第四章其の二 言祝
八千穂と事代の間に小さな衝突があったことは、その日の夜には王に近しい者達に知れていた。二人が自ら吹聴した筈がない。あの場にいた兵士達もそうだ。そのようなことを問われるままに喋るのは、言わずもがな、宿那であった。
「また邪険にされたんだって?」
何故か嬉しそうに聞いてくる水臣に、八千穂は苦笑を返す。
「もう少し、信頼してもらえればいいんだが」
「なに、信頼していない訳ではないだろうよ。若いうちはそんなものだ。……しかし王に刃向かうなど、事代も見込みがあるな」
「どういう見解ですか」
呆れたように言ったのは須世理だった。水臣はにやりと口角を持ち上げる。
「気概のある奴だ、と言っている。ああいう連中がいるからこそ、出雲は栄える」
須世理はどこか不服そうな表情を浮かべて八千穂の方を見た。八千穂は苦笑を浮かべたままだったが、そこで、ふと口を開く。
「……それで、五十猛、何か用があったのだろう?」
振り向いた先の青年は宿那ととりとめもない話をしていたようだったが、八千穂に声をかけられてそちらを向いた。宿那も同じように顔を向けて、にやりと口角を上げる。
「用も無いのにやってくるような暇人は、水臣殿や須世理姫くらいだと言いたいんだな」
「それではお前はどうなるんだ」
いつもの軽口に対応しながら八千穂は笑った。それに合わせるように、どこか気まずそうに微笑んだ五十猛は言う。
「ええ、まあ……」
歯切れの悪い言葉に八千穂は首を傾げる。他の者達も何事かと五十猛を見た。五十猛も彼らの視線に促されて、再び口を開く。
「夕刻、安来より伝令の兵が来たのです」
「安来? では、他国から」
八千穂が問うのに、五十猛は頷く。
「……高志国より、新年の言祝ぎにと使者がやってきていると」
「高志ですって!」
須世理が声を上げた。それを予測していた五十猛は、困ったような表情を浮かべて須世理を見る。彼女の言わんとすることには、予測が付いていた。
「瓊河姫、性懲りもなく――」
「八千穂は連れて行けないと思うぞ。海に出るくらいなら、杵築の柱に自分を縛り付けるな」
心得たように宿那が言った。須世理は口にしかけた言葉を呑み込んで、五十猛を責めるように見た。五十猛は溜息を一つ吐く。水臣が楽しげに口を開いた。
「明日には到着するだろうよ。宴の準備が必要だな」
「ああ……そうか、もうそんな時期だったか。明朝、馬の用意を頼まなければ」
「お、馬で高志まで行くつもりか?」
初めて気付いたような口振りで八千穂がぽつりと呟いたのに、宿那が大仰に眉を上げてみせた。八千穂は笑って首を横に振る。
「いや、長江山まで、新年の言祝ぎに」
「久延彦ですか」
高志からの使者は毎年のことだ。八千穂もまた長江山への言祝ぎを欠かさない。それはあの長きを生きた男に対する敬意と同時に、彼の影響力を考えた上でのことだった。
八千穂が王たることを、いや、豊葦原の現状を憂慮するような久延彦の言葉は、長江山近隣の民達に大きな影響を与えるだろう。だからこそ味方にしておかなくてはならない。それに、実際のところ言祝ぎにと年に数度彼を訪れ、知恵を借りることも重要だった。久延彦の言を聞くことで、米の取れ高は何割も上がる。
「お一人で?」
「おれがついて行くよ」
須世理が問うのに、当然とばかりに宿那が言った。八千穂は苦笑を禁じ得ない。長江山に行ったところで、宿那が何をするでもない。退屈なだけだろうと思うのに、鴨の子のように八千穂の後についてくるのだ。
「……馬は自分で乗るんだぞ」
どこかからかうような調子で八千穂は言う。宿那は、分かってるよ、と笑った。彼の背丈は、もう馬を超えるのだ。
□ □ □
藁山に背を預ける久延彦の姿は、どれだけの歳月が流れようと変わらぬもののように思えた。床に投げ出された脚も、袖口から覗く手首も、これ以上ないほどに痩せこけている。使い古した箒のように顔にかかる髪の間からは、僅かに口元だけが髭に半ば埋もれて覗いていた。
「ほう……それでは高志の者は、今頃は杵築に辿り着いた時分でしょうな」
「いや、長旅で疲れていることでしょうから、出湯に立ち寄っているかもしれません」
忌部の湯であれば道中だろう。国の内外を問わず広く知られる名湯だ。入海に面し、また街道にも近いため、毎日市が立ったような賑わいを見せるそこは、八千穂自身も幾度となく訪れている場所だった。
言祝ぎなどとは言っても、形式張った挨拶を済ませた後では世間話に近いだろう。久延彦と八千穂が会話を続けている横で、宿那が退屈そうに欠伸をしている。化生の男の姿は無かった。
欠伸で零れた涙を手の甲で拭いながら、宿那は辺りを見渡した。野菜、干し魚、干し肉、毛皮、そして細く紡いだ麻糸――そういった雑多な品物が、所狭しと積み上げられている。
「ふうん、慕われたものだ」
それらは全て、近隣の村々から運ばれた品である。かく言う八千穂達もまた、麻袋に一袋の米と、大きな瓢に詰めた酒を運んできた。将や兵士らは年がら年中剣を握っているわけではない。己の口に入るものは、原則として己が作るのである。
「我らも感謝しています。久延彦殿に知恵を貸して頂いた鍬を使うと、稲がよく育つ」
宿那の言葉を受けて八千穂が言った。久延彦は唇を持ち上げる。
「大国主殿の手にかかれば、稲など秋を待たずして育ちましょうに」
「地に育まれたものの方が旨い。日持ちがし、滋養がつきます。私の神力で育った稲など、一刻腹を膨らませる程度のものです」
八千穂は首を横に振り、謙遜ではなく真実として言った。久延彦はそれを聞き、くつくつと笑う。
「それだけの神力さえ持たぬ者も多いのですよ」
「……存じています」
八十神と呼ばれる者達。ほんの数年前までは、八千穂もまたそうだった。懐かしむ、という感情では決してなかったが、八千穂はふとかつての自分を思う。ムラの若衆からの殴打と罵倒。あれは、いったい何だったのか。
「おや、どうなさった」
「いえ……」
黙り込んだ八千穂に久延彦が問う。八千穂は曖昧に呟いたが、しかしそこで気が変わった。
「彼らは、私を疎んじるだろうか」
八千穂の言葉に、久延彦は小さく呻いた。答えを探すためである。
「……カミも、人民草も、他者が持つものを妬むもの。大国主、貴方の神力は強いから、疎まれないとも言えませぬ。しかし王であるというならば、話は別でありましょう。己の上に立つ者と認めるならば、そのようなことは」
――しかしあの時、僕はまだ神力など顕してはいなかった。
そう思いながらも、八千穂は頷いた。結局のところ、八千穂に対する八十神の扱いは彼ではなく、母、刺国へのやっかみだったのだろうか。八千穂はそっと唇を噛んだ。向けられる悪意の根が己に繋がるものかも判断出来ず、どうしてそれを解消することが出来ようか。
再び押し黙る八千穂に対し、久延彦はそれ以上は言わない。暫しの沈黙が流れた後に、久延彦は首をぎこちなく動かして、藁山に縋る位置を整えた。
「……大国主、そういえば近くのムラの者が、伝えておいてくれと言葉を置いていきました」
新しく切り出された会話に、八千穂は慌てて久延彦を見た。そして首を傾げる。
「言付け、ですか」
「はい――伝授していただいた製薬の法、大変役立っております、と」
その言葉に、八千穂の顔が綻んだ。いつぞや立ち寄ったムラだろうか。
「……それは良かった」
胸の奥にあった苦いものが、ゆるゆると溶け出してゆくような気がした。医薬の術に対する評価が貰えることは、何よりも嬉しい。それは八千穂が培ってきたものが認められることと同じだからだ。そんな八千穂を見る久延彦の口元は、穏やかに持ち上げられていた。