第四章其の六 発覚
夕刻から急に曇りだした空は、十六夜の月が照るを待たずしてすっかり厚い雲に覆われていた。本来ならば日が次第に長くなってゆく季節であるというのに、星も見えぬ闇夜の訪れは随分と早く感じられた。
天稚彦は椎の枝から丸太塀を越え、いつもに増して足早に、そして音を立てぬよう気を配って進む。目立たぬように腰に下げられているのは、短い矢が幾本か入った箙であった。手には弓。それらは天稚彦が恐怖と対峙するためのもの、命をつなぎ止めるためのものである。
闇の中から生えだしたように、化生の女が姿を現す。天稚彦はごくりと唾を飲み込んだ。
「――おや、弓など持って、どうなさるおつもりですか」
「猪を追い払ってくると言って杵築を出てきたんだ」
己の唇が滑らかに嘘を紡ぐのを、天稚彦はどこか遠いところで聞いているような気がしていた。鳴女が頷く。その僅かな動作も、天稚彦の目を持ってすれば見分けることが出来た。
「状況は?」
鳴女はその言葉を疑いなく受け止めたようだった。問われ、天稚彦は口を開く。肌寒いような夜の大気に、背にじっとりとかいた汗が酷く冷たく感じられた。
「筑紫の山祇が、三日程前に到着した。諍いなども無い。筑紫の兵士らはおよそ二百五十。出雲の守りはより堅牢なものとなった」
その言葉を、鳴女は表情無く聞いていた。しかしこの程度の情報は、高天原の目によって既に得ているものであろう。天稚彦は弓を握る手に力を込めた。問題は、ここからだ。
「そして出雲の兵士達に広がっている噂が、ある」
「噂?」
鳴女が首を傾げる。天稚彦は頷いた。
「筑紫には高天原からの間者が送り込まれていたが、その者は高天原自身の手によって殺された、と」
ともすれば震えそうになる声音を必死で平静に御し、天稚彦は言った。鳴女は暫くの間無言であったが、天稚彦の訴えかけるような眼差しに促されるように、肯定の言葉を返す。真実であることは分かっていた。知りたいのは詳細だ。無言で視線をそらさぬ天稚彦に、やがて鳴女は口を開いた。
「主が望んだことではありませぬ。あの方が憂いだのは、火乃芸殿が懸想していた女のこと。それを亡き者にしようと持ちかけたのは、鏡。火乃芸殿までもがお亡くなりになったことで、主は鏡の御方を責めていらっしゃるようでもありました」
言い訳をするように鳴女は語る。それは彼女に課せられた役目の範疇を超えることであろう。それ程に火乃芸の死は、鳴女の主、天照姫にとって衝撃が大きかったのだ。
なれば、自分までもが殺されるということはなかろう。天稚彦は心の内に広がってゆく安堵に、小さく、細く息を吐き出した。
けれど、ふと鳴女の言葉を思い返す。鏡の御方。照姫が巨大な鏡とともに政を行っていることは、照姫に近しい者にはおろか兵士達にまで噂として知れ渡っている。しかしその向こうにいるのが何者なのかは、誰一人として知らなかった。それは一種の呪法のようなもので、照姫は鏡を通じて己自身の深い意識と対峙しているのだ、という説が有力なものであった。だからこそ誰もその鏡について、殊更に言及しようとは思わなかったのだ。
しかし鳴女の言葉によれば、照姫と鏡の御方とやらは別個の人格であるようだ。天稚彦は首をひねった。
天稚彦の思考は刹那の間のことだった。鳴女は口を閉ざすと、時を置かずして話しは終わったとばかりに踵を返そうとする。その時だ。微かに聞こえた物音に、二人は耳聡く振り返った。
そこに立っていた、人物に、天稚彦は瞳を見開いた。それは相手も同じことだった。驚きに目を見張り立ちつくしていたのは、高姫であったのだ。
一瞬、その場にいた三人は全て動きを止める。鳴女が足を止めたのは、事態を見極めようとしてのことだった。下手に動けば天稚彦が怪しまれる。そうすれば間者として働くことが出来なくなると踏んだのだ。話をどこまで聞かれたのか。鳴女は高姫を見据えた。
「高天原……っ」
しかし高姫はそれだけ言うと、我に返って駆けだした。杵築の城の方向だ。ならば敵と見なされたのだろう。鳴女は地を蹴る。口を封じねばなるまい。腰の鞘から刀子を引き抜く。元々が鳥だけに、身の軽さには自信があった。追いつける。そう確信をした鳴女は、しかし、次の瞬間背に感じた激痛に声を上げる間もなく地に倒れ込んだ。
叫びを噛み殺したまま草の上を転げ回る。背はまるで楔を打ち込まれたように痛んだ。何があった。けれど考える暇を与えず、再びの激痛が鳴女を襲う。堪らず、鳴女の喉は音を絞り出した。闇を裂くそれは、まさに野に響く雉の声そのものであった。
やがてぴくりとも動かなくなった鳴女の向こう側では、構えた弓を降ろすことが出来ないでいる天稚彦の姿があった。放った矢は二本。背と胸だ。たったそれだけで鳴女は黄泉へと下った。自分がしでかしてしまったことに、天稚彦は呆然となる。同じ表情を浮かべている高姫は、天稚彦と鳴女を挟んで向かい合う形となっている。何が起こったのかも分からぬ、という面持ちでいた高姫だったが、ゆっくりと鳴女に目を落とし、天稚彦を見、そしてぎこちない足取りでもう一度踵を返した。天稚彦は制止の言葉すら思いつくことが出来ない。のろのろとした歩みで高姫が小山の向こうに消えた頃になって、ようやく彼は弓を降ろした。
立ち去らねばならない。それは分かっていた。しかし天稚彦は倒れ伏し動かぬ鳴女を見下ろしたまま、彫像のように立ち尽くしていた。高姫に知られてしまった。己が高天原の者だということを。高姫に見られてしまった。己が何の戸惑いもなく、女の背に矢を射かけたところを。
どれ程そうしていたことだろうか。数人の兵士が武具を手に、小山の向こう側から駆けてくるのが見えた。先頭は高彦ではないか。己と同じ顔が、奇妙な表情を浮かべているのが見えた。信じられぬと思いながら、しかし事実を受け入れる覚悟を決めた表情だ。
何もかもが終わってしまった。弓を握る手には力が入らない。天稚彦は逃げるという意志すらなく、駆けてくる彼らを見つめていた。
□ □ □
出雲にもまた、間者が入り込んでいた。けれどその事実は筑紫のそれとは違い、声高に口にされることはなかった。他でもない大国主が、事実を知る兵士達に箝口を命じたのである。そうは言っても戸が立てられないのが人の口というものだ。その日の内に噂は密やかにではあるが広まっていった。
そんな中、将らが再び集められたのは夕刻である。広間に列席する将等は皆表情を硬くしていた。宿那までもが眉根を寄せている。八千穂は無表情を崩さずに、己に真向かっている男をじっと見つめた。天稚彦ではない。彼を知っていたのであろう人物、菩比である。
菩比の表情の中にはいつもの飄々とした態度は見られず、唇を噛むように閉ざしている。八千穂はおもむろに口を開いた。
「稚彦が高天原の者であることを、気付いていたな?」
確かめるような言葉に、菩比は頷く。
「それを黙っていたということは、豊葦原をも裏切っていたことと考えていいのか?」
今度は首を横に振った。だん、という音が響く。水臣が拳で床を打ち付けたのだ。加減はしたのであろうが、その床の震えは足を痺れさせる程に感じられた。
「この期に及んで、しらを切るか」
低い響きのその声は、並の者が聞いたなら血が凍るような敵意を帯びている。普段の陽気さとはうってかわった態度に、宿那が驚いたようにそちらを見た。しかし将達はそれを当然と受け止めたようだ。その言葉に賛同していることは、その場を包む空気から知れた。
八千穂は何も言わない。あくまでも静かに菩比を見る。菩比は周囲の刺すような視線に耐えながら、呼気と共に言葉を吐き出していった。
「俺が豊葦原を裏切っていれば、神産巣日神に雷で裂かれているでしょう。誓いの言葉は決して破ってはいません」
「なら、どうして」
すかさずそう問うたのは宿那であった。
「間者……天稚彦もまた、高天原に従うことに疑問を感じていたんです」
「天稚彦、というのが真の名か」
水臣が唸る。成る程、その名はいかにも高天原のものであろう。菩比は頷き、続けた。
「豊葦原の本拠、出雲に間者として送り込まれるなど、危険極まりない役目です。天稚彦の顔には迷いが見えた。俺は離叛を持ちかけました。しかし」
菩比はそこで、ふと疲れたように笑った。
「根が真面目な方でして、その場での答えを戸惑った。私はずっと見張っていました。昨晩もです。しかし天稚彦が、高天原から遣わされる化生に出雲の不利となることを喋ることは一度として無かった」
「……と、言うと?」
八千穂が静かに促した。
「言葉巧みに化生を納得させ、高天原に追い返していました。一年もせぬうちに、天稚彦は俺に出雲を決して裏切らぬと宣言した。しかし今更高天原の者であることを言い出せもせず、また己のために戦が激化してはならぬと、高天原に離叛の宣言をすることも出来なかった」
菩比はそこで一度言葉を切ったが、思い返し、付け加えるように呟く。
「――葛藤しておいでだった」
広間はしんと静まり返った。信じて良いのだろうかという、将らの迷い。菩比は偽りを口にするような男ではないと誰もが思っていながら、その男がかつては敵であったことを思い起こしていた。
八千穂は目の前の男を見つめる。嘘は言っていないだろう。本心も確かに言葉通りのものなのであろう。ならば将らの怒りはどこへ根差しているのか。それはおそらく、今まで欺き続けられていたことによるものだ。
不思議と八千穂自身には、怒りが感じられなかった。視線を菩比から逸らし、戸口の方へと首を向ける。そうしてそこに控えているであろう、兵士に向かって声を掛けた。
「すまない、稚彦を連れてきてくれないか」
広間の中の空気が揺れる。兵士は返事をして、廊下の向こうに消えていった。天稚彦は倉の中に入れられている。出雲には牢もあるが、それを使うことははばかられたのだ。
「八千穂、どうするつもりだ」
宿那が袖を引いて問う。将達や菩比も同じ疑問を感じて八千穂を見ていた。
「本心を聞く。話しはそれからだ」
そう言って、八千穂はぐるりと広間を見渡した。
「皆、怒りを覚えるも無理無いことと思うが、今はどうか耐えてくれ」
強い言葉に、将らは頷く。腕組みをして押し黙る水臣も、傍らの五十猛に何事かを囁かれ渋々といった様子で頷いた。
暫くの間、彼らは待った。やがて廊下を踏む音が聞こえ、引き戸が開けられる。両手首を後ろ手に縛られた天稚彦は、居並ぶ将らに向かい深々と一礼した。
憔悴したような顔をしていた。倉に入れられてからは食事にも手をつけず、眠ってもいないという。ただひたすらに壁の一点を見つめていた、と見張りの兵士が言っていた。たかが半日のことではあるが、彼にとってそれはどんなにか長い時間に感じられたことだろう。痛ましくさえ思いながら、八千穂は天稚彦に菩比の隣に腰を下ろすように示した。腕が使えぬため、天稚彦の動作はぎこちない。
「……縄を外すか?」
八千穂は問う。天稚彦は首を横に振った。けれども八千穂にとって、縛られた者を相手に会話をするなど考えられぬことである。膝立ちで天稚彦ににじり寄ると、堅い縄の結び目に指をかけた。いくらか力を込めてその戒めを取り払う。急に自由になった両手を持て余すように胡座をかいた膝に載せ、天稚彦は礼を言った。
「ありがとう、ございます」
「いや」
再び己の座に戻ると、八千穂は改めて菩比と天稚彦を見る。高天原を出自とする者。将らの視線も彼らに集まる。八千穂は口を開いた。
「稚彦……いや、天稚彦に問う」
名を呼ばれたことにより、彼の瞳にいくらか力が戻る。それを見据えながら、八千穂は続けた。
「あなたは、出雲の輩か?」
予期せぬ問いに、天稚彦は目を見張った。高天原の者であることは既に知れている。問われるならば、彼が今までにそれを言い出さなかった理由、そして高天原に何を伝えたかであると思っていた。しかし八千穂からの問いかけは、そのどちらでもない。天稚彦は逡巡した。
「……そうありたいと願い、そうあろうとしてきました」
天稚彦は答えを絞り出す。八千穂はそれを聞き届け、そしてゆっくりと次の言葉を口にした。
「出雲の輩となってくれるか」
三年前と、一言一句変わらぬ言葉であった。儀式にも似たその問いかけに、天稚彦は胸が詰まる思いがした。大国主は全てをやり直そうというのだ。己が臆病故に蝙蝠として過ごした三年を、やり直す機会を与えようというのだ。
将達もまた八千穂の意図に気付き、そして天稚彦の答えを待った。不快な怒りは消え去ってはいないが、息をひそめて待つという行為が彼らに冷静さを取り戻させていた。天稚彦をじっと見つめる。彼の肩が、小さく震え始めた。
膝の上で握りしめた天稚彦の拳に、水滴が落ちる。噛み締めた奥歯の向こうから、くぐもった嗚咽が聞こえた。何とか言葉を紡ごうと口を開けど、幼子のように嗚咽を止めることが出来ない。返答の代わりに、天稚彦は床に額がこすれる程に頭を下げた。
八千穂はそれを静かに見つめる。天稚彦はそうするうちにやがて落ち着いたのだろう。肩の震えは止まり、床についた掌には力が籠もった。
「誓います……神産巣日神に誓います。出雲の……豊葦原のために我が身を捧げ、今までの罪の裁きを受けることを誓います!」
叫ぶようにして天稚彦は言う。八千穂は、しかし顔を曇らせた。
「天稚彦、それは違う」
その言葉に、天稚彦はそろそろと顔を上げた。悲しげな表情を浮かべ、八千穂は首を横に振る。
「出雲の輩になるということは、出雲に身を捧げるということではない。出雲の民が出雲のために働き、その利をまた別の出雲の民が受ける。その環の中に、身を置くということだ」
八千穂の言葉に、天稚彦は当惑する。そのような理屈を、彼は知らなかった。
「高天原には無き概念です。俺もこちらに来てから学びました」
横でぽつりと菩比が言った。
「兵士の役目は、戦からムラの者達を守ること。そうして守られたムラの者達は、我々の耕作だけでは足らぬ食料を分けてくれる」
菩比がそう説明するのを聞いて、天稚彦の心に理解の波が広がる。暗い洞窟から飛び出して、眼下に遠く広がる世界を見渡したような心地がした。
「――分かりました」
先程に比べ、随分と落ち着いた声音で天稚彦は言う。
「出雲に暮らす全ての者のために、全身全霊を籠めて、働きたいと思います」
一言一言確かめるようなその言葉に、八千穂は頷く。将達もまた、その真摯な言葉に怒りを忘れる。天稚彦の行いは過ぎたること。そう認識した将達は、彼に許しを与えたのだ。
「さて……早速だが、聞きたいことがある」
張りつめていた空気が緩んだのを好機として、八千穂が口を開いた。
「何でしょうか」
「高天原についてだ。菩比の知らぬことを知ってはいまいか。……例えば、何故天照姫は豊葦原を欲するのか」
須佐ノ王はそれを照姫の驕りだと語った。しかしそれだけで戦は続かぬだろう。そう思っての問いだった。天稚彦は眉を寄せた。
「私も、それをずっと不思議に思っていたのです」
「そうか……」
残念そうに八千穂が呟いた。けれど天稚彦は、ふと気付いたように声を上げる。
「――そういえば」
広間の視線を一身に集めてしまう。そこにむず痒いような居心地の悪さを感じながら、彼は続けた。
「天照姫が大きな鏡と語らっていることはご存じですか」
「ああ、菩比から聞いた」
「そこに映っている者については?」
「照姫の影という話しだと……」
確かめるように、八千穂は菩比を見る。菩比は苦笑のような表情を浮かべて言った。
「噂ですが、そう聞き及んでいます」
その言葉に、天稚彦は頷く。やはりいくら知恵の回る菩比といっても、兵士の身では得られる情報には限りがある。
「それがどうやら、違うようです。……私が思うに、照姫もまた、何らかの指示を受けている」
広間の空気がざわめいた。将の一人が天稚彦に問う。
「本当か?」
「確実ではありませんが」
「では、その者は」
別の将の言葉に、しかし天稚彦は答えられない。ざわめきは次第に収束していく。その時、今までじっと考え込むように床を見つめていた五十猛が、厳しい色を帯びた眼差しで顔を上げた。
「鏡を介するということは、その語らいは託宣に近いということですね」
己の意識を鏡や夢に映して他者に伝えるそれは、上位の神のみが行うことが出来るものだ。
「名のある神ということか」
水臣が問う。五十猛は首をゆっくりと横に振った。
「分かりません……しかし、思いつく可能性が一つあります」
その言葉に、広間に居並ぶ者達は固唾を呑んだ。五十猛の次の言葉を待つ。彼は暫し思案していたようだったが、覚悟を決めたように切り出した。
「我ら豊葦原の勢力の影に神産巣日神がいるように、高天原の後ろにもまた、造化三神がいるのではないかと思ったのです」
――高産巣日神。
誰もがその名を思い浮かべ、そして戦慄を覚えた。その名を決して口に出してはいけない。かつてはその名を冗談のように使った菩比でさえ、この場では青ざめて口を噤んでいる。
「……まさか」
「ええ、決めつけてはいけません。これは最も恐ろしい憶測でしかないのです」
八千穂が呻くように呟いたのに応じて、五十猛は言う。
「鏡の影が何者であろうと、高天原の侵攻の理由が不可解なことには変わりありません」
己に言い聞かせるような五十猛の言葉は、しかしその場の全ての者に染み渡った。無闇に恐れてはならない。誰もがその思いを噛み締める。
山祇が、ぽつりと呟いた。
「磐姫に呪をかけた気触れの女も、小さな鏡を持っていた……」
その言葉に返答出来る者はいない。
自分たちは何を相手に戦い続けてきたのであろうか。得体の知れぬ者への奇妙な恐れは、勇猛の名をほしいままにしてきた将達でさえ打ち消すことは出来なかった。
第四章 了