことに、水臣が吹き出した。宿那はそんな水臣を不思議そうに見る。その様子を、八千穂は楽しそうに眺めていた。
「大国主、馬の用意が出来ました! 兵も集まっております!」
一人の兵士が八千穂に向かって声を掛ける。八千穂は頷き、壁に立て掛けられていた矢筒と弓を手に取った。宿那と水臣の方を見ると、彼らもまた表情を引き締めたのが分かる。
「――出立だ」
「おう!」
八千穂の言葉に、宿那が威勢の良い声を上げた。水臣は唇の端を持ち上げて、逞しい首を鳴らす。戦が始まるのだ。八千穂はその実感と共に、弓幹を握る手に力を籠めた。
□ □ □
兵団が発った後の杵築は、奇妙な静けさの中にあった。先程までの慌ただしさが嘘のように、城は静まりかえっている。誰もが不安に口を閉ざしているのだ。
――私もまた、同じ。
八千穂を見送った須世理は、杵築の城壁が作る日影に腰を落としていた。夏が終わるとは言っても、残暑は未だ厳しい。部屋に籠もっているよりは、こうして外にいる方が良い。
「たくさんのひとが、行きましたね」
ぽつりと呟いたのは、須世理の傍らに座っている秋鹿であった。
「今までで最も多くの兵を、高天原が送り込んでいると聞きました」
須世理が言うと、秋鹿は心配そうな表情で頷く。意思の疎通は滑らかだ。秋鹿はこちらの言葉をすっかり覚えてしまった。
「向かったのは山の方ですね」
「ええ。……山脈を越えてきたのでしょうか」
須世理が懸念するように呟いた。それは秋鹿に答えられる問いではない。一瞬困ったような表情を浮かべた彼女は、何も答えずにふと立ち上がった。兵団が去っていった方向を眺めて、そして青く霞む山々の向こうを見透かそうとするようにおとがいを上げた。
そのまま、半刻ほどそうしていただろうか。不意に城門がぎしりと音を立てた。二人ははっとしてそちらを見る。僅かな扉の隙間から滑り出るようにして現れたのは、男の装束を纏った娘だった。高姫である。彼女もまた二人に気付いたようで、慌てて頭を下げた。
「高姫は此度の兵団には加わっていないのですね」
「は、はい。高彦は行ったのですけれど」
微笑んで須世理が言うのに、高姫は苦笑のような表情を浮かべて答えた。それを不思議に思って、須世理は高姫をじっと見つめる。高姫は居心地悪そうに目を泳がせ、失礼します、と小さく呟いて再び門の内側に消えようとした。しかしその袖を、突然に秋鹿が掴む。
「タカヒメさん、待って下さい」
驚き、高姫は秋鹿を見た。秋鹿はにこりと笑い、続ける。
「ワカヒコさんが、悲しがっていましたよ」
秋鹿がその名を口にした途端、高姫の表情が変わった。秋鹿の手を振り払うようにして、高姫は身を翻す。その行動に驚いて、秋鹿はその場に立ち尽くしていた。須世理は苦笑する。秋鹿は良かれと思ってしたことなのだ。
「秋鹿、高姫が稚彦を避ける理由は、稚彦がずっと嘘を付いていたからです」
「ウソですか?」
「ええ。稚彦が高天原の者だったということは、聞き及んでいるでしょう?」
須世理の言葉に、秋鹿は頷く。
「それをずっと黙っていたから、高姫は怒っているんです」
秋鹿は納得がいかぬという表情を浮かべて見せたが、それ以上は言わずに再び座り込んだ。飽きもせず山の向こうを見つめている。その横顔を見た後、須世理もまた視線を山へと向けた。
本当は、それだけである筈がない。
高天原から遣わされていたのは、化生の女であったという。茫然と佇んでいた稚彦の足下に、彼からの矢を受けて冷たくなっていたと聞いた。高姫が語ったことによると、その化生は彼女に斬り掛かってきたらしい。そして稚彦は、高姫を守るためにその化生を殺したのだ、と。
――本当は、怒っているのではなく、哀しく、恐ろしいのに違いない。
ずっと騙されていたことよりも、自分のために命を失った者がいるということが哀しく、それを成した稚彦が恐ろしいのだ。それがある故に、高姫は稚彦に許しを与える機会を逸し、それきり口もきいていないのだ。須世理はそう考える。あながち間違ってはいないだろう。
思いというものは、厄介なものだ。須世理はふと溜息を吐く。秋鹿が不思議そうにこちらを見た。
それに微笑んで見せたとき、城壁の内側から大きな声が響いた。
「狼煙が上がっています! 海岸線にて、石見国より高天原の兵団が!」
見張りの兵のその言葉に、一瞬、誰もが何を言われたのか分からなかった。高天原の連中は、山の向こうにいるはずだ。しかし見張り兵は必死の声音で、狼煙が伝える情報を読み解いている。
「兵士の数は七百を超える。一時もすれば伊那佐の浜に辿り着く!」
伊那佐の浜。それは杵築の大社が佇む地を表していた。加えてその兵士の数。七百もの高天原の兵が、大挙してやってきたことなど未だかつて無い。
先の侵攻は囮であったのだ。出雲に残る兵士は五百に満たない。地の利があるとはいえ、厳しい戦いになるだろう。水を打ったように静まりかえった杵築には、次の瞬間激しい怒号が乱れ飛んだ。