第一章其の二 迫害
朦朧とした意識の中で認識できたのは、“熱い”という、ただそれだけの感覚だった。
「――千穂、八千穂!」
子供特有の高い声に覚醒を促され、少年はゆっくりと瞼を押し上げた。途端、腹部に感じた鈍痛に顔をしかめる。疼くような熱を持ったその痛みは、腑を絞り上げるように彼の身をさいなんだ。血流は必要以上に激しく流れていて、どくどくと脈打つ心臓が失われた血液と傷の深さを物語っていた。
「八千穂っ!」
ああ、それは自分の名だ。絶え間ない痛みの中で、少年はまずそのことを認識する。途端体中の感覚が、どっとその身に押し寄せた。
痛みを感じるのは、腹部だけではない。
山の岩肌の窪に背を押しつけるようにしてもたれ掛かる。神経は疲弊していると言えど張り詰めていて敏感だ。しかし追っ手の気配は読み取れない。そのことに八千穂はいくらか安堵して深く息を吐く。――休養がとれたのは、何刻ぶりであろうか。
「阿久斗……」
呟き、己の顔を覗き込む子供を仰ぎ見れば、元より真っ赤な瞳がさらに赤く潤んでいるのが見える。ぼろぼろに汚れているその異国の装束を見れば、今の状況を判断するのは容易かった。
「……すまなかったな」
だから思わず口をついて出たのが謝罪の言葉だったのは、致し方ないことだっただろう。それ以外のどんな台詞を子供に向けろと言うのだろうか。
なし崩し的に巻き込まれているにすぎない、獣から転じたばかりの化生の子供に。
八十神の追尾と攻撃を、受けることになって早七日。山林を駆け、身を隠し、ただひた走ることにも限界が近付く。降り注ぐ石飛礫に砕かれた腕は満足にものも握れず、火攻めによって出来た水膨れは草を踏む毎に破けて膿んでいる。射かけられた矢に打ち抜かれた肩の傷は塞がらず、また大岩に押しつぶされた胸から腹にかけては骨の一本ぐらいは折れているに違いない。
八上姫の宮への道で行方を眩ましたこと。そして八千穂は与り知らぬことだが、かの姫の言葉。それに逆上した八十神たちの迫害は、以前より度を超して酷くなった。
本気で殺す気でいる。
体を動かすこともままならないというのに、八千穂はくつくつと笑った。口惜しいよりもただ情けない。もしもこのまま傷が塞がらなければ、いずれ魂は黄泉平坂を転がり落ちて、幽世の鬼へと変じるのだろうか。
「……八千穂?」
阿久斗が不安げに少年の名を呼ぶ。よもや、狂ったのではあるまいかと。しかしその心配を余所に、八千穂は笑うのを止め、子供の顔を見上げる。赤い瞳が、揺れていた。やはり獣であるからか、押し迫る危険に対する反応は敏感だ。怯え、逃げることを性とするのは仕方がないことだろう。
八千穂はゆっくりと腕を上げた。創傷が抉れるように痛むのにわずかに顔を歪めながら、それでも小さく笑って阿久斗の髪をくしゃりと撫でる。
「お前は逃げろ」
「……っ! 何度も嫌だと言っただろうが」
この期に及んでまだそれを言うのか、と阿久斗は表情を歪める。自分を拾い上げ、精一杯の手当をしてくれたこの少年。その時に誓ったのだ。豊葦原の地を踏んだ目的、己の命を果たすその日まで、決して逃げないと、傍に居ると誓ったのだ。
「恩は十分返してもらった」
だから逃げろと言う八千穂に、阿久斗は首を横に振る。
「おれはまだそう思っていない!」
繰り返される言葉の応酬。意固地になっている子供の様子に、八千穂は小さく溜息をついた。たかだか傷を治してやった程度のことで、命を掛けようとするのは幼さ故か。
行き着く先は闇、ただそれだけだというのに。
どちらともなく押し黙り、相手の出方を見計らう。八千穂の喉からヒュウヒュウと漏れる苦しげな息がいやに耳についた。下草を薙ぐ風の音さえも響き渡る。今にも死にそうなくせに己に逃げろと言える八千穂が悔しくて、阿久斗は射干玉の瞳を睨み据えながら下唇を噛んだ。
日が陰り、風が強くなってくる。
頭上の大樹の枝がざわざわと鳴った。
「……嵐になるんじゃないか?」
「……そうだな」
不安げにぽつりと呟く阿久斗に対して、八千穂の返事は他人事のようだ。それが余計に我が身を省みない証のように思えて、阿久斗は思わず頭に血を上らせた。
「お前――少しは助かる方法考えろよ!」
「だから、お前が逃げれば良いんだ」
「おれだけ逃げる訳にいくかっ!」
結局は一方的に阿久斗がまくし立てるだけになってしまう。今にも泣きそうな顔で叫ぶ、その姿さえもが霞み滲んで見えた。今意識を失ってしまったら、次に目を覚ますことはあるのだろうか。そんなことを朦朧とした頭で思う。
その時、だ。
「――どちら様ですか?」
いきなり響いた第三者の声。その声に二人はびくりと身を震わせる。即座に阿久斗が振り向き、身構えた。八千穂を護るように小さな体躯で立ちふさがり、声のした方向に紅瞳を向ける。
敵か、味方か。
生い茂った藪が、揺れている。阿久斗は小さな拳をぐっと握りしめ、掌に爪を食い込ませて不安に耐えた。心臓がやけに激しく動悸をしていて、その不甲斐なさに涙が零れそうになった。八千穂の苦しげな息遣いを背に、阿久斗は声に向き合った。
「ああ、怪しいものじゃありませんよ」
言いながらガサリと音を立てて蔦を払い、木立から姿を現したのは一人の青年だった。上背はあるのだが薄い筋肉や胸板からか、細身な印象を受ける。八千穂や阿久斗と対称的に、その表情はひどく穏やかだ。
「誰だっ!」
「阿久斗、よせ」
怯えて吠える子供を小さく窘め、八千穂は思うように動かない体をそれでもかろうじて起こした。途端肩の止血は意味を成さないものへと変じ、それを目に留めた阿久斗が青ざめる。止血をしたのは阿久斗であったから、その傷の深さは分かっていた。
「八千……っ」
「いいんだ」
思わず手を差し延べようとする子供を制して、八千穂は青年に向かった。その青年は華美ではないが明らかに高価なものであることが知れる、装束や装飾品を身につけている。髪の色は木肌の茶色、しかし逆光に霞む瞳はそれでも色鮮やかに緑色だった。力ある者であることは、疑うべくもない。
このままの状態で八十神に見つかることは、則ち死に繋がることを八千穂は認識していた。己はともかく懐いてきた阿久斗をも、彼らは攻撃の対象にしている。最悪の事態だけは免れたいと、八千穂は唾を呑んで覚悟を決めた。
「私は、名を八千穂と申します」
突然に名乗りを上げた八千穂に、青年はぴくりと眉を上げて反応した。驚くのも当然だ、初対面の者に名を明かすなど。しかしそれは、つまりそれ程に、次いで発せられる言葉の重要性を示しているということだ。
「訳有って追われる身なれども……騒ぎ立てることだけは、どうかご容赦願えませんか」
覚悟を決めた八千穂の言葉に、しかし青年は場違いな程嬉しげに言った。
「では、貴方が」
その口振りに、八千穂は当惑する。
「私をご存じで?」
問えば、青年はやんわりと笑った。敵ではないのだ、と示すように。
「私の名は五十猛、神産巣日神より、貴方の身をお助けするようにと仰せつかった者です」
「か……っ!?」
カミムスヒノカミ。その名を口にしたことにより、目の前の青年の疑惑は晴れた。世の根元、天地開闢のその時から天に坐す、造化三神。その神力は強大で、真の名が他者に知れたところで呪を及ぼすことすら出来はしない。けれど彼らは己の名が、一度誰かに呼ばれたならば、確かにそれが分かるという。疚しき心にて呼ばれたならば、たちどころに罰を与えることも可能なのだ、と。
つまりは、決して虚偽に使われ得ぬ名なのである。しかし、そのような上位神が自分を気に掛けている筈がない。信じられぬ心地で目を見開く八千穂に、五十猛と名乗った青年は一礼をした。
「信じていただくより他はありません。巫女、刺国の子、八千穂……さん」
その呼びかけに八千穂はいよいよ驚いて青年を見上げる。よもや母の名さえ知っていようとは。
――信じても、良いのだろうか。
暫しの躊躇の末、八千穂は阿久斗に向かって頷いた。
助かるのか、その思いに胸が詰まり、子供はへたへたと座り込んだ。八千穂も張り詰めていた緊張が解けたのか、瞳を伏せて深い溜息を吐く。そしてそのまま彼の意識は、深淵に落ちるように遠のいたのだった。
気が付いたとき、八千穂が鈍痛と共に感じたのは温かな誰かの体温だった。
はっとして身を起こし、辺りを見渡す。緑の木々、深い森、森。
そして自分が居る場所は。
「ああ、気が付きましたか?」
声がして、目の前の頭が振り向いた。寝ていてもいいんですよ、と言って微笑んで、もう一度目線を前方に戻す。現在の状況を認識してみると、どうやら自分は彼の背に負われ、山道を抜けているところらしかった。左右を見渡すと、どこか不機嫌な顔をした阿久斗をみつける。そのことに少しだけ安堵して、八千穂は小さく溜息を吐いた。
それにしても、五十猛と名乗ったこの青年の細い身体の、どこに自分を負って歩き続ける体力があるのだろうか。疲れた様子もなく下草をかき分け進んでいく。その動作一つにしたって、背に負っている八千穂の負担にならない最善の方法を採っていることが分かるのだ。傷の痛みは絶え間ないが、不安が薄れただけ幾分かましになったように思えた。
「……五十猛、殿」
「なんですか?」
もう一度青年が見返る。それに対し八千穂は、決して逞しいとは言えない彼の肩を掴む手に力を込め、意を決したように口を開いたのだった。
「無粋な質問をいたします。五十猛殿、貴方はいったい何者なのですか?」
少年の問いに、五十猛はすうと目を細めた。そして苦笑めいた表情を浮かべ、視線を逸らすように前を向く。
わずかな沈黙のあと、五十猛がそっと口を開いた。
「私は、豊葦原が領土、この木ノ国の守……父は、須佐ノ王と呼ばれる者です」
「え!?」
「ス……須佐ノ王だと!?」
予想もしていなかった答えに八千穂は思わず身を強張らせ、沈黙を守っていた阿久斗が叫ぶ。――須佐ノ王、天降り、豊葦原の土を踏んだ戦王。かの王の出現により高天原の天神と、豊葦原の地祇は、今や一触即発の臨戦態勢である。それでも尚地祇が須佐ノ王に従うのは、偏にその強さ故なのか。
しかしその王は今居ない。
王はどこへ、と問う者も後を断たない。しかし彼の屋敷のあった出雲の国は未だ沈黙を続けている。確かなことは、須佐ノ王はもうその場所にはいないということだ。けれど、あの国へ、その国へという噂は絶えぬが、それでも誰一人として王の死を噂にしていなかった。それ程に、彼は強すぎた。
最後に彼が姿を見せたのは、数年前の高天原との戦でのことであったという。血にまみれた太刀と弓を手に、彼はその名に相応しい勢いで駆けてゆき、それきり姿を現さなかったのだ、と。しかし今ではそのような噂話は既に過去のことであり、ただ戦の残した爪痕と、未だ侵攻を続ける高天原が民草達を苦しめるのだった。
「阿久斗?」
確かに自分も驚いた。しかし子供の反応はそれ以上だ。不審に思い顔を向けると、真っ青な顔が目に入った。大きな赤い瞳が見開かれている。光に弱いその瞳が、いつも以上に揺れていた。
ここまで怯えさせてしまったのは己の肩書きか、と五十猛は悲しげに眉を寄せる。けれど阿久斗は何かを振り払うかのように幾度か首を振り、おもむろに顔を上げて五十猛を見据えた。背の高い青年を見上げ、紅い瞳には緊張が走る。五十猛もそれを感じたのか、歩みを止めて阿久斗を見つめた。八千穂は五十猛の背の上から、ぼんやりとその幼子を見下ろす。こうして高い場所から眺めてみれば、その稚さがよく分かる。未だ傷跡の残る手足が、八千穂には気懸かりだった。
「では……」
阿久斗は首を反らし、ごくりと唾を呑む。
「須佐ノ王の住居を知って――」
「ええ」
最後まで言わせることなく、五十猛はこくりと頷いた。
そして、怯える子供を悲しそうに見下ろし、ゆっくりと言葉を吐き出したのだった。
「私たちが向かっているのは、そこです」
五十猛の淡々とした言葉に、八千穂の背にぞわりとしたものが這い上がる。それは恐怖か、緊張か。ともかくも良い予感ではない。不安に駆られて、我知らず五十猛の肩を掴む手に力が籠もる。
「須佐ノ王の坐す、根国堅洲へ」
薄い背中越しに聞こえる声の静けさが余計に胸を打つ。
冥界黄泉と対を成す、命の源である根国堅洲。
かの王は、そこに居るのか。