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第三章其の五 賢者

 この世が幾重にも重なったものだということはご存じだろう。そう言われて、八千穂は頷いた。豊葦原、高天原、大八洲おおやしま、そして夜之食国よるのおすくに。その各々は空間を異にする異界である。

「造化三神と呼ばれる神々の手によって造られたということも、ご存じのはずです」

 八千穂はもう一つ頷く。幼い時分にその話を聞かぬカミなどいない。誓いを信じてもらいたいのならばその三神の名を呼べと、親から、ムラの老人から、幾度もそう言い聞かされる。その三神は独神ひとりがみ。意志を持つ存在であれど、血肉を備えていると見た者はない。いつから在る者であるか、どこから生まれた者であるのか、それを知る者もいない。

 久延彦の口元が、笑みの形を作った。

「――では、何故造化三神は、この世を幾重にも造ったのだと思われますか」

 思いもかけなかった問いに、八千穂は眉を寄せた。

「そう、何の必要があって、高天原、豊葦原、夜之食国――諸々の世が造られたのか」

 重ねて問われ、八千穂は考え込んだ。必要。そんなこと、考えた事もなかった。世界とは彼にとって変わらず存在し続けるものであり、そこには必要性などという観念を超えたものがあるのだ。

 押し黙る八千穂の様子を、久延彦は暫く見ていた。しかし答えが返ってくる気配が無いのを見て取ると、ゆっくりとした調子で口を開く。

「世の始まり……そう、我らがまだカミと呼ばれぬ頃、この世は大八洲と、造化三神の坐す常世国だけがございました」

「まだ?」

 強調されたその一節を、宿那が訝しんで反復した。久延彦の口元が笑みの形を作る。

「大八洲に住むのは人民草ひとたみぐさ……かつては我々も、それと同じものであったのです」

「人民草……と?」

 口にされた思いがけない内容に、八千穂は驚きの表情を浮かべる。久延彦が顎を引き、頷くような仕草を見せた。

「初めに在りしは大八洲に人民草……しかし時を重ねるうちに、人民草の間には異能を持つ者が現れ始めたのでございます」

 火を起こす者、風を起こす者、先見の力を持った者――彼らは畏れられ、崇められると同時に迫害された。いつしか彼らは“カミ”と呼ばれるようになり、そして人々は異能が血によって受け継がれる事に気が付いた。血は尊ばれ、蔑まれ、羨望と憎悪の対象となった。

「人の世のその混乱を、造化三神は憂慮した。そこで三神が考えたのは、“ヒト”と“カミ”とを分離することでありました」

 けれどその時には、カミの神力は大八洲に深く深く絡み付いていた。風の運行、水の運行、草木を育む地の豊かさ。それら全てに、神力は影響するようになっていた。

 故に神産巣日神は初めに豊葦原を造り、そこに大八洲に影響の深い者達を配した。これが地祇クニツカミと呼ばれる者達だ。そして他の者達を高産巣日神が高天原に配し、天神アマツカミとしたのである。

「造化三神はその折に、カミの髪と瞳を染め上げました」

 神力に従い髪と目に色を持たせた。それは神力の優劣を明らかなものとし、無駄な諍いを無くすため。

「そして海の向こうの国々と、大八洲に連なる我らの世を隔てるために海原を置き、更にはこれらの世が混じり合わぬよう見張るために夜之食国を置き――そうして次第に世は増えてゆき、今に至るのでございます」

「……なんと、まあ」

 そう呟くと、八千穂は息を吐いた。今まで広大に感じていた世界が、まるで掌に収まるもののように感じた。粘土で器をこね上げるように、造化三神は世を造ったのだ。

「まことでしょうか」

「我は偽りを口にしませぬ。三神に誓っても良い」

 淡々とした久延彦の言葉に、八千穂は頷く。確かに、その言に偽りあらば久延彦が涼しい顔をしているはずがない。八千穂の納得を確認すると、久延彦は続けた。

「……そして三神は、王たる血を選んだのです。最も強大な血の連なる先こそが、天照姫や月読尊、そして須佐ノ王でありました」

 原義的には、彼らの領土は高天原のみである。しかし豊葦原が大八洲に影を落とすのと同じように、高天原もまた海原や夜之食国に影響を与える。結果、彼らはそれらの国々を支配し、守ってきたのである。

 その血を継ぐ者が、豊葦原を欲しているのだ。

「カミとは、本を正せば人に過ぎませぬ。地のため……などと言っても、一介の人に何が出来ましょうや。高天原は戦を続ける。豊葦原はそれに対抗し得たところで、打ち勝つ事は出来ますまい」

「――黙って聞いていれば、このじじい!」

「宿那っ」

 いくらか強い語調で諫めれば、宿那は不承不承という態度で浮かしかけた腰を乱暴に下ろす。その瞳に浮かんでいるのは、怒気と言うより完全な敵意であった。

 久延彦は動じる事もなく、藁山に背を預けたままだ。言葉を続ける気がないのを見て取ると、八千穂は口を開いた。

「そのようなこと、とうに存じています」

 久延彦の口元が、ぴくりと動いた。

「先も申し上げました。私に出来る事など殆ど無い。けれど民から望まれ続ける限り、受け取ったものを放り出したくはありません」

 八千穂には珍しい、はっきりとした意思表示だった。宿那も驚いたようで、久延彦を睨み付ける事を忘れて八千穂を見上げた。柳眉の下の射干玉の瞳は、静かな決意を湛えている。久延彦からの返答を待つように、形の良い唇が引き結ばれていた。

「……それ程までに、強くお思いですか」

 答える久延彦の声音には一貫して感情が見えない。八千穂は頷いた。暫しの沈黙があった後、久延彦は細く、長く息を吐いた。

「よく、分かりました。……日も高い。今日はここまでと致しましょうか」

 会話を打ち切るその言葉に、八千穂も承諾の返答をした。

 いつでも訪ねて来て欲しい、という賢者の言葉に丁重に礼を言って、二人は馬の背に乗った。化生の男がにやりと笑って手を振り、彼らを送り出す。八千穂は一礼したが、宿那は不機嫌な表情のままそれを無視していた。

 小屋が見えなくなったところで、ぼそりと宿那は呟いた。

「気にくわない」

「……そう言うな」

 宿那の憤りが分からないわけではないのだが、八千穂にしてみれば久延彦の言い分は全て正論だ。確かに、このままでは豊葦原は疲弊する一方である。しかし降伏という道は選べない。天神を受け入れれば、豊葦原は、そして大八洲は均衡を崩すだろう。

 何より、民は降伏を望まない。

「僕たちは、どうすればよいのだろうな……」

「知れたこと。豊葦原のために戦うだけだ」

 血の気の多い宿那の言葉に、八千穂は苦笑した。脇目もふらずに戦い続ける。それも一つの選択であるが、それだけでは何の解決にもならないだろう。

 民が望むのは敗北でも勝利でもない。平穏な日常だ。


 □ □ □


 何やら寝言を呟いている弟を見下ろして、事代は深く溜息を吐いた。今まで酒など口にした事はなかったために、ものの見事に酔い潰れている。宿那相手に大暴れもしでかした。

 腕力では武神である水方に敵わない宿那だが、身軽さでは一歩秀でているため、結果互角に渡り合う。ムラには水方相手に掴み合いをする度胸のある子供などいなかったから、余計にその喧嘩は楽しいのだろう。しかし子供とはいえ、互いに背の丈は四尺半近くある。周りの人間が被る迷惑はかなりのもので、昨晩も大国主に仲裁されなければどうなっていたことか。

 何度か揺さぶってみたが、目を覚ます気配はなかった。事代は途方に暮れる。その背中に、くすくすと笑い声が届いた。

「よく寝ているみたいね」

 振り向くと、角髪を結った女性の姿があった。

「高姫さん」

「ここに寝かせておくわけにはいかないし、運ぼうか」

 そう言って、高姫は水方を抱き上げようとした。高姫は並の女性に比べて長身で、体力もある。だからこそ兵士としてもやっていけるのだ。しかし事代は慌ててそれを制した。

「い、いえ、僕が運びますから」

 そう言って水方の両腕を自らの肩に持ち上げて、一礼すると引きずるようにして去っていった。それを微笑ましく思いながら見送った高姫は、踵を返すと本来の目的を果たしにかかる。

「ほら、高彦、水を飲みに行こう」

 ぐったりと柱にもたれている兄にそう声をかけると、高彦は俯いていた顔を上げて弱々しく微笑んだ。

「もう、弱いんですから飲ませないで下さい」

「それは違うぞ」

「おう、高彦はやめろなどと言わなかったからな」

「喋れないんです!」

 はやし立てる連中を睨み付けて一喝する。その中で只一人申し訳なさそうにしていたのは、高彦と同じ顔だった。

「すみません、止められなくて」

「いえ、稚彦ワカヒコさんはいいんです」

 昨日会ったばかりなのだから仕方がない、と高姫は苦笑した。高彦が出雲に帰ってきて、改めてその顔立ちが瓜二つである事に驚く。

「高姫、それは贔屓ではないか」

 今度は揶揄を始める兵士達に、高姫は頭が痛くなった。いい加減にしろと怒鳴ってやろうかと息を吸い込む。しかし、高姫はそのまま息を呑み込んだ。音も無く、人影が傍らに立っていたのだ。

「あまり調子に乗るでないよ」

 そう言って座り込んでいる兵士達を見下ろして笑みを浮かべるのは、一人の女だった。盛りは些か過ぎたが、引き締まった体躯を持っている。彼女の名は枳賢キサカ、豊葦原の将の一人であった。

「高姫が困っている」

「は、はい!」

 兵士達は慌てて居住まいを正した。それを認めて、枳賢は笑みを深くする。兵士の幾人かは、その笑みに戦慄すら覚えた。女の身で将という地位につく彼女は、侮られる事を一番嫌う。兵士の統率に影響するからだ。普通の将が笑って見逃すような無礼な態度を、彼女は徹底的に許さない。

 高姫もそれに倣ったが、初めて枳賢と対面した天稚彦は訳が分からない様子でいる。一人の兵士がそれを見て慌てて天稚彦を小突いたが、その時にはもう枳賢の目に留まっていた。

「お前が稚彦か」

 問われて、天稚彦は頷いた。

「まこと、高彦に瓜二つだこと。神力は何だ?」

「目でございます。馬で駆けながら飛ぶ鳥を射落とせます」

「……ほう」

 枳賢は感心したように呟く。

「私も弓が得意なのだ。どうだ、仕合でも」

「い、いえ……」

「はは、そう怯えることはない」

 相手は将だということに何となく気付いていた天稚彦は、急いで辞退した。目立つわけにはいかないのだ。枳賢はありがたいことに、それ以上無理強いをしようとはしなかった。

「高彦の神力は足だったな」

 枳賢の確かめの言葉に、高彦は肯定の意を笑顔で返す。馬と張り合うほど早く駆け、長身から繰り出す蹴りは下手な棒術よりも強力だ。副将くらいになら上れるであろう程の実力であったが、不自由な口では兵士に指揮する事は出来ぬと一介の兵に留まっている。

「成る程、そこは違うのだな」

「何から何まで瓜二つでは、血縁の私の立場がありません」

 高姫がそう訴えると、枳賢はそれもそうだと声を上げて笑った。

 現れたときと同じように、枳賢は足音を立てずに去ってゆく。それを確かめた兵士達は、張りつめていた息を吐き出した。

「それ程緊張しなくてもよいのに」

 呆れたように高姫が言うと、兵士達は一斉に反論した。

「お前は同じ女だからそのように言えるんだ」

「そうだとも。一度枳賢殿の鬼の顔を見ればいい」

 口々にそのような事を言う。高姫は溜息を吐いて、兄に目を遣った。

「もう、私は行く。水を飲みたいならついてきて」

 高彦は一つ頷くと、おぼつかない様子で立ち上がった。高姫はそれを軽く支えると、天稚彦にだけ笑いかけて井戸へ向かった。

「まったく、仲良きことよのう」

「あれだから互いに相手が見つからんのだ」

 やはり言いたい放題になる兵士達の言葉に、天稚彦は曖昧に笑った。確かに、傍目にも兄妹の絆は深いものだと分かる。高姫と言葉を交わすうちに、兄の外に身寄りが無いことも察した。何故なのかは聞いていない。不作か、流行病か、あるいは――戦か。

 笑いながら、天稚彦は胸に小石が詰まったような感覚を覚えた。

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