第三章其の四 筑紫
筑紫の地に降り立ったのは、火乃芸と鳥船の二人だけであった。
「ふうん、ここが筑紫か」
「笠沙御崎にございます」
いや、正確には二人だけではない。高天原の筑紫にあたる地には、十数名ばかりの兵が控えている。しかし豊葦原への門をくぐったのは彼らだけだ。
火乃芸は興味深げに辺りを見回していた。不安が一欠片も見えぬその様子に、鳥船は内心溜息を吐いた。肝が据わっていると言えなくもないが、短慮であると言った方が相応しい。
「周りをご覧になって下さい」
どこから誰に見咎められるか知れないのだ。低く鳥船が囁くと、火乃芸は首を竦めてみせた。
静かに辺りを窺うようにして、二人は浜辺に添って歩いてゆく。地理は解していた。浜は、山祇の勢力の外にある。しかし緊急の場合に備えて、鳥船はいつでも門を開けるようにと精神を研ぎ澄ませていた。
火乃芸に傷を負わせるわけにはいかない。それは、天照姫への忠誠であった。
「やあ、こちらの海は青い」
火乃芸が嬉しげに言う。鳥船は僅かに頷くことで、同意を示した。
「陽射しが強い。どこかに岩穴でもあれば、そこに落ち着く事にしよう」
その言葉にも、鳥船は頷く。落ち着く、とは一休みの意ではない。そこに居を構え、月日をかけて筑紫を探るのだ。新たに小屋を建てるのは目立ちすぎる。地形を利用して隠れ宿を造るに越した事はない。
「探ってこい、鳥船」
「火乃芸様は」
「磯がある。あっちに行ってみたい」
「……分かりました」
感情の籠もらぬ返答であった。火乃芸は満足げに頷いて、足早に磯へと向かって行く。その背を眺めながら、鳥船は内心溜息を吐いた。
ざくざくと砂を踏みしめながら、火乃芸は唇の端を持ち上げた。鳥船の渋面が見えるようだった。
――あまり莫迦だと思われても、いけないだろうけど。
賢く立ち回らなければならない。照姫に取り入り、しかし王座を狙っているなどと思われないよう奔放に。王になりたいわけではない。しかし戦場に立ちたくはなかった。
火乃芸は、海から吹き付ける風に乾いた唇を舐める。仄かに塩の味がした。
その時だった。目指していた岩場に、ちらりと桃色が翻った。突然の事にぎょっとして、火乃芸は思わず足を止める。目の誤りか、と思ったが、違う。それは領巾だった。風に煽られて天に舞ったのだ。
その領巾を追って、女人が一人、岩場からするりと姿を現した。鮮やかな紅の裳裾、鴇色の髪が風にはためく。白い手を伸べて、彼女は領巾を掴もうとした。
領巾は空を滑る。女人はそこで初めて火乃芸に気付いた。驚いたように立ち竦んでいる。火乃芸の身体は、考えるより先に動いた。
砂を蹴って駆け、再び舞い上がろうとした矢先の領巾を跳躍して掴む。着地してみると、それは女人の目前であった。
「どうぞ」
微笑んで、領巾を差し出す。女人はどこか怯えたような様子で火乃芸を見上げた。――その瞳に、ぞくりとした。
矢を受けて、引き倒された牝鹿のような瞳だった。二重の瞼のためか殊更に大きく見える異国風のその瞳には、一重瞼の瞳にあるような鋭さが無く、儚く甘やかな印象を受ける。そこに映る恐れの色に、火乃芸はごくりと唾を呑んだ。
花のような乙女だった。陳腐な表現かもしれない。しかしそれ以外に言いようが無かった。触れれば花弁が落ちるような、儚くも美しい花のようだった。可憐な唇が、僅かに震える。そこから漏れる声を聞こうと、火乃芸は息を殺した。
「ありがとう、ございました」
その容貌に相応しい、掠れがちな、しかし甘い声音であった。火乃芸は返答を忘れる。乙女は差し出された領巾を受け取ろうと、おずおずと手を伸べた。陽射しの強い地であるというのに、その肌は滑らかに白い。
領巾を手放さぬ火乃芸に困惑して、乙女は小さく首を傾げた。そういった動作の一つ一つが愛らしい。あの、と一声かけられて、ようやく火乃芸は我に返った。
「す、すまない」
「いえ……」
領巾をそっと肩にかけながら、乙女は瞳を伏せた。そのことが酷く惜しく思えた。
「あの、それでは、本当にありがとうございました」
呆けているうちに、乙女は深々と頭を下げて、さくさくと砂を踏み、去っていった。その華奢な肩に手を伸ばしかけた火乃芸は、しかし堪えてその手を握りしめた。
絹の領巾だった。相当の家の娘御に違いない。
縁あらば、再び会える。間者である己が勝手に事を為してはならぬことを、火乃芸は理解していた。
□ □ □
宴はいつ終わったとも知れぬままに朝を迎えていた。酔い潰れて死んだように眠っている兵士もいれば、その様子をからからと笑って眺めている将もいた。宴の余韻を引きずるような空気の中をすり抜けるようにして、八千穂は厩へと向かったのであった。
その後ろを宿那がついて行く。昨晩大人に負けぬほどの勢いで酒を呷った宿那だったが、それが尾を引いている様子は微塵も無かった。
「後ろに乗せてくれ」
「ああ」
無理をすれば鐙に足がとどかないわけでもないのだが、宿那は馬を御する事自体をそう好まない。八千穂にしてみれば不思議な事だが、問うと、見下ろされるから馬は好かないと顔をしかめてみせた。
出雲の馬は頑強だ。子供一人分の体重が増えたところで堪えられる。馬に鞍をかけ、手綱を嵌めた。道中に食べようと持ってきた、干した芋の袋を馬の首の後ろに縛り付ける。
「五十猛殿には言ってあるんだろ?」
八千穂は頷いた。以前山祇を追って美保に単身向かった時も、言付けだけを残していった八千穂は随分と心配されたのだ。
鐙に足をかけ、騎乗する。宿那も持ち前の敏捷さで馬の背に飛び乗り、八千穂の後ろに収まった。
「今日のうちに帰れるか?」
「そのつもりだ」
日はまだ昇っていないが、朝焼けが雲を染めていた。杵築は西出雲の端、長江山は東出雲の端だ。一国を東西に横断するのだから、途中で馬を替えなければならないだろう。
馬を駆り、門を抜ける。門番の兵士は酒が抜けきっていないようで、痛む頭を抱えながら槍を振って挨拶をしてきた。
昨日とは逆に、西から東へ進んでゆく。顔を出し始めた太陽が眩しかったが、それを本格的に気にする前に馬は平地を抜け、山道へ入った。樹木が増え、陽光は木漏れ日程度になる。肌寒いような山の大気が身に染みた。
野城の厩を過ぎれば伯太川は目と鼻の先である。川まで来たところで、馬の鼻先を南へと向けた。水源を辿れば、長江山に至る。
「東側だからな」
「分かっている」
伯太川の水源は二つ。一つは長江山に通じるが、西側のもう一つは葛野山という別の山から流れ出るものだ。念を押す宿那に頷いて、八千穂は手綱を握った手に力を込めた。
川面が煌めくのは、その水下の水晶の欠片によるものなのか、陽光によるものなのか分からない。木漏れ日よりも水面からの照り返しの方が眩しい程だった。馬が通る事があまり無いため、川沿いの小道は細い。足を滑らせて川に落ちるような事にならないよう、八千穂は手綱を慎重に手繰っていた。
それらしきものを見落とさぬように、山道を蛇行しながら彼らは進む。やがて山腹の辺りに、木の葉に埋もれるような小屋を見つけた。宿那が馬の背に立ち上がり、身を乗り出す。
「あれか」
「だろうな」
戸板は無く簾を入り口に下げているような小屋である。簡素と言うよりは粗末な小屋に見えた。
その簾が、ばさ、と揺れた。
のそりと姿を現したのは、昨日の化生の男であった。来訪を予測していたように、男は二人に目を遣り、僅かに頭を下げた。驚きながらも、八千穂は馬の足を止めずにそちらへ向かう。男の目の前に来たところで、鐙から足を引き抜いた。
「主は中で待っている」
小屋の入り口を指し示しながら、男はにいと笑った。
馬を立木に繋ぎ、二人は小屋の中に足を踏み入れた。途端に薫ったのは藁のにおいだ。小屋の壁を覆うように、大量の藁が積み上げられているのだった。納屋の中のようである。
藁山にもたれかかるようにして、久延彦と呼ばれる男はいた。
床に放り出された足は棒きれのようだ。恐ろしく痩せた男である。伸び放題の髪に隠れて、年齢も顔立ちも全く分からない。化生の男は床に散った藁屑を箒で掃いて、八千穂と宿那にそこに座るようにと示した。
「……谷蟆、下がってよい」
口の中で呟くような久延彦の言葉に、男は箒を手にしたまま頭を下げるような仕草をして小屋を出て行く。戸口に下げられた筵は暫く揺れていたが、やがてそれが再び静止したとき、久延彦はもう一度口を開いた。
「よくおいで下さいました、大国主」
「久延彦殿にも、お会いできて何よりです」
言いながら八千穂は宿那を小突く。しかし宿那は久延彦を睨み付けるようにしていて、挨拶を述べようとはしなかった。久延彦は大して気にした様子もなく、僅かに身じろいで姿勢を正す。そして、座には沈黙が降りた。
己が口を開くべきだろうか。八千穂は戸惑いながら久延彦を窺った。表情は読み取れない。宿那が痺れを切らしているのが気配で分かる。仕方があるまい。八千穂は息を一つ吐くと、おもむろに切り出した。
「答えを、持って参りました。――私が王となったのは、地が泣くからです」
王となる決意をしたのは、地の声に押されてのことだ。今も耳の奥に響く音。それが他者には聞こえぬものであると知ったのは、いったい、いつのことだったか。
「……地が泣く、と仰るか」
「はい。日照りに喘ぎ、大水に呻いています」
久延彦の口元が、ぴくりと動く。何を言わんとしてのことか、八千穂はじっと返答を待った。暫しの沈黙の末、彼は言った。
「それはおかしい。日が照ろうと、水が増えようと、地は不変でありましょう」
八千穂は眉を寄せた。久延彦の言いたい事が分からなかった。
「土は不変かも知れません。しかし大地の育む木々、獣、カミから人民草に至るまでの全ては、日照りや大水、病に苦しみましょう」
「……そうですな」
「さすれば、その苦しみに地は慟哭します。……因幡の地にて聞いた嘆きは酷いものでした」
思い出し、八千穂は顔をしかめた。あの響きは呪詛とも呼べた。水を得られなければ草木は枯れるのみ。その恨みの念をひたすらに訴えていた。
「しかし大国主、それは何故王となったかという問いへの、答えになってはおりますまい。それとも貴方はその全てを、取り除く事が出来るとお思いなのか」
いくらか不躾とも言える久延彦の言葉に、それまでじっとしていた宿那が膝を立てて眼光を鋭くする。それを察して、八千穂は静かにそれを制した。
「よせ、宿那。……確かに私に、それだけの事が出来るとは思いません。けれど私は望まれてしまった」
「須佐ノ王にでございますか」
「はい。そして、もう一方」
久延彦がふと口を噤んだ。思案している様子だったが、答えは返ってこなかった。沈黙に続き、八千穂はゆっくりとその名を告げた。
「造化三神、神産巣日神です」
「なんと」
男は、目に見えて驚いた様子だった。口元しか見えない顔には、それでも驚愕の色が見て取れた。暫し絶句していた久延彦だったが、何事かを口の中で呟いた後、再び八千穂へ語りかけた。
「何故、そのような」
「……私の横に控えているこの子供は、元々月読の化生でした」
じっと聞いている久延彦に、八千穂は手短に宿那の黄泉帰りを話して聞かせた。肉の身体を一度は失ったが、神産巣日神の手によりカミとして生を受けたのだ、と。
「ご理解、いただけたでしょうか」
答えを返さぬ久延彦に、八千穂は静かに問う。久延彦は唸った。
「大国主自身は、王座を望んでいらっしゃるのではないようですな」
「……そう言えるかもしれません」
「おい!」
そのやりとりに、それまで口を噤んでいた宿那が声を上げる。明らかに怒気を含んだ声音に、八千穂は宿那を諫めるように見た。しかし宿那自身の視線は、真っ直ぐ久延彦へ向かっている。
「望もうが、望むまいが、王はこいつ以外に有り得ない!」
獰猛に光る獣めいた目に、しかし久延彦は怯んだわけではないようだった。困惑した様子の八千穂に向かって、くつくつと喉の奥で笑う。
「……成る程、人望がお有りで」
「いえ、連れが失礼を」
冷静に返答しようと努めてはいたが、その声には照れが交じっている。賛美に慣れぬ若い王。久延彦は唇の端を持ち上げた。
「――時に大国主、こんな事を知っていますか」
不意に切り出された会話に、八千穂は不思議そうな顔をした。久延彦は藁山に背を預けたまま、空を見上げる。
そして、彼は語り始めた。