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第三章其の六 姉妹

 磯の香りが好きだった。息の詰まるような屋敷から抜け出して、青い海の向こうを眺めるのが好きだった。ほんの些細な気晴らし、そのつもりだったのだ。

 ――随分と失礼な態度をとってしまった。

 磯辺に続く道を辿るのは、一人の若い娘であった。昨日の出来事に思いを馳せながら、彼女は罪悪感から柳眉を寄せる。日に焼けないようにと携えていた領巾が突風に煽られたのを、捕まえてくれた見知らぬ青年。突然の事に驚いて、挨拶もそこそこに逃げ帰ってしまった。

 ――きっと、呆れられたことだろう。

 領巾を差し出す青年の表情を思い出して、娘は恥じ入るように俯く。見慣れぬ面立ちの青年だった。海を渡ってきたのかもしれない。

 そのような事を考え続けていると、次第に娘の足取りは遅々としたものになってゆく。昨日からずっと、頭の中で青年に失礼を詫びる自分を思い描いていた。しかしこうして磯に向かおうという段になると、やはり躊躇してしまう。

「あら、どこへ行くの?」

 その時、不意に背後からかけられた声に、娘ははっとして立ち止まった。

「姉様」

「また海へ行くつもり?」

 振り返った先には見慣れたしかめ面がある。娘は弱々しく肯定の微笑みを返した。

咲夜サクヤ、あまり父様に心配をかけてはいけません」

「はい……でも、よい風が吹くのですもの」

 おずおずと、といった調子で娘が言うと、その姉は大仰に溜息を吐いてみせる。無理矢理にでも屋敷に帰れと言われるのではないかと、咲夜と呼ばれた娘は不安を瞳に浮かべながら姉を見た。けれど姉はふと唇の端を持ち上げると、咲夜の横をすたすたとすり抜けた。

「私も行くわ」

 その言葉に、咲夜はみるみる笑顔になる。彼女の名が表すように、薄紅の桜が一つ、また一つと蕾を綻ばせるかのような光景だった。

 しかし、姉は振り返らない。咲夜が微笑みを浮かべていることが察せられたからこそ、振り返らなかった。

 彼女たちは筑紫の長、山祇ヤマツミの二人の愛娘である。姉の名は磐姫イワヒメ。紛れもなく咲夜の同母姉いろえであるのだが、彼女たちを並べてみても、今まで一目でそれが分かるものなどいなかった。要するに、全く似ていないのだ。

 咲夜の容姿が触れれば折れそうな儚い乙女であるのに対し、磐姫のそれは極端から極端へと向かったようだ。眉はかっきりと太く、その下にある目は細くつり上がっている。鼻や口は作りが大きい。枇杷の実のような鼻だと陰口を叩く連中もいる。肩幅が広く、身の丈は大きく、それに見合う豪気の持ち主だ。つまりは、父である山祇に瓜二つなのである。

 咲夜は先に行こうとする磐姫に足早に駆け寄り、自分より一回りほども大きいその手をとる。驚いて磐姫が妹を見下ろすと、柔らかな笑顔が返ってきた。

 磐姫はそれに答えるために、ぎこちなく笑った。

「この道だと、笠沙御崎かささのみさきに行くのね」

「あそこの磯は楽しいのです。可愛らしい寄居虫かみながたくさんいるのですよ」

 繋いでいない方の手で、咲夜は小さな円形を作ってみせた。巻き貝の殻の中に住んでいる、宿借りとも呼ばれる小さな生物である。

海星ひとで海牡丹いそぎんちゃくも」

「……まったく、もう子供ではないのよ」

 瞳を輝かせる咲夜に向かって、磐姫は呆れたようにそう言った。

 たわいもない会話を続けながら、二人は磯へと向かって行く。いつの間にかその話題は、咲夜が昨日出会った若者の話へと移っていた。

「見ず知らずの男なんて、危険な者だったらどうするつもりだったの」

「でも、優しい方でした」

 咲夜はおっとりと笑う。

「こちらの方ではなさそうです」

「なにか東の品々を持ってきたのかもしれませんね」

 翡翠の玉は東からもたらされる。美しく染め上げられた上質の布もだ。それらは筑紫の姫達にとって魅力的な品々であり、交易のため海を渡ってくる者達を、この地の人々は歓迎していた。

「どのような方だったの?」

「……よくよくお顔も拝見せずに、急ぎ帰ってしまったものですから」

 咲夜はそう言って、悲しげに表情を曇らせた。その様子に磐姫は苦笑する。気の弱い妹に、慰めの言葉をかけてやろうと彼女が口を開いたその時だった。

「こんな顔ですよ」

 突然に、彼女たちが辿っていた小道の右手、藪の中から人影が姿を現した。二人は足を止める。咲夜に至っては、反射的に磐姫の背に隠れた。しかしその人影が昨日の青年であることを認識すると、赤面し、掴んでいた磐姫の衣から手を放す。

「すみません、盗み聞きなどするつもりはなかったのですが」

「い、いえ……あの、昨日は失礼をしてしまって」

 深々と頭を下げる咲夜に、青年は笑いかけた。磐姫はというと、あんぐりと口を開いている。

「こちらこそ。隣の方は?」

「あ……姉です」

 青年の顔が、磐姫の方へ向けられる。磐姫は慌てて口を閉じ、顎を引いた。

「そうだったのですか。初めまして、姫君」

 笑顔が向けられる。――言葉を紡ぐ方法を忘れて、磐姫は微かに頷いた。

 初めて、だったのだ。咲夜と並ぶ自分に向かい、強張る事のない笑顔を向けた者など。

「大層な家の方々だとお見受けします。貴女がたは?」

「……山祇の、娘です」

 いつも明け透けにものを言う彼女には珍しい、どもりがちな磐姫の言葉だった。その内容に青年は目を見張る。

「では、出雲を去ったという、筑紫の長の」

「恥ずかしながら……」

「あの……貴方は?」

 咲夜の声に、青年は再びそちらを向く。彼は一度口を噤み、ごくりと唾を飲み込んだ。呑み込んだのは、動揺であったのか、緊張であったのか。咲夜の問いに答えようと口を開いたときには、その声音は朗らかなものに戻っていた。

「――安芸あきの者です。こちらの珊瑚を取引しようと思いまして」

 切れ長の、けれど少年めいた瞳が、人懐こい色を見せる。

 その色が、常日頃は高天原の天照姫アメノテルヒメに向けられるものだということに、二人は気付く由もなかった。


 □ □ □


 山刀を振るい、絡み合った蔦を切り拓く。終わりを迎えそうにない作業を続けながら、八千穂は頬を伝う汗を袖で拭った。

「八千穂、帰らないと杵築に着くまでに日が落ちるぞ」

「……分かっている」

 返事をしながら、しかし八千穂は手を止めようとはしない。日陰に座り込んでいた宿那が、溜息を吐いた。

「どうしたんだよ、いきなり」

 八千穂の突然の行動は、大いに彼を悩ませた。長江山を下り、川沿いの道を馬で進んでいた折に、突然その足を止めて藪の中に分け入ったのだ。荷の中から山刀を取り出し、帯に結わえていた鞘から刀子を取って、何をするのかと思えば丁寧に草を集めている。薬草だろうということは知れたが、しかしそれは八千穂の行動を説明する理由にはならなかった。

「おおい、八千穂」

 何度目かの名を呼ぶ声に、八千穂は振り向いた。やっと帰る気になったかと、宿那は立ち上がる。ところが少年は山刀を左手に持ち替え、汗ばんだ右手を風に晒しながら、事も無げに言ったのだった。

「暇なら手伝ってくれ」

 斯くして宿那も扱い慣れぬ刀子を手に、種々の草木を麻袋に放り込むこととなった。

「これも?」

麦門冬やますげだ。咳に効く。根を丁寧に扱ってくれ。膝の横に生えているのは連翹いたちくさ。血止めの薬になる」

 事細かに飛ばされる指示に唸りながら、それでも宿那は言われた通りに麦門冬を掘り、根から土を落とした。薄紫色の花を房のようにつけているのを見るとそちらの方が薬になるように思ってしまうが、実際はその根の瘤を天日に干す事で得られる薬効である。そのようなとりとめもない説明を聞きながら、宿那は麻袋にそれを収めた。

「八千穂、本当にどうしたんだよ」

「杵築の周りには生えていない薬草なんだ。こちらに来たついでに集めておきたい」

「でも、神力があるだろ?」

 薬など無くとも、病や傷を癒す事が出来る。先程から感じていた疑問を投げかけると、八千穂はふと作業の手を止め、苦笑をしながら汗を拭った。

「そう、神力がある。僕とお前だけだ」

「二人もいれば十分だ」

 断定的な宿那の言いように、八千穂は小さく吹き出した。十分とは何を基準にしたものか。子供の言葉は理が通らないから面白い。

「今はな。幼子が擦り傷や火傷の類を作るくらいなら問題はないんだ」

 宿那はそろそろ言いたい事に気付いたようで、眉を寄せる。八千穂の表情から、笑みが消えた。

「しかし戦になれば、いつも僕かお前が怪我人の側にいるとは限らない」

 戦いに臨む兵士達に、最もそのことが言えた。これから先、戦線が複数の場所で展開するような事態となることも考えられる。戦で無理が重なれば、質の悪い病が流行る事もあるのだ。

「今はまだ高天原も状況を探っている。戦が再び大きくなる前に、薬を作る」

「成る程。お前らしいよ」

 言い切った八千穂に、宿那は納得したように唇の端を持ち上げた。つられて八千穂も再び微笑を浮かべる。戦に備えるのは王の義務である。兵士の鍛錬や武具の補給ではなく薬に目が行くところが、八千穂が八千穂たる所以であった。

「出来れば兵士の一人一人に行き渡るように、薬袋を作りたい」

 切り傷には血止めを、打撲には膏薬を。腹が痛いにしても、頭が痛いにしても、それぞれに最もよく効く薬がある。それを八千穂は知っていたし、それを選別する目も、作り出す腕も持っていた。それらは後生大事にしまい込んでおく技術ではない。ムラにいたころは数十人の民のために、そして今は何百の兵士達のために使うための技術である。

 ただ一人傷を負い山で道を失う事があっても、その兵士が生きて帰れる最善を尽くしたかった。一人として、欠けさせたくはなかった。

 一介の人に何が出来るのか。そう問うてきた、先程の老人を思う。

 ――僕には、出来る。

 須佐ノ王のように強くはない。兵士達を統率し、勝利に導いた経験もない。しかし八千穂の手には医薬の技術があった。

 ――ほんの、僅かな事だけれど。

 出来る事がある。

「仕様がない。手伝ってやるよ」

 そう言って笑いながら、宿那は刀子で細い木の皮を剥ぐ。八千穂はその整った面立ちに、ひどく優しげな表情を浮かべた。



第三章 了

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