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第三章其の三 宴席

 出来る限り目立たずに、という当初の予定は脆くも崩れ去った。天稚彦アメワカヒコが一歩踏み出す毎に、『高彦』の顔を知る者が驚きの声を上げるのだ。そうして歩み寄ってきた者達は、どれほど説明しても釈然としない表情のままであった。生き写しだ、と言うのである。

 終いには天稚彦も辟易して、身を隠そうと手近な椎の木によじ登った。暫くすれば噂も広がって、何度も同じ説明をする必要も無いだろう。高いところに上ったついでに、首を巡らせてみた。兵舎、食料庫の規模を見ると、高天原には若干劣るにしても、確かに強大な勢力であることがよく分かった。

 ――さて、どうするか。

 椎の幹に凭れ、天稚彦は思案した。こうなってしまった以上、些細なことでも命取りになるだろう。いくら目立たぬように努めても、一挙一動が注目されてしまう。大きく溜息を吐いた天稚彦の背に、ふと僅かな振動が感じられた。

 樹下を見下ろす。一人の男が、椎の幹を叩いていた。こちらを見て目を見張っている様子から、またしても『高彦』の知り合いかと天稚彦は顔を顰める。けれど男は辺りを窺うような素振りを見せた後、ゆっくりと、声を出さずに唇を動かしはじめた。

 あ・め・わ・か・ひ・こ・ど・の。

 ――何故、その名を!?

 天稚彦の顔から、一気に血の気が引いた。あわや椎の枝から落ちそうになったが、何とかその場所に踏みとどまる。天稚彦は男を凝視したが、覚えのない顔であった。震える手で招き寄せると、男は再び辺りを見回してから同じ椎に登った。枝の強度は、大人二人を支えるのに十分だ。正面に現れた男を、もう一度天稚彦はまじまじと見た。

「……何者だ?」

「高天原の、元兵士です。……やはり、天稚彦殿でしたか」

 その答えに、ふと思い当たった。輝血カガチと出雲へ向かった兵士の一人が、行方知れずになったと聞いた。

 ――まさか、捕虜にでもなっているのだろうか。

 天稚彦はそう思った。ところが、男が続けた言葉は彼には信じがたいものだった。

「貴方が出雲に害を為すのであれば、俺はここにいるのは間者だと叫びます」

 天稚彦は目を見開いた。

「な、何を……」

「しかし害を為さないのであれば、貴方が高天原の者であることを黙っていましょう」

 持ちかけられた条件に、訳が分からず呆然とする。目の前の男は裏切り者ではないのか。何故自分を庇おうとするのだろう。声も出ない天稚彦に、男は言う。

「高天原に愛想が尽きたのです。意味無き進軍、侵略。天稚彦殿もそうは思われませんか」

 その言葉は、確かに天稚彦の思うところそのままだった。反論をせぬ天稚彦に脈ありと見てか、男は更に言い募った。

「間者を送り込まねばならぬほどとは、天照姫は余程切羽詰まっているのですか。そうではありますまい。依然高天原は豊葦原より多くの兵士と物資を抱えています。それなのに敵地に送り込まれるなど」

 胸の内を見透かされたような男の言葉に、天稚彦は何も言えなかった。暫しの間、椎の枝に沈黙が降りる。どう答えればいいのだろうか。照姫テルヒメ火乃芸ホノギ、そして家族や友人達。彼らを裏切ることなど出来ようか。

「……頼む、内密に」

 どうにかそれだけの言葉を口にすると、男は満足げに笑った。笑いながら、身軽に椎の枝から飛び降りた。そのまま何事もなかったように歩いて行く男の背を眺めながら、天稚彦は全身から力が抜けたような心地がするのを感じていた。

 はっきりとした返事はしていない。誓いも立てていない。男は天稚彦を監視するだろう。ますます身動きがとれない。途方に暮れて、天稚彦は俯いた。何もかもが、彼にとって悪い方向に転がっているとしか思えなかった。


 □ □ □


 一行が高志こしから出雲へつつがなく帰り着いたのは、もう一月ほど経ってからのことだった。そうは言っても海岸線が国境を越えただけで、杵築へ至るには暫くかかる。その頃になって、とうとう八千穂は音を上げた。

「……関で降ろしてくれないか?」

「何かあるのですか?」

 八千穂の突然の言葉に、五十猛イタケルが問う。八千穂はゆっくりと首を左右に振った。

「いや……関には、馬がいるから」

 その一言に、五十猛は小さく笑った。初航海でこれほどの船旅に耐えたとなれば上出来だ。今まで文句一つ言わずに来たことを思えば、確かに地と馬が恋しくなる時期だろう。決まり悪そうな表情を浮かべた八千穂に、微笑みかける。

「構いませんよ。でもここからなら野城のぎの厩の方が近いですから、そちらにしましょうか」

 どうせ船は入海に泊めようと思っていたのだ。経路は同じままで、安来やすぎの浦に行けばよい。五十猛は鋭い口笛を吹いて注意を促し、兵士達にその旨を伝える。そして方向を定めると、力を込めて櫂を漕ぎ始めた。

 出発した当初は船の扱いなど全く知らなかった八千穂も、今では漕ぎ手として加われるようになった。役に立たないのはただ一人、船底で寝息を立てている宿那スクナである。本人は喜んで手を出すのだろうが、周りが止めた。身体が小さいために、端から見ていて危なっかしく、いつ櫂を流すかという状態であったのだ。

 三艘の船は並んで進んでゆき、波穏やかな入海いりうみへ至る。海の色は暗さを増し、大きな流れが顕著になった。それに逆らうようにして船を漕げば、初めに至るのが安来の浦だ。国境にも近く波風の少ないこの場所は船を泊めるには理想的な場所であり、それだけに賑わいを見せていた。

 宿那を揺り起こすと、不機嫌そうに呻く。しかし置いて行くぞ、と八千穂が一言言うと、渋々といった様子で起きあがった。

「地面が波打ってる……」

「……そうだな」

 船旅の余韻のような揺らぎを感じながら、彼らは船から降りた。まだ帰ってきたという気分にはなれない。

「大丈夫ですか?」

 視界が上下する感覚に思わず膝を折った二人に向かって、五十猛が心配そうに聞いた。八千穂がかろうじて頷いた横で、宿那は首を横に振る。五十猛は少し考えた後、では、と口を開いた。

「先に行って、馬の用意をしています。休みをとってからゆっくりおいで下さい」

 道は分かりますか、と問われて、八千穂は再び頷いた。迷惑を掛けるかと思うと気が咎めるが、この状態では足手まとい以外の何ものでもない。分かった、と八千穂が言うと、五十猛は兵士達を引き連れて去っていった。

 二人は腰を下ろし、暫く雑談を続けていた。そうするうちに浮遊感は収まり、宿那は立ち上がって大きく伸びをする。八千穂も櫂を漕ぎ続けて凝り固まった、首から肩にかけてをほぐしながら、行き交う人々を眺めていた。近隣のムラから集まってきたらしい者達は、布や毛皮、また装飾品といった品々を手に取引に専念しているようだ。石の塊に群がっていると見える者達は、瑪瑙を手に入れようとやってきた玉造り達であろうか。

「八千穂」

 袖を引かれ、振り返ると、宿那が奇妙な表情を浮かべていた。

「変なやつが来る」

 宿那はその方向を、目線だけで示した。八千穂も首は動かさず、横目でそちらを見る。雑踏の中から、確かにこちらに向かってくる者がいる。背や膝の曲がった小男だ。

「見覚えは無いが……」

 小さな声で八千穂は呟いた。そうするうちにも、男は二人に近付いてくる。顔の造作すらもはっきりと分かる距離になると、まばらな髪の間からのぞいている尖った耳も見えた。

化生けしょうだ」

 宿那が言うのに、八千穂も頷いた。

 その化生の男は二人の目の前まで来ると、瞳をぎろぎろと動かしてみせた。間違いない。蛙の化生だ。暫しの間、互いに無言で相手を探った。掴んだままだった八千穂の袖を、宿那は強く握りしめた。

 男が、口を開く。

「……大国主?」

 予想したとおりのしゃがれ声だ。八千穂は頷き、肯定の意を示す。男はもう一歩、八千穂に向かって踏み出した。深い皺の刻まれた顔が、八千穂の目前で笑み崩れた。

「主より、言葉を賜ってきた」

「主?」

長江山ながえやまから、来た」

 男の言葉に、八千穂は眉を寄せた。長江山という場所が、暫く思い出せなかったのだ。名のある山ではない。強いて挙げれば、水晶の産地であったか。この安来にも流れている、入海に注ぐ伯太川の水源でもあったはずだ。

 男は歪な歯を剥いて笑った。

「何故、王になったのだ、と」

 八千穂は、その笑みを見つめ返した。まるで、王となったことを責めるような口振りだ。それこそ、どうしてそのようなことを言われるのかが分からない。

「長江山で答えを待つ、と主は言った」

 それだけ言うと、化生の男は不器用に踵を返した。沈黙を守っている八千穂の袖を、宿那が引く。このまま行かせていいのか、という問いだった。引き留めて、何を言えと言うのだろうか。八千穂はそれに応えず、曲がった足でひょこひょこと歩いてゆく小男の背を見送った。

「長江山に、化生を使えるような神がいるのか?」

「……さあ、聞いたことがない」

 主を持つ化生とあらば、神の手により神力を与えられた者であろう。そのような芸当は、並のカミには出来はしない。将か、それ以上の神力を持つ者だ。

「恨まれるようなことでもしたとか」

「どうだかな」

 額を付き合わせてみたところで、主とやらの真意が分かる筈も無い。あれこれと無責任な推測をする宿那に、八千穂は相槌を打つ。そうしながら、二人は厩への道を辿っていた。

 厩では、五十猛らが既に馬の支度を調えて待っていた。十二もの馬を揃えることが可能だったのは、野城の厩があってこそだ。烽と同様に、出雲の要所には厩が設けられている。戦を前提としたものだ。

 馬上での道中、五十猛に先の男の事を告げる。彼も一瞬訝しげな表情を浮かべたが、すぐに何かに思い至ったようだった。

「ああ、それはきっと、久延彦クエヒコのことですね」

 聞き慣れぬ名に、二人は共に首を傾げた。五十猛はその様子に小さく笑う。

「知恵者だという話で、近隣のムラの者が田の作り方や病の治し方を教えてもらっていると聞きます。神力の程は分かりませんが……」

「化生を従えるほどの神なのに?」

 不思議そうに宿那が問う。

「ええ。久延彦、というのもそういった者達がつけたあざなです。本当の名は分かりません」

「怪しいやつだ。八千穂、行かない方がいいんじゃないか?」

「……使者を立てての招待だ。そういう訳にもいくまい」

 背中越しにとどいた言葉に、八千穂は気付かれぬように溜息をついた。宿那を挟むと、話がなかなか進まない。しかし五十猛も慣れたもので、苦笑を浮かべながらも続けた。

「字の由来は二つのようです」

「二つ?」

 興味が湧いたのか、宿那はすぐに話に引き戻された。

「一つはその男が多くの歳を重ねている事。故に“久延”と」

 八千穂が頷く。それは彼も推測していた。

「もう一つはその男が――あしなえであるということ。故に、身体の“え”た者、と」

「年寄りなんて、そんなもんだろ」

「いえ、久延彦は現れた当初から跛であったと聞きます。それがもう、随分も昔の事ですから」

 当時を知る者など、片手の指の数ほどもいないだろう。最早それは伝説だ。出雲において余所者は珍しくない。入海という天然の港を備えた地形条件によるものもあるが、それ以上に高天原の目を逃れる場所であるということがそうさせるのだろう。当初は近寄りもしなかったムラの者たちも、その知恵を知るにつれ長江山を訪れるようになっていった。

「成る程な……」

 八千穂は呟き、頷いた。しかし、久延彦と呼ばれる男が何を思い、八千穂を呼び出したのかは分からない。得体の知れない不安は確かにある。それでも宿那が言うように、彼からの招待を拒否しようとは思わなかった。


 杵築に帰り着いた一行を真っ先に出迎えたのは、須世理だった。息せき切って走ってきたその姿を認め、八千穂は慌てて馬から降りた。裳に足を取られて転びはしないかと思ったのだが、その心配を余所に須世理は躓く素振りも見せず、八千穂の目の前で足を止めた。

 そうして、微笑む。

「お帰りなさい」

 その表情に、声音に、八千穂は思わず息を詰めた。随分と多くのものを忘れていたような感覚を覚える。何も言わぬ八千穂を不思議に思ってか、須世理が小さく首を傾げた。その姿に、八千穂もまた笑みを零す。

「……只今」

 その一言に、須世理は微笑みを深くした。

「八千穂、おれも降りるからどいてくれ」

 降ってきた声に、八千穂は自分の後ろに乗っていた子供のことを思い出し、一歩後ろに引いた。そうして空いた場所に、すとん、と宿那は飛び降りる。

「ああ、疲れた」

 自分は手綱も握っていないくせに、宿那はそう言うと欠伸をした。その場に、軽く笑いが起こる。

「宴の用意が調っています。皆さん、本当にお疲れさまでした」

 須世理が言うと、兵士達が嬉しそうに顔を見合わせた。道中しんがりを務めていた五十猛が、後方から声を掛ける。

「勤めは終わりです。皆、望むところへ」

 その解散宣言に喜び、兵士達は一言二言の挨拶を述べるとあっという間に散っていった。家族の元か、恋人か。ともかく長い間の留守だったのだ、気が逸るのも無理はない。最後に残った兵士は高彦だった。挨拶を述べることが出来ないために、一人あぶれてしまったようだ。八千穂達の視線が集まったのを確認してから、高彦は深く一礼して去っていった。

「そういえば」

 それを見送りながら、須世理がふと呟いた。

「皆さんが留守の間に、面白いことがあったのですよ」

「へえ、どんな?」

 面白い、という言葉に、宿那が飛びつく。須世理はくすくすと笑いながら、踵を返した。

「中でゆっくりお話ししましょう。皆、首を長くして待っていますから」

 馬を門番の兵士に預け、三人は須世理に続いて宴席を目指す。それを目に留めた者達が、次々に彼らに声を掛けていった。一行の身体を気遣う者、己の近況を手短に語る者、様々いたが、誰一人として高志との同盟の破綻を危惧する者はいなかった。

「大国主、こっちだよ!」

 八千穂の姿を目にした水方ミナカタが、大きく手を振っているのが見える。宴席は屋内ではなく、庭に設けられているようだ。祭に備えてあった酒甕がいくつも空けられ、辺りには甘い芳香が漂っていた。その芳しさだけで酔いが回りそうな程の酒気だった。

 兵士も将も分け隔て無く笑いあう席で、八千穂の前には一人の男が引き出された。

「高彦?」

 先程別れたばかりの男の名を呼ぶと、周りからどやどやと笑い声が起こる。いったい何なのかと見つめれば、目の前の男は困ったように眉を下げたまま口を開いた。

「初めまして、大国主」

 その声音に、八千穂は目を見開いた。高彦の声を初めて聞いた。いや、高彦ではない。初めまして、などと言ったのだから。

 暫くの後、八千穂はゆっくりと頷いた。

「……初めまして」

 おお、とどよめきが上がる。

「流石は大国主、平常心でいらっしゃる」

「まったくだ。もっと驚かれるかと思っていたが」

 何やら感心されているらしい周りの様子に、八千穂は眉を寄せた。彼は十二分に驚いていたのだ。目の前の男が何者かということの、見当さえ付いていない。八千穂が見つめると、男は慌てたように頭を下げた。

「稚彦と申します。兵士にしていただきたい所存で、伯耆より参りました」

 そう言って、男はもう一度深々と礼をした。

「伯耆から……では、高彦とは血縁は」

「ございません」

「……面白い事もあったものだな」

 ぽつりとそう言って、八千穂は手にしていた杯を差し出した。稚彦は驚いたようだったが、遠慮がちにその杯を受け取る。杯を手放した八千穂は、ふと微笑んだ。

「出雲のともがらとなってくれるか」

 問いかけとも、確かめともとれる言葉だった。稚彦は、はい、と答え、そして杯を呷った。その返事がほんの僅かに遅れた事に気付いたのは、彼らのやりとりにじっと耳をそばだてていた菩比ただ一人であった。

 宴が続く。夜は更けてゆき、火が灯された。八千穂には休む暇は無かった。酒の入った者達の語りを聞き、歌を聴き、掴み合いを始めた宿那と水方を仲裁し、女童めのわらわが慣れぬ賄いの手伝いで指に負った火傷を治してやった。久しく感じていなかった慌ただしさだったが、それも楽しいものだった。

 一つだけ肝が冷えたのは、須世理に問いつめられた事だ。高志の地に妻を持ったとは本当なのか、と。どうやら宿那が口を滑らせたらしい。八千穂が真っ赤になりながら否定し、五十猛が八千穂の言を保証して、やっと須世理は納得したようだった。

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