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第四章其の一 三年

 月の、煌々と照る夜であった。

 杵築の城に巡らされた丸太塀を、一人の男が音もなく乗り越え外に出た。殺しきれぬ息が白く闇に映る。足掛かりにした椎の枝は、冬にも関わらず青々とした葉を残す常磐の樹木だ。初めてこの椎の枝を踏んでから三年。それだけの歳月が経った。

 男――天稚彦は細心の注意を払い、足音を消しながら歩いてゆく。やがて小山に杵築の巨大な社さえも呑み込まれた時になって、ようやく彼は足を止めた。

「……寒い中、よくもまあ、こんなに長く待たせて下さいますね」

 暗がりの中から、声が響いた。

「すまない」

「いえ、いいんです。それで、状況はどのような?」

 声の主が、天稚彦の方へと近付いてくる。月光に照らされたのは、質素な衣を身につけた女であった。長く先の尖った耳が、彼女の頬に影を落としている。

 彼女の名は鳴女ナキメきぎしの鳴女。天照姫の放った化生である。

「出雲の者は兵を鍛錬し、武具を生成し、襲撃に備えている」

 天稚彦の返答に、鳴女は目に見えて不満そうな表情を作った。無理もない。天稚彦が出雲に送り込まれて三年が経つというのに、彼の報告は一貫して、どんな阿呆でも思いつくようなものでしかなかったからだ。

「そのようなことを聞きたいのではありません。主が知りたいのは、出雲の者にどのような神力があり、驚異となりうるかということです」

「……出雲の者は自らの力を誇示することが少ないんだ。将のうちの半分は武神で、弓馬剣戟の技に優れる。しかしもう半分の者の神力は、彼らの用心もあって全く分からない」

 天稚彦は淡々と語る。鳴女は探るように天稚彦を見上げていたが、やがて頷き、踵を返して再び暗がりへと消えていった。

 その背を見送り、天稚彦は大きく息を吐いた。

 勿論鳴女に語ったことは、ほんの僅かの真実しか含んでいない。

 ――裏切者、か。

 天稚彦の口角が、自嘲気味に上がる。例えば大国主の持つ癒しの力。それを高天原に報告したならば、天照姫はどれほど喜ぶことだろう。そしてその力を恐れ、何よりも先に大国主を屠るため鏡の向こうの者と策を練るに違いない。だからこそ、そうしようとは思わなかった。

 ――いや、蝙蝠こうもりだ。

 高天原への忠誠は既に無く、しかし依然豊葦原の者達に己の正体を明かしてはいない。どちらつかずの半端者で、取り繕うために立ち回る。それが、今の天稚彦だった。

 背に感じていた視線が、すうと消えた。無論、物陰からこちらを窺っていた菩比である。天稚彦は随分前に、豊葦原に害成すことはしないと菩比に宣言したのだが、そう簡単に信用されることはないようだった。

 菩比が心底羨ましかった。高天原からの裏切り者であることを全ての者が知っていながら、監視の目は実に甘い。それはどこか飄々としていながらも偽りを口にせぬ、彼の人柄によるのだろう。

 実際菩比は高天原の手を知るものとして、将達に幾度も知恵を貸している。そしてその読みが当たるものだから、ここ一年の間に増えた国境近くでの小競り合いにおいて、豊葦原は一人の死者も出さずにいるのだ。自然彼に対する信頼は深まり、菩比はそれに応えるためにより真摯になる。

 けれど、天稚彦は逃げた。己の出自を偽り、立場を偽り、双方の勢力を偽り続けながら、高天原から離れることも出来ず、豊葦原をうち捨てることも出来ない。

 ――私は、どうすれば。

 鬱々とした思いを抱えたまま、天稚彦は足音を殺して兵舎へと戻った。多くの兵士は未だ眠っていない。微かなざわめきさえ聞こえる兵舎の中に、天稚彦は滑り込んだ。

 しかしその瞬間に目があった相手に、天稚彦は呻きたいような気分になった。後ろ暗いところがあるときに、最も顔を合わせたくない者の一人だった。高彦、である。彼は笑って、唇の動きだけで問うてきた。

『長い厠だったね』

 天稚彦は苦笑を作って、高彦の元へと歩み寄った。鏡を見ているような不可思議さには随分慣れた。声無き高彦の言さえ分かる。長く高彦と過ごしていた出雲の兵士でさえ、僅かばかりの者しか持たぬ技だ。

『外はまだ寒いだろう。これは熱いよ』

 高彦は手にしていた器を軽く持ち上げて見せた。焼き栗である。

『妹が、お前と食べろと。ほら、他の連中に見つからないうちに』

「高姫が」

 告げられた事実に、天稚彦は一瞬悩みを忘れて喜色を浮かべた。それを見て、高彦は苦笑しながら器を差し出す。天稚彦はそれを受け取り、胡座をかいた足の間に据えた。土を通して染み入る暖かさが心地良かった。

「すまんな」

 いそいそと栗の皮を剥き始める天稚彦を、高彦は微笑んで眺めていた。高彦とは違い、渋皮を丁寧に剥いでいる。それも、爪の中に渋皮が入り込まないよう、爪の背を使ってだ。いささか神経質とも見える友人の行動に、高彦は小さく吹き出した。天稚彦が不思議そうに顔を上げる。

『好きか』

「栗か? ああ」

『いや、妹だ』

 唐突な一言に、天稚彦の手がぴたりと止まった。彼は明らかな狼狽は見せず、暫く高彦を見つめる。そして、ゆっくりと頷いた。

「……ああ」

 高彦は、満足げに笑みを深くする。

『妻問いをしないのか』

「したい。しかし高姫は兵士として生きると決めてしまっている」

枳賢キサカ殿には夫がいる』

 将の名を挙げられ、天稚彦は返答に詰まった。確かに、睦まじく言葉を交わしているところをよく見かけた。壮年に差し掛かろうという歳だが、枳賢には子はいない。彼女がそれを気にしていることは、口にしなくとも窺い知れた。

「……本当のところは、高彦、お前がいるからかもしれない。高姫が私によくしてくれるのは、私がお前と瓜二つであるから、他人と思えぬだけかもしれない」

 そう思うと恋情を抱く自分が無様でならないのだと、天稚彦はぽつぽつと語る。それに耳を傾けていた高彦は苦笑した。天稚彦の感じていた思いは、高彦のまさに予想していたものだったからだ。そしてそれが杞憂であることも、高彦には分かっていた。

『妹は、俺よりお前に優しいよ。それにその理由も違う。お前がいつまでも客人まれびとだからだ』

「私が客人?」

 驚いたように目を見張る天稚彦に、高彦はこくりと頷いて見せた。

『お前はいつまでも他人行儀に見える。俺達が信頼出来ないのかと思う時も、ある』

「そんな!」

『稚彦自身は気付いていまいよ。他の連中もだ。ただ俺や妹は分かる。馴染みのある顔のせいだろうか』

 僅かな唇の動きに思いを載せて、高彦は冗談めかして天稚彦に問う。天稚彦はぎこちなく首を横に振った。

「そんなつもりは……私は」

『……戯れ言だ。深く考えるな。――ほうら、栗がとうに冷めてしまった。せっかく年の明けた祝いにと倉から出したのに』

 栗を一粒摘みながら、高彦は胸中で冷静に考えていた。天稚彦には、何か人に告げたくない事情があるのだろう。出雲には様々な思いを抱えた者が集まる。天稚彦だけがそれを全て吐き出さなければならない道理など無い。けれど、真実彼が高姫を求めるならば、それをすることを恐れていてはならないのだ。


 □ □ □


 生い茂った羊歯しだの下に、一塊の残雪が真白く輝いている。けれど羊歯をかき分けた者は、その純潔の白にためらうことも無しに手にした椀で雪を掬った。初春に一度緩んだ雪は堅くなっていて、ざくりと音を立てて椀に収まった。

 椀を手に、少年は急いた様子で駆ける。幾人かの兵士が驚いたように彼を見たが、気にしている暇はない。彼が向かったのは寝起きをしている兵舎であった。

「帰りました!」

 少年の宣言に、兵舎の中の顔が一斉に戸口に集まる。輪を作っている人々の中心に横たわっているのが、少年の兄だった。

「すまないな、水方ミナカタ

 けれどそう声をかけてきたのは、兄ではない。彼の傍らに座っている、大国主と呼ばれる少年だ。水方は彼らのもとに駆け寄ると、椀を八千穂へと差し出した。八千穂は微笑んでそれを受け取る。ちょうどその時に、開け放たれたままであった戸口から、ひょこりと顔が覗いた。雪と同じ色の白髪に、紅瞳を持つ少年だった。

 三年。その月日は、確実に彼らを成長させていた。宿那も水方も、身の丈は既に五尺半に届きそうだ。

「貰ってきたぞ、麻布」

「ああ」

 八千穂は宿那に手渡された布を広げ、そこに椀の中の雪をあける。手早くそれを畳むと、軽く掌で叩いてから横たわっている事代コトシロの額に載せた。その冷たさに、事代はうっすらと目を開く。

「兄ちゃん、大丈夫か?」

 水方が事代を覗き込む。事代はそろそろと辺りを見渡していたが、八千穂の顔を認めると厭わしげに眉を寄せた。

「何故あなたが」

「水方に呼ばれた。また倒れたらしいな。疲労から来る発熱だ。病でも怪我でもないから、これくらいのことしか出来ないが」

 このような事態は珍しいことではなかった。宇夜の襲撃から三年が経ったが、彼は未だにそれを悔いているのだろう。鍛錬だと言っては過度な神力の酷使を繰り返し、糸が切れたように倒れるのである。水方はその度に酷く慌て、怯える。再び近しい者を失うことに耐えられないようだった。

「……十分です。弟が、迷惑を」

 事代は八千穂から首を背けて瞳を閉じた。水方は困ったように、事代と八千穂を代わる代わる見る。八千穂はそれに気付いて苦笑を浮かべた。どうにも好かれていないらしいことは、随分前から気付いていた。

「鍛錬もいいが、無理はするな」

 幾度か繰り返した言葉を今回も口にするが、事代は身動ぎ一つしない。返答があることなど期待していなかったので、八千穂は腰を上げた。

 ところが、事代は言葉を返したのだ。

『一時の平和に現を抜かすよりはましでしょう』

 ぎょっとして、八千穂は振り返った。その声を発したのは遠巻きに彼らを眺めていた兵士の一人である。声の主である当人の方が驚いた様子で、目を見開き掌で口を押さえていた。事代はそ知らぬ顔をして瞳を閉じ、口を噤んでいる。

 彼は兵士を見ることも触れることもなく、己の神力を及ぼしたのである。

「なんと、ここまで出来るようになっていたか……」

 素直な驚きに、八千穂は呟く。けれどふと表情を引き締めると、いくらか厳しい眼差しで事代を見た。

「無理をするな、と言っているのに。その矢先に神力を使うなど」

 彼には珍しい、咎めるような口振りだった。それにはもう答えを返さず、事代は瞼を固く閉じる。八千穂は彼に気付かれぬ程度に、細く溜息を吐き出した。

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