第四章其の五 再訪
兵士の一団を率いた山祇は、馬の背に揺られながら杵築の大社を目指していた。日の出前の大気は清々しく、手綱を握る手を心地良く冷やした。夏が始まろうとしている。朝靄に霞む小山は、柔らかな新緑に染まっていた。
――そして小山の向こうから、大社は唐突に姿を現す。
記憶を手繰りながら、山祇は思う。初めてその巨大な建造物を目にした時の興奮が、再び息を吹き返したようだった。一度は背を向けた己を受け入れてもらえるだろうかという、不安と期待の入り交じった心持ち。それらを胸に、山祇は目を細めた。
しかしその静かな感慨は、次の瞬間驚きに取って代わった。朝靄を切り裂くようにして、小山の向こう側から人影が飛び出したのである。こちらの到着を知った兵士であろうか、と山祇は思った。しかし駆けてくる人影との距離が詰まると、それが大きな間違いであったことに気付く。
忘れようにも忘れられぬ、漆黒の双眸を持つ少年であった。
大国主自らが姿を見せたことに内心ひどく狼狽しながら、山祇は馬の足を止めた。兵士達もそれに倣う。そうするうちに、少年は速度を落とし、そして山祇の目前で歩みを止めた。大して乱れてもいない息を整えようとでもするように、少年は俯いて深く呼気を吐き出す。そうして馬上の山祇を見上げた時には、晴れやかな微笑みを浮かべていた。
「お久しぶりです、山祇殿」
柔らかな声音であった。余程急いでやってきたのであろう、腰にまで届く彼の黒髪は、結われることなく背に流されるままになっている。巫女のような風情だった。山祇は息を呑む。――遠い昔を、思い出した。
もう二十年も前のことだ。見知った無骨な男の横に、華奢な佳人の姿があった。冷やかすように声を掛けると、男は柄にもなく赤面した。その隣で微笑んでいた美しい女と、目の前の少年が重なる。
『冬衣が戦で無茶をしないよう、見張っていて下さいね』
そう言って女は笑ったはずだ。けれどそれから一年もせぬうちに、冬衣は矢を受けて死んだ。女がどこへ行ったのか、山祇は考えもしなかった。
「……すまなかった……」
口を衝いて出た謝罪の言葉を、大国主は出雲を離れたことについてのものだと理解したのだろう。いいえ、と言って笑う様子には、数年前の少年には無かったゆとりが見える。しかしその謝罪の意味する本当の理由は、山祇自身にすら分からなかった。
□ □ □
日の出前にも関わらず、杵築を包む空気は慌ただしいものだった。山祇の到着を知らせる早馬に叩き起こされたのである。
「八千穂さんはどこへ?」
「髪も結わずに飛び出してった」
五十猛が問うのに、宿那が欠伸混じりで答えた。五十猛は苦笑して宿那と分かれ、厨へと向かう。夜通し山道を駆けてきて腹を空かせているだろう兵士達のために、朝餉の用意を頼むためだった。
宿那はその背を見送りながら伸びをして、それからふらりと立ち上がる。寝所を後にして彼が向かった先は城門であった。八千穂に“争”を挑み、そして敗れたという筑紫の長の顔を彼は知らない。宿那はいつもの好奇心から、落ち着かぬ雰囲気の中を進んで行く。しかし城門の人だかりが見えるようになったとき、彼はその慌ただしさの中心に別の理由があることにも気が付いた。
赤子の泣き声がするのである。
「八千穂」
声を掛けると、見知った後ろ姿が振り向いた。当惑したような表情を浮かべている。その彼のすぐ横に、小山のような大男が胸の前で何かを掬うような形に両手を合わせて立っていた。山祇と呼ばれる男に相違ない。
宿那は彼らの元に駆け寄ると、山祇に向かって会釈程度に頭を下げた。
「初めまして、山祇殿」
「ああ……」
頷く山祇を見上げる。背の丈は六尺を優に超えているだろう。しかし宿那の目に留まったのは、山祇の巨大な掌に載せられた赤子であった。泣き声の主はそこにいたのだ。
「乳飲み子じゃないか」
「山祇殿の娘御の子だそうだ。先頃まで眠っていたんだが……」
八千穂の表情の理由はそこにあったらしい。無理もなかろう。やっと首が据わったような嬰児が、割れんばかりの泣き声を上げているのだ。山祇は何とか赤子をあやそうとしていたが、宿那が見ている限りではその努力は無為に終わっていた。
「山祇殿の顔が怖いんじゃないのか」
その不作法な物言いを諫めるように、八千穂は顔をしかめる。しかし山祇は笑うばかりで、気にした様子はなかった。それよりも泣き続ける赤子の方が気にかかるのだろう。怖いと言われた顔を何とかしようとするように、おかしな表情を作る。
――随分、人柄が円くなられた。
八千穂は内心驚嘆した。
ともかく、いつまでもこうして城門を塞いでいるわけにもいくまい。兵士達に朝餉にするように指示を出すと、赤子を抱えた山祇と、八千穂、そして宿那は将らの集まる館へと向かった。赤子は泣き疲れたのか、再び眠りこけていた。
「随分と若いが、お主も将か?」
横柄な態度をとる宿那を不思議に思ってか、山祇は問う。宿那はにやりと笑って見せた。
「いいや」
「しかしそれ程鮮やかな紅の瞳を持っているのだ。神力は相当のものであろう」
「これは染まっているわけじゃない。白子故に血が透けているだけだ」
どこかからかい混じりのその答えに、山祇は八千穂の方へ目を遣る。八千穂は苦笑した。確かに宿那の存在は、慣れぬ者の目には奇妙に映ることだろう。そして何より、誰一人として――それこそ八千穂や宿那自身でさえ、実のところ宿那がどういった立場の者であるのか言葉で説明することは出来ないのだ。
「宿那、という。神産巣日神より賜った名だそうだ」
とりあえずはと名を告げるが、次の言葉に八千穂は困った。しかし山祇はあっさりと口にされた造化三神の名の方に驚いたのだろう、目を見開いて宿那を見る。少年は得意げに笑って見せた。
八千穂が次の言葉を思いつく前に、彼らは館へと辿り着いていた。引き戸を開けると、既に将らは列席していた。広間に集う二十人ばかりの将は、申し合わせたように三人に顔を向ける。八千穂は彼らに会釈をして敷居を跨ぎ、宿那もそれに続いた。八千穂が落ち着いた動作で腰を下ろすと、隣の席に座していた五十猛がそっと何かを差し出してくる。髪を縛るための組紐だった。八千穂は唇の動きだけで礼を言うと、手慣れた仕草で黒髪を垂髪に結った。
宿那が座り込むと、自然、視線は未だ広間に入ってこない山祇に集まる。何故、今になって。多くの厳しい視線は、無言でそう問うていた。八千穂の迎えが暖かなものであっただけに、その眼差しは山祇にとってひどく冷たく感じられた。広間を満たしている静寂が肌を刺すようだ。けれど、それも仕方のないこと。唇を引き結び、山祇は広間へと足を踏み入れた。
ところがその時、空気の変化に気付いたのか、再び赤子が喚き始めたのだ。赤子の存在に気付いていなかった将達は、ぎょっとした様子で辺りを見回した。
「す、すまない……」
山祇は慌てふためき、赤子を載せた掌を揺すりながら座り込んだ。将達の間にどよめきが広がる。騒然とした場の中で、しかし、冷静な者が一人いた。
驚きに目を見開きはしたものの、迷い無く立ち上がった枳賢である。
「腹を空かしているのであろう。今まで乳はどうしていた」
そう問いかける凛とした声音には、女だけが備え持つ強さがあった。
「浜のムラで乳母を捜しては乳を与えていた。それが出来ぬ船上では重湯を。今朝方も重湯を飲ませたから、腹が減っているはずは無いんだが……」
戸惑いながら山祇が言うのに頷いて、枳賢は赤子に歩み寄る。そして無骨な山祇の掌から泣き叫ぶ赤子を取り上げると、肩に抱いて優しく揺すり上げた。どのような術を使ったものか、赤子はぐずりながらも泣き止んだ。山祇が驚きに目を見張る。枳賢は艶やかな笑みを返した。
「――さあ、何があったのか、話されよ」
赤子を抱いたままにそう促す枳賢の姿は、どこか壮烈なものに見えた。
山祇がとつとつと語った事実のあまりの苛酷さに、広間はしんと静まり返った。
「では、娘婿殿は、高天原からの間者でありながら、高天原に殺された……と」
八千穂が確かめるように言うと、山祇は深く頷いた。将達は痛ましげに眉を寄せて呻く。その瞳にはもう、厳しく責め立てるような色はない。
枳賢は抱いていた赤子の頬をそっと指でなぞる。茜の瞳を持つ赤子は小さな声を上げて笑った。高天原の血を引く赤子。鮮やかなその瞳の色は、赤子が持つ神力の強さを示していた。
「……のう、山祇殿。この赤子、私に任せてはくれまいか」
ぽつりと枳賢が呟く。山祇は目を見開いた。
「何故、そのようなことを申される」
「山祇殿の顔を見ていれば分かる……己が孫への愛しさと、高天原への憎しみが綯い交ぜになってしまっている。赤子は次第に父に似るだろう。平静でいられるか?」
山祇は言葉に詰まった。赤子が不安げに枳賢を見上げる。取り巻く空気に聡いのは、一つの神力であるのかもしれない。山祇は言葉を続けない。それを彼の迷いととった枳賢は、何も言わずに赤子を優しく揺さぶった。
暫しの沈黙があった。山祇は深く唸るような声を上げて、枳賢を、そして腕の中の赤子を見た。
「お頼み、申し上げる」
絞り出すような言葉であった。枳賢は微笑み、頷いて、赤子を高く掲げる。赤子は楽しげな歓声を上げた。
「これより、そなたは私の子。――否と言う者あらば、私は弓を取るだろう」
それは静かな誓言だった。誓約、と言ってもおかしくはないほどの、厳かな色を帯びていた。山祇の表情から迷いが消える。広間に集まっていた全ての者が、それを確かに聞き届けた。
□ □ □
高天原は、筑紫に間者を送り込んでいた。その間者は、高天原の手によって死んだ。
山祇によってもたらされたその噂は、瞬く間に杵築に広がった。初めは囁きであったそれは、日が落ちる頃には声高な喧噪に変わっていた。――高天原は何のために。これは戦の始まりから繰り返されていた言葉だ。
そしてその噂は、一人の男に言いようのない恐怖を与えていた。
言わずもがな、天稚彦である。
椎の一抱え程もある枝の上で、天稚彦はじっと身体を強張らせていた。春先から芽を出し始めた椎の枝は、初夏の今では若々しい葉を茂らせている。彼がそこに身を潜めていることは、誰にも気付かれていないだろう。
――火乃芸。
高天原の間者が殺された。その噂と、彼が知る又従兄弟の天真な笑顔は、容易には結びつかなかった。死ぬとすれば自分であったはずだ。三年前に感じた危機感は、今こうしている時でさえ拭い去ることは出来ていない。だというのに、死んだのは火乃芸の方だという。
――天照姫よ、何を望んでいる。
幾度と無く心中で繰り返した問いをまたも思い浮かべながら、天稚彦は唇を噛んだ。椎の葉の間から空を仰ぎ、そこに見える十三夜の月に目を細める。
その時、ふと天稚彦の脳裏に恐ろしい考えが閃いた。
――望んでいるものなど、無いのかもしれない。
背筋がぞわりと粟立つ。その考えを打ち消すように、彼は慌てて首を振った。
高天原から鳴女が遣わされるのは、三月毎の十六夜と決まっている。折しも三日後がその日であった。天稚彦はごくりと唾を飲み込む。波打ち際に立ったとき、波が足下の砂を少しずつさらってゆくような恐怖。崩壊への予感という静かな恐怖を、天稚彦は感じていた。