第四章其の三 女禍
暴力・流血表現を含みます。
暗がりの中に、一条の光が差し込んだ。扉が細く開かれたのだ。頭を垂れていた人影がすう、と立ち上がり、一礼をして外に滑り出た。ちらりと照らされたその横顔は、化生の女。雉の鳴女であった。扉が軋むような音を立てながらゆっくりと閉まってゆくと、光は再びかき消える。後に残った薄暗がりの中、幾重にもなった紗の向こう側で、何かが動いた。
華奢な女の手である。その手は巨大な鏡の房飾りを何度か撫でた後に、膝の上に置かれた。
「……天稚彦は、使い物になりませぬ」
ぽつりと呟いたその言葉は、独り言ではない。ぼんやりと鏡に映る影が、女の言葉に対してかすかに身じろぎしたのだ。
『もう一人の間者についても』
「火乃芸は上手くやっております!」
鏡の内からの掠れ声に、女――天照姫は反論した。しかし冷たい沈黙を受けて、言葉に詰まる。
「……何を仰りたいのですか」
絞り出すように照姫が問うと、影は再び揺らいだ。
『筑紫の女に現を抜かしている。知らぬわけではあるまい』
その言葉に、天照姫は唇を噛む。言い返すことは出来なかった。高天原の目が捕らえた火乃芸は、美しい娘に懸想し、そして娘の愛を得た。初めはそれも策の内であろうかと思った。娘は筑紫の長、山祇の娘であったからだ。
しかし違った。火乃芸はその立場を利用し、山祇に近付いて情報を盗み出すどころか、山祇の怒りを買って思うように行動出来なくなっているのだ。愛娘を奪った男への山祇の怨嗟は重い。それでは、彼を筑紫に送り込んだ意味は無い。
「みな、あの女が悪いのです! あの女さえいなければ、火乃芸は上手くやりましょう」
憤りを籠めて照姫は言う。影が、嗤った。
『では、殺すか?』
□ □ □
薄暗い洞窟の中に、か細い炎が揺れていた。その炎に照らされた女の顔は痩せこけ、落ちくぼんだ眼窩の奥に瞳だけがぎらぎらと光を映していた。そこにはかつて男達の讃辞を一手に集めた美しい巫女姫、八上の面影はほとんど残っていなかった。
口の中で何かをぶつぶつと呟きながら八上は小刻みに身体を揺すっていた。意味あってのことではない。夢を見ているかのような、虚ろな表情で小さく燃える炎を凝視している。
手にしっかと握られているのは、青い錆の広がった小さな鏡であった。時折ひきつれた声を漏らして、八上はそれを洞窟の岩壁に叩きつける。その度に、金属の堅い響きが薄暗がりに大きく響いた。しばらくしてからのろのろとした動作でその鏡を拾う腕は、日に当たることがないため不気味なほど細く、白い。
気の触れた女は、こうやって三年間を生きてきた。近隣のムラの者達が、日に二度、雑穀と魚を煮込んだもの、そして松の枝を持ってくる。火が絶えると、八上が泣き叫ぶためである。狂人は手厚く扱われる。閉鎖された空間に居りさえすれば、望む物は可能な限り与えられるのだ。
永劫に続くかと思われたその日々は、しかし、突然に中断された。いつものように言葉を成さぬ声を喉の奥で転がしていた八上は、腕の中で鏡が小さく振動するのを感じたのである。
八上は迅速に反応した。細く燃える炎に身を寄せて、鏡を明るく照らす。錆び付いた鏡に映る物は何もなかったが、彼女には分かっていた。
「あ……わ、我が君……」
八上は上擦った声を発した。意味を成す言葉を口にしたのは、随分と久方振りのことであった。
「我が君……我が君……!」
かたかたと震える指先が、鏡の縁を軋むほどに掴んでいる。見開かれた瞳は血走り、暗がりを凝視するために瞳孔が限界まで開いていた。
『――久しいな、八上。頼みたいことがある』
「あ、あ……我が君……」
鏡の内からの掠れた声に、八上の瞳から涙が溢れた。
□ □ □
稚い歓声を上げながらじゃれ合っているのは、数えで二つばかりの二人の幼子だった。互いの髪や腕を掴み合い、床を転げ回っている。同じ部屋には、それを穏やかな面持ちで眺めていた若者がいた。彼は掴み合いに悲鳴が交じってきてから、ようやく腰を上げて子供らを引きはがす。両手に一人ずつを抱えて、彼は厳めしい顔をして見せた。
「加減をしろと言っただろう」
けれども幼子は意に介した様子も見せず、今度は彼の方に手を伸ばす。
「ととさま、ととさま」
「あそぼ、ととさま」
ふくふくとした指が顎に触れるのを感じ、彼は情け無くも笑み崩れた。
筑紫に居を構え、咲夜を妻とし、子を――しかも双子をもうけた。幸福な、この上なく幸福な日々だ。子供らを力任せに抱きしめる。二人はきゃらきゃらと笑い声を上げた。
「よし、遊ぼうか」
きつく子供を抱いたまま、彼は床に転がる。その時だ。戸口が殆ど音を立てずに開かれた。
「火乃芸様」
名を呼ぶ声に若者は驚いた様子も見せず、仰向けに寝転がったまま、おとがいを上げた。戸口に立つ人影は逆さに見える。
「何だ?」
その姿勢のまま火乃芸は問うた。人影はすぐには答えずに、溜息を吐いて戸口をくぐる。鳥船と呼ばれる男であった。
「……山祇からの使者が参っていたので、追い返しておきました」
「ああ、すまなかったな」
火乃芸は事も無げに礼を言うと、再び子供と戯れ始めた。鳥船はそれ以上を言わず、戸口に座して口を噤む。彼は饒舌な方ではない。
山祇の使者の言葉など、聞かずとも分かっていた。子供らを山祇に渡し、咲夜を返せと言うのだろう。子を育てるのは母親の家の役目であると、しきたりを楯に言い募るのだろう。
しかしそれは無理だ、と火乃芸は思った。既に彼の生は、咲夜と子供達のためのものになっているのだ。それを取り上げられるのは、死ねと言われることと等しい。
――それに。
笑い声を上げて腕から逃れようとする子供達を抱き締めながら、火乃芸は思う。
――すぐに、もう一人の子供がやってくる。
新たな生命を思うと、火乃芸の口元には歓喜の笑みが浮かぶ。咲夜は数日前より産屋に籠もっている。十月十日にはまだ満たないが、気をつけておくに越したことはない。
次は姫であるといい。双子はどちらも男子である。ゆくゆくはどんなにか立派な壮士になるであろうと、今から期待を押さえきれない。しかし、やはり妻によく似たたおやかな娘も欲しいのだ。
一人の子が火乃芸の腕を振り切り、部屋の中を駆け回る。弟の方であろう。火乃芸は捕まえようと手を伸ばしたが、子は器用にそれをすり抜けた。
「ああ、名付けの日が待ち遠しいな」
その言葉に、鳥船の表情が和らいだ。それが彼の笑みであるのだろう。
「遠い話です」
「なに、五年はすぐだよ」
それが嬉しく、火乃芸もまた笑顔を返す。子に本式の名を与えるのは、七つの歳を数えてからだ。七つにも成れば一通りのことは己で出来る。子供が名を得るのはそれからである。
しかしそこで、ふと火乃芸の笑顔に寂しさが混じった。
「――五年。それまでに、戦に片が付くことはあるのだろうか」
鳥船は答えなかった。彼は不確実なことを口にしない。暫し彼らは口をつぐみ、部屋の中には幼子の笑い声ばかりが響いていた。
火乃芸は阿呆ではない。鳥船は、とうの昔にそれに気付いた。良識と渡世の才があり、己の限界を知っている。しかしそれは裏を返せば、自ら行動を起こすことが無いということだ。世を憂えることはあっても、それをどうにかしようとはしない。
それはそれで仕方のないことなのだ。むしろ鳥船の生き様も、火乃芸のそれに近いのだから。そういった意味で、鳥船は今では火乃芸に好感を持っていた。
彼らは弱者であった。強い力を持ち、高天原の一部を担う立場でありながら、彼らの心はそこに安まることがない。火乃芸は咲夜にそれを見出し、鳥船は未だに見つけ出せないでいる。
鳥船は目を細めて、転げ回っている幼子を見た。そして、思う。
戦に片が付くことは、あるのだろうか。
□ □ □
産屋の茅葺き屋根を見上げて、咲夜はうつらうつらと眠ったり目を覚ましたりを繰り返していた。身が重く思うように動けぬので、一日の大半を横たわって過ごす。本当は少し動いた方がいいのかもしれない。しかし火乃芸は咲夜を真綿でくるむように慈しむのだ。
――今度も、きっと大丈夫だろうと思うのに。
咲夜自身は、そこまでお産を心配してはいない。初めての出産で、双子を、どちらも失うことなく産み落としたことは、彼女の自信になっていた。
――流石にまた双子ということはない。大人しくしているもの。姫かもしれない。
そろそろと、膨らんだ自分の腹を撫でる。双子を孕んでいたときは絶えず蹴り返されたものだが、今度の子は眠ってでもいるのか、時折思い出したように動くだけだ。
「咲夜、起きている?」
その時、外から声がかかった。女の声だ。声の主はすぐに分かる。
「はい、姉様」
返事をすると、磐姫が産屋へと入ってきた。咲夜を認め、にこりと笑う。腕に抱えられているのは、食べるものだろうか。産屋に入ることが出来るのは女だけだ。咲夜の世話は、全面的に磐姫に任されていた。
磐姫は咲夜の傍らに座し、荷を横に置いた。
――あら。
ふと鼻の奥をくすぐるものに気が付いて、咲夜は首を傾げた。しかし磐姫が荷の中から干し柿を取りだしたのを目にすると、途端にそれを忘れてしまう。甘味は咲夜の好物であった。
「まあ、そんなに物欲しそうな顔をしなくても」
くすくすと笑いながら磐姫が言う。咲夜も恥ずかしそうに微笑んだ。磐姫は干し柿を咲夜に手渡す。それが手を離れる直前に、磐姫は笑みを浮かべたまま言った。
「――本当、卑しい子ね」
どこまでも穏やかに口にされた言葉に、咲夜は凍り付いた。
「姉……様?」
「意地汚くて遠慮を知らない子……ねえ、分かっていてやっているんでしょう?」
口元は笑みを浮かべたまま、しかし細くつり上がった瞳の奥に、奇妙な炎が燻っているようだ。咲夜は青ざめ、身重の身体を引きずるように逃げようとした。しかしするりと伸びた磐姫の腕が、咲夜の身体を押さえつける。
「痛……っ」
「私からあの方を奪った……ねえ、分かっているんでしょう?」
握力だけではなく、全体重をかけられる。掴まれた腕が引き千切れそうな痛みに、咲夜は身を捩って悲鳴を上げた。
「この顔……! この顔であの方を誑かした! 分かっているんでしょう!?」
大声を上げたかと思うと、磐姫は右手を振り上げて咲夜の頬を殴った。脳の奥に火花が散る。
「ぐ……っ!」
咲夜の鼻孔から血が流れた。磐姫は哄笑する。狂ったように笑い続ける姉をぼんやりと見上げながら、咲夜は気付いた。
――呪の香……!
憎悪を膨張させる香木の呪。いったい誰が磐姫に。
――いや。
姉はその種となる憎悪を抱いていた。誰の呪かは分からないが、それだけは確実であった。
磐姫の持ってきた荷の中から、細い煙が昇ってゆく。火種が忍ばせてあったのだ。自分を押さえつけ笑い続ける姉を見上げて、咲夜はぼんやりと思う。産屋はお産の直後、火を掛けて清める。風通りの良い作りになっている簡素なこの小屋はよく燃えるのだ。
――ああ、では姉様は、私を燃やすつもりなのだ。
そこまで考えが至って、愕然とした。
「いや……いやあぁあっ!」
叫び、もがいて逃げようとする。しかし磐姫の力は恐ろしく強い。哄笑を続ける磐姫は、既に何も見ていない。
死ぬ。そう思っているうちにも、火はゆっくりと燃え広がる。咲夜は戦慄した。煙が立ちこめてくる。顔を覆う程になるのは時間の問題だ。
死ぬ。
――火乃芸様……!!
炎が壁一面を舐め尽くした時、咲夜にはたった一つの思いだけが残っていた。
何も知らぬ、腹の中の己の子を助けたかった。
神力を全て子に向ける。天井の梁から火の粉が舞った。崩れ落ちる時も遠くない。磐姫の笑い声が煙を吸ってざらつく。けれど彼女は、笑い続けた。