第四章其の四 決意
残酷表現があります。
炎の香りが、した。風に乗ってやって来たその香りに、火乃芸はふと子供達をあやす手を止めた。煙ではなく、燃えさかる炎そのものの香り。火神である彼だからこそ、認識出来る香りだった。
――どこかの浜で海草でも焼いているのだろうか。
何気なくそう思い、火乃芸は再び双子に意識を移す。けれども、子の一人を高く持ち上げてやったその時、炎の香りに別のものが混じっているのに気が付いた。海草ではない。魚でもない。背筋が粟立つような、この、臭いは。
火乃芸の顔から一気に血の気が引いた。唐突な激しい嘔吐感に膝をつく。双子が不思議そうに彼を見る。鳥船も訝しげに眉を寄せた。
脂汗が額に滲むのを感じながら、火乃芸は絞り出すように呟いた。
「血と……肉と脂……絹の衣」
それらを備えた人物が、生きながらにして燃えつつある。
脳裏に凄まじいばかりの警鐘が鳴った。
手足を縺れさせるようにして、火乃芸は戸口から外に転がり出た。確信に近い思いで木立の向こうの浜を振り仰ぐ。――鈍色の煙が、天へと吸い込まれていた。
火乃芸は弾かれたように走り出した。
産屋に近付くにつれ、嘔吐感はますます強くなる。しかし足を止めることは出来なかった。産屋の中に入るどころか、近付くことさえ男には禁忌だ。それこそ、人を殺すのと同等な程に。しかし燃え盛る産屋を目にした時、火乃芸の心には一欠片の躊躇もなかった。
大きく息を吸い込むと、彼は崩れかけた産屋へと飛び込んだ。途端に煙が目を刺す。熱い空気が粘膜を焼いた。
――しまった!
何も考えずに飛び込んだ自分の思慮の無さに、火乃芸は愕然とする。彼は火神。それも、鎮めではなく熾しの神力を持つ者だ。炎はまるで油を注がれたように、火乃芸の神力に共鳴して一際燃え上がる。しかし今更どうすることが出来よう。頭上から火の粉が絶え間なく降ってくる。火乃芸は意を決して、産屋の奥へと駆けた。
踏み出した足が、何かぐにゃりとしたものを踏みつけた。ぞっとして下に目を遣ると、女の脚が見える。上半身は崩れてきた梁と茅の熾きの下、しかし咲夜でないことはすぐに分かった。磐姫だ。おそらく、もう事切れている。火乃芸は素早く視線を巡らせた。煙の下に、華奢な肢体があった。
「咲夜ァッ!」
名を叫び、妻を抱き起こそうとする。けれど磐姫に覆い被さっている梁は、咲夜の脚をも押さえつけていた。火乃芸は勢いをつけて梁を蹴る。熾火に触れた脚はジュウ、と嫌な音を立てた。何とか梁を外して咲夜の身体を持ち上げる。梁に押しつぶされていた脚には深い火傷が広がっていた。息があるかは分からない。
何度も名を呼びながら、火乃芸は咲夜を産屋から連れ出そうと彼女を抱えたまま立ち上がる。ところがその時に、火乃芸は気付いた。磐姫が火傷に爛れた腕で、咲夜の腕をがっちりと掴んでいるのだ。
「は……なせ……っ」
熱い空気に灼かれた喉で絞り出すと、磐姫の指を引きはがそうとする。しかしまるで彼女らの腕は、一つの物であるかのように離れない。
「放せ……っ!」
磐姫の身体は動かせない。厚く重なる熾火の下だ。叫んだ拍子に熱い灰を吸い込み、火乃芸は激しくむせ返った。焼けた眼球を冷やそうとするように次から次へと溢れる涙が、視界を一層不明瞭にした。
「……放、せ……」
懇願するように繰り返しながら、火乃芸は唐突に悟る。――咲夜の息は、既に無いのだ。
産屋は、炎を上げて倒壊した。
その様子を、鳥船は呆然と眺めていた。両腕に抱えた双子が、雷鳴のような泣き声を上げている。火乃芸が血相を変えて飛び出した理由はこれだった。同族が焼かれる、吐き気を催すようなこの臭い。手足をばたつかせる双子が、腕から逃れぬようにきつく抱える。
何故こんなことに。崩れ落ちた産屋は、しかしまだ高く炎を上げている。近付いてはいけない。子供らが巻き込まれてしまう。
「かかさま」
「ととさま」
意味を成さない泣き声の中に、確かに父母を呼ぶ声が混じっている。鳥船はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。何も出来ぬ。鳥船の神力は、扉を開くことだけだ。鼻孔を刺すような煙に促され、鳥船は喉の奥を震わせて嗚咽を漏らした。
――ザクリ
砂を踏む音が耳に届く。誰だろうかと思うより先に鳥船は振り返った。淡い期待があったかもしれない。しかし鳥船の目に映ったのは、薄汚れた、見知らぬ女であった。
「あっは……燃える……燃える……っは、は……」
楽しげに、ひきつれた笑い声を上げる。焦点の合わぬ、虚ろな目をしていた。
「喜んで、下さるでしょう……ねえ、我が君……」
独り言のようにぶつぶつと呟いている。気が触れているのだ。鳥船は顔を歪めた。殴り倒してやりたかった。
「我が君……我が君……どうして、返事をして下さらないのっ!」
突然に叫んだかと思うと、女は何かを地に叩きつけた。砂埃が舞う。何事かと鳥船が見ると、それは錆び付いた鏡であった。
――鏡だと!?
愕然として、鳥船は女を見た。鏡を手に出来るのは、位の高い者だけだ。それは高天原でも豊葦原でも変わらない。しかし鳥船が驚いた本当の理由は、そこにあるのではなかった。
――あれは、高天原で鋳造されたものではないか!
そのようなものを、まさか豊葦原の者が持つはずがない。持っているとすれば、それは。
鳥船は泣き叫ぶ双子を抱えたまま、女に向かって低い声を発した。
「……火を掛けたのは、お前か」
「ふ……っは、いいえ……いいえ……私ではない……あはは! あの醜い娘! 憎しみを抱えた愚かな娘! 私は手を貸しただけ……すべてあの醜女がやったこと!」
女は笑う。痩けた頬と落ち窪んだ目は、女を幽鬼のように見せていた。鳥船は煮えたぎる怒りを腹の中に抑え込んだまま、再び問う。
「お前は、高天原の者か」
「いいえ……いいえ……私は……我が君のために動くだけ……」
にたりと笑みを浮かべて、女は砂にまみれた鏡を拾った。愛おしむように鏡の縁に、そろそろと骨と皮ばかりの指を這わせる。けれど、鳥船には確信があった。
火乃芸と咲夜は、高天原に殺されたのだ。
「咲夜ーっ!」
慌ただしいいくつもの足音が近付いてくる。あの声は筑紫の長、山祇だ。彼もまた異変に気付いたのだ。
鳥船はゆっくりと首を巡らせた。山祇が、幾人かの兵士を従え、息せき切って駆けてくる。産屋を見る。炎は随分と落ち着き、後には炭と灰ばかりがもうもうと煙を上げていた。泣き続ける双子を、火乃芸がしていたように更にきつく抱き締める。
――あの方たちは、戦から逃れようとしていたのに。
「咲夜……っあ、あ……」
産屋の惨状を目にした山祇が、呆然と膝をついた。すぐ近くで鏡を撫で続けている女にも気付かぬ様子だった。ひとしきり、双子の泣く声だけが響いていた。
「――火を掛けたのは、磐姫様です」
「……なん……だと?」
呟いた鳥船の言葉に、初めて彼がそこにいたことに気付いたように山祇は立ち上がった。今にも掴みかからんばかりの表情だ。しかし鳥船は口を噤まなかった。
「この女が」鳥船は気の触れた女に目を遣る。「磐姫様に、呪を。磐姫様は産屋に火を掛け、火乃芸様は産屋に飛び込んで……恐らくは、火乃芸様も咲夜様も、生きてはおりますまい」
女が、唐突に顔を上げた。
「あっは……あの醜女も死んだ……共に焼けた……っは、は」
山祇の顔はみるみる蒼白になったかと思うと、一気に赤くなった。憤怒も露わに女の棒のような腕を掴むと、乱暴に砂地に引き倒す。女はぎゃっ、と短い悲鳴を上げた。
「その女は狂人です!」
手を出してはならないと鳥船は制する。山祇は血走った目で鳥船を睨め付けた。その鋭い視線を、鳥船はどこまでも冷静に受け止める。心臓が凍ってしまったようだ、と思った。
「……その女は高天原の手の者――怒りはそれを命じた者に向けて下さい」
「高天原だと!?」
鳥船は頷く。
「私も、火乃芸様も、高天原の者でした。間者として送り込まれたのです」
鳥船の言葉に、山祇も、そして兵士達も驚きに目を見張った。暢気な連中であったと、鳥船は冷え切った頭で考える。けれどその表情は、すぐさま敵を見るそれに変じるだろう。鳥船は泣き疲れてぐったりとした双子を抱き締めて、天に向かって叫んだ。
「聞け、高天原よ! 私はもう、お前達の駒にはならぬ!」
神力を注ぎ、扉をこじ開ける。豊葦原でも、高天原でもない別の世に。二人の孫を抱いたまま足先から消えてゆく鳥船を見て、山祇は仰天した。
「どこへ行く!?」
「――神々の戦の無い世界に、子供達を連れて行く」
それだけの言葉を残して、鳥船は豊葦原から消えた。
あまりの出来事に、残された者達は半刻ばかりの間、呆然としたまま動けないでいた。しかし最初に我に返った兵士が、のろのろと未だに燻り続ける産屋であったものへと向かう。血肉の焼けた臭いが鼻につく。長い間憧れていた、美しい長の娘。その彼女が得体の知れぬ余所者の男と結婚すると聞いた時、彼は世界が終わったように感じたものだ。しかし、それがどれほど甘い認識であったか。世界が終わるならば、今しかない。そう思った。
――アァア……
ふと、何かが聞こえた気がして、彼は足を止めた。気のせいだろうか。それとも、黄泉に迷った幽鬼が泣いているのか。そんな風に考えてしまい、思わず身震いする。
――アァァア……
幻聴ではない。先程よりもはっきりと、何かが聞こえる。兵士はぞっとした。耳を澄ます。その絶え間ない音は、泣き声のようだった。では、いったいどこから。
その答えは、すぐに分かった。勿論、炭と灰の中からである。
「声が聞こえる!」
兵士は叫んだ。俯いていた面々が、驚いたように彼を見る。彼は迷わなかった。炭の中に手を差し入れて、一塊を横にどける。腕の皮が剥がれ落ちるかと思う程に熱かった。
他の兵士達、そして山祇も集まってくる。彼の行動を見ると、皆何も言わずに同じことを始めた。
炭と灰をどかし続けてゆく。その奥の方は益々熱い。誰もが額から脂汗を滴らせた。一人の兵士が悲鳴を上げた。人の頭の形をした炭が腕から転がり落ちたのだ。皮肉なことに、それはあの正反対の容姿をした姉妹のどちらであるか、それとも、彼女たちが愛した男であるか、判別出来る状態ではなかった。皆、それを見て呆然と手を止める。その時、山祇が叫んだ。
「――燃えた首は喋らん!」
はっとして、兵士達は再び作業を始めた。その時には、誰の耳にも泣き声が分かるようになっていた。そしてついに、彼らは泣き声の主を見つけた。
「……ああ……!」
炭で真っ黒になりながら、小さな塊がうごめいていた。月足らずの赤子。そのすぐ近くには、抱き合うように絡まった人の形の炭がある。どちらが娘で、どちらが憎い男であるか。しかし山祇は感極まって、その骸の両方に向かって深々と礼をした。
赤子が生き残ったのが偶然であるはずがない。娘は身を焼かれながら、己の子を守ったのだ。誇らしさと、そして本当に二人の愛娘を失ったのだという現実。山祇はぼろぼろと涙を零しながら、赤子をそっと持ち上げた。
産湯につからせなければ。乳を用意せねばならない。娘達と婿のために葬儀を執り行わねば。
浮かんでくる思考の中から山祇がたった一つ絞り出した言葉は、兵士達を驚かせた。
「……出雲へ、行く」
「や、山祇様……?」
赤子は熱い炭から解放されて安心したのだろう。茜の色をした瞳を、きょときょとと瞬いている。山祇は立ち上がり、海の向こうにゆっくりと顔を向けた。出雲。つまらぬ自尊心から、背を向けた土地。
「戦う……儂は戦うぞ!」
怒りにたぎる瞳で、山祇は天に向かって吼えた。
鳥船と、そして双子達の向かった先のことも記しておこう。
彼らが降り立ったのは大八洲。人民草の住む地であった。彼らはそこに根付き、そこで生きた。
高天原とも、豊葦原とも、二度と交わることは無かった。