第三章其の二 高志
須世理の知識に無かったことを、八千穂は文字通り身を以て知った。
高志は、ひどく寒い。
腕を抱いて蹲ってしまいたいと思いながらも、それが出来ない。高志の長の訪れを待っているという状況のためだ。出雲を発って一月、次第に大気が緩んでゆくはずのこの季節であるのに、高志の風はまだ冷たかった。
「遅い」
剣呑な色を帯びた、小さな呟きが背後から聞こえる。
「寒い」
「……宿那、静かにしていろ」
囁くように窘めると、子供は不機嫌そうに押し黙った。そんなに嫌ならば、高彦達と共に大人しく待っていれば良かったのだ。高志の長の顔を拝んでみたいと、自ら望んで来たというのに。
「少しだけ我慢して下さい。もうすぐでしょうから」
五十猛の、やはり囁くような声だった。
それから、暫くの時間があった。宿那が再び騒ぎ出さないだろうかと二人が不安になり始めたその時分に、やっと彼らの耳に足音が届き、仕切にと下げられた布が揺れた。時を置かず現れた姿に、八千穂は目を見張る。――若い女であったのだ。
「初めまして、大国主」
艶やかな声でそう言いながら、女は微笑んで首を傾けた。きちりと結い上げられた髪に挿された櫛や形の良い耳に、下げられた玉がゆらと鳴る。婉然たる仕草であった。八千穂は慌てて一礼する。
「初めまして……貴女は?」
「私ですか?」
何が楽しいのか、女は笑った。八千穂はどこか居心地の悪い思いに襲われた。それでも不快な気分にまで至らなかったのは、彼女の笑い方には籠められたものなど無かったからだ。女は瞳を瞬くと、思い出したように頭を下げた。
「瓊河姫と申します」
そう名乗った女に、八千穂はふと違和感を覚えた。瓊河姫。名、というよりも、それは号だ。八千穂の視線に気付いたのか、女は再び緩く笑った。
「私、こう見えても高志の長を務めさせていただいております」
「あ、あんたがっ!?」
驚いて叫んだ宿那を諫めることも忘れて、八千穂と五十猛は目を見開いた。高志の長とは老爺ではなかったのか。少なくとも、国交途絶えた時点ではそうだった。
「つい先日、父上からこの国を任されました。私が末の娘ですから。……驚かれましたでしょう?」
軽やかな声音が嬉しそうに続けた。親の権限を継ぐのは末子と相場が決まっているから、確かにこの若さにも説明がつく。しかし、驚いたもなにも、つい先日とはどういうことか。
「お父上に、何か?」
「いえいえ、今朝も早くから釣りに出かけて……出雲の船を初めに見つけたのも父上で」
「はあ……」
どう答えたものかとそっと後ろを窺うと、目が合った五十猛が困ったように眉を寄せてみせた。その当惑を楽しむように、瓊河姫はくるりと瞳を動かす。
「高志とて、出雲や高天原の動きにはずっと注意していましたの」
須佐ノ王が海原へ退き、双方の王が代わった。世界が変動する。なれば高志国とて、今までと同じままではいられなかった。かねてより老いを感じていた先の長は、これを機会にと次なる長を選んだのである。
「けれど、まさか大国主がこのようにお若い方だとは」
その言葉に、八千穂はふと表情を曇らせた。山祇には、若輩者だと拒絶された。目の前の女性もそうなのだろうか。力不足が理由であるなら努力のしようもあるが、年齢だけはどうしようもない。
「……孺子だと、お思いになりますか」
「いえ、そのようなつもりでは。その若さで須佐ノ王がお認めになった方です。余程の才をお持ちだということに、疑う余地などございませんわ」
瓊河姫はそう言って、あでやかな笑みを浮かべる。
「お顔立ちも、私より余程美しくていらっしゃる」
「とっ、とんでもない!」
紅を刷いた唇から零れた言葉を、八千穂は慌てて否定した。血の上った首筋が、熱い。軽やかに紡がれる美辞の真意を測りかねる。けれど、それを知ろうと瓊河姫の瞳を覗き込むのは気が引けた。
「妹背の君はいらっしゃいませんの?」
八千穂の困惑を知りながら、姫はさらに言葉を続ける。今度こそ、八千穂の耳は鬼灯程に赤くなった。思考が停止し、言葉を探すことが出来ない。背後で笑いをかみ殺している宿那や、救いの手を伸ばそうにも伸ばせない五十猛にも気付かなかった。
「長い旅路でお疲れでしょう。今夜はお休み下さい」
未だ二の句が継げない八千穂に向かい、お話は明日、と瓊河姫は嫣然と微笑んだ。
穏やかに燃える熾に手をかざし、宿那は暖かさに目を細めた。瓊河姫の工面した部屋である。あまり広くはない部屋だったが、かえってその方がこの場所を満たす空気を温かく感じさせていた。兵士達は別の部屋に控えているが、先程様子を見に行ってみると、別段不自由なく過ごしているようだった。
「気に入られたなあ、八千穂」
「何がだ?」
くつくつと笑いながら言う宿那に、八千穂は僅かに眉を寄せた。
「驚きましたね、高志の長の意向には」
五十猛は苦笑を浮かべ、瓢をそっと傾けた。土器にとろりと濯がれたのは、出雲の酒だ。酒で酒を醸した八塩折の酒は、常のものより強い芳香と甘味を持つ。五十猛が床に置いた瓢に、宿那が素早く手を伸ばす。それを先回るように瓢を取り上げて、八千穂はもう一度聞いた。
「……何がだ?」
宿那と五十猛が顔を見合わせて笑う。八千穂は訳が分からぬままに腹立たしさを覚え、注いだ酒を一口あおった。喉を焼かれる。その感覚が心地良かった。
「高志は出雲と手を結ぶことを望んでいます」
「しかし、また癇癪や気まぐれで掌を返されたくないと思っている。そこで一番手っ取り早いのはなんだと思う?」
これでも分からないのか、と言わんばかりの二人分の視線を受けて、八千穂は顔をしかめる。その隙を衝いて、宿那が八千穂から瓢を取り上げた。
「結婚、だろ?」
「……は?」
全く予期していなかった言葉に、瓢を取り返そうと伸ばした手が静止する。
「姫もその気のようですし」
追い打ちをかけるような五十猛の言葉に、頭が真っ白になった。そのようなことを言っていただろうかと、先程の会話の記憶を辿ろうとしてみる。けれど思い出せるのは、ただ彼女の耳に揺れていた翡翠の碧だけだった。
「……ちょっと、外に出てくる」
頭の内側が熱くなるのは、酒のためだけではないだろう。土器を置き、八千穂は大きく息を吐いて立ち上がった。どこか頼りない足取りで部屋を出て行く王の背を見送って、宿那はからからと笑う。
「余程縁のない話だったみたいだな」
色恋沙汰には若すぎるという歳ではない。ここまで色事に疎いのは、生まれ育ったムラの民から迫害を受け続けたためだろう。祭りごとから疎外されていれば、若衆宿で暮らす若者に乙女と恋語りをする機会など無いに等しい。
八千穂の置いていった杯を拾い上げ、宿那は残りの酒を嘗めた。五十猛も自分の杯に唇を寄せる。その微笑みが、僅かに曇った。
「……須世理になんと言いましょう」
八千穂に思いを寄せているであろう妹を思う。彼女の気性を知る五十猛としては、まずそのことが気がかりだった。
八千穂は薄情者、と胸の中で呟いた。もちろん自分をこの場所に放り込んだ、宿那や五十猛に対しての言葉だ。思わず奥歯を噛み締める八千穂を、瓊河姫が覗き込む。吐息がかかる程の距離に、真向かって坐しているのであった。
「本当にお綺麗で、羨ましいわ」
「からかわないで下さい……」
「あら、本気ですわ」
そう言って華やかに微笑む瓊河姫から、八千穂は我知らず後退った。姫はそれを見て、傷ついたような表情をしてみせる。
「私が、お嫌い?」
「そ、そんなことは……」
そう言うと、瓊河姫はころりと表情を笑顔に変えた。騙された、と八千穂は思う。女のあしらい方など知らないのだ。どんな言葉を口にすればよいのか見当も付かない。姫をそっと窺ってみた。確かに綺麗な女性だとは思う。けれど結婚ともなれば話が別だ。しかも性急すぎるのではないか。少なくとも、歌を交わすだけの時間が必要だろうに。八千穂とて、それくらいの常識は持ち合わせている。
言いたいことは山ほどあったが、口が上手い方ではない八千穂は結局何も言えずに押し黙った。それを見て、瓊河姫は微笑んだまま、そっと首を傾げる。
「思う方がいらっしゃいますの?」
楽しそうな姫の口振りに、八千穂は呆気にとられた。どうしてそうなるのだろうか。その沈黙をどうとったか、姫は問いの答えを待つように八千穂の目を覗き込んだ。
「い、いえ、そんな」
「ではどうして?」
八千穂には答えが見つからず、困り果てて瓊河姫の顔を見返した。暫く、互いが黙り込んで相手の出方を探るように見つめ合う。ところが姫は小さく吹き出すと、それからくすくすと笑い始めた。
「本当、お可愛らしいのね」
その評価を八千穂が理解するまでのひとしきりの間、瓊河姫は笑った。目尻には涙まで浮かんでいる。侮辱ともとれるその言葉に、八千穂はどう答えればよいのかやはり分からなかった。ところが、姫は袖で涙を拭くと、居住まいを正して八千穂を見つめ、言ったのだった。
「高志は昔と同じように、出雲に協力いたします」
突然の言葉に、八千穂は驚いて瓊河姫を見た。彼女は終始一貫して、底は見えないが裏のない笑顔を浮かべていた。
「大国主を困らせることは、私の本意ではありません。そのお話は、もう少し時が経ってからすることに致しましょう」
待っていますわ、と姫が言う。その言葉が、事実上の同盟成立であった。
「……ありがとうございます、瓊河姫」
まだ釈然としないながら、八千穂は言う。瓊河姫はにこにこと頷いて見せた。その瞳は、しかし真剣なものである。それに気付いてはいたのだが、やはり八千穂には約束することは出来なかった。
□ □ □
一行が高志に辿り着いている頃、天稚彦は出雲の地を踏んだ。伯耆より国境を越えて出雲へ至る道は、照姫より教えられた。関の目をかいくぐる道である。そこまで把握していながら高天原が総攻撃をためらうのは、出雲の各所に設けられた烽の存在に依るところが大きかった。常に兵士が置かれた烽は、異変あらば狼煙を上げて杵築まで確実にそれを伝える。加えて、鋼。出雲勢の持つ剣や鉾は質が高く、打ち合えば刃こぼれをするのは間違いなく高天原の剣である。
――何故、豊葦原を求めるのだろう。
凛とした瞳を持つ、天照姫を思う。高天原を統制する女王。形の上では位を譲ったが、高天原の全ては依然彼女の思うままに動いていた。
――何が不満なのだろう。
高天原の秩序に綻びは無く、全てが理想的に機能している。確実な収穫と整備された法。そこは完結した世界だった。
小山の向こうにちらりと見えた社から隠れるように、天稚彦は草の上に座り込む。腰に下げた竹筒から、沢から汲んだ水を一口飲んだ。春の陽気に、あちこちで野草が花開いている。遠い山々には霧がかかり、空の薄雲に続いていた。のどかで美しい光景だ。高天原にも劣らない。
瞳を閉じて仰向けに寝転がると、雲を通した柔らかな日差しが瞼を染めた。
暫くの後、寝息を立て始めた天稚彦の頭上では、烏が一羽、ゆっくりと旋回していた。やがて羽音を抑えるようにして地に降りた烏は、とことこと天稚彦に歩み寄り、顔を覗き込む。じっとその顔を見つめていたかと思うと、烏は再び空に舞い上がり、それから杵築に向けて一直線に飛んでいった。
無論、事代の成せる技である。彼はここ暫く、習練のために毎日烏を飛ばしていたのだ。彼が天稚彦を見つけたのは偶然のことであった。けれど、普段人影を見つけることはさほど珍しいことではないし、事代はその度に足――いや、翼を止める程、暇ではない。
一人の兵士が、小山の向こうから息せき切って駆けてくる。事代は、天稚彦が高天原の者であると気付いていたのだろうか。けれど兵士はたった一人、武具を手にしているわけでもない。
華奢な手が、天稚彦の頬に触れた。途端目を見開き、彼はその手を掴む。高い悲鳴が上がった。天稚彦は呆然と、自分を覗き込んでいる女を見上げた。角髪を結い、男形をしている。加えて紅もさしていない。ひどく驚いた顔をしている。天稚彦ははっとして掴んでいた手を放した。けれど彼女の驚きは、別のところにあったようだった。
「高彦、どうしてこんなところに?」
問いかけられた言葉に、天稚彦はいっそう訳が分からない。タカヒコ、とは誰のことなのか。女が天稚彦の顔を覗き込む。そこで初めて、彼は誰かと間違えられていることに気付いた。
どうすればよいのだろう。タカヒコとやらに成り済ますには、相手の情報を知らなすぎる。それは得策ではないだろう。
「いや、私は」
とりあえずは誤解を解こうと、天稚彦は口を開く。ところが女は硬直すると、途端に天稚彦から身を引いた。
「……た、高彦じゃない」
幽鬼でも見たような顔をしている。けれど逃げもせずまじまじと天稚彦の顔を見つめているところを見ると、余程そのタカヒコとやらに似ているらしい。天稚彦は身を起こして彼女を見た。
「そんなに似ていますか?」
「はい……あの、本当に見分けがつかなくて」
顔を真っ赤にして女が言う。
「高彦は……ええと、兄なのですけど、唖なのです。喋っていただけなかったら、分かりませんでした」
しどろもどろに弁解する様子が微笑ましく、天稚彦は小さく笑った。女はいっそう恥ずかしそうに俯く。頬が赤らんでいるのがよく分かった。些か細いが、美人の内に入るだろうに。何故彼女は、男形などしているのだろうか。
「つかぬ事をお伺いしますが、その格好は?」
純粋な好奇心から、天稚彦は女に問う。女は真っ赤になった頬に両手を当てて、天稚彦を見上げた。
「私は、豊葦原の兵ですから……貴方は?」
混乱がようやく落ち着き始めたらしく、彼女の瞳はしっかりしていた。野原で一人寝ていた天稚彦を不審に思う余裕も出てきたようだ。射抜くような視線の強さに、天稚彦は照姫を思い出した。
「あ……稚彦、と申します。伯耆に住んでいたのですが、一月ばかり前に高天原の奴等の襲撃に遭い……出雲に来れば兵士になれるかと思いまして」
予め用意しておいた台詞を口にすると、彼女の視線が和らぐ。出雲のムラを襲った輝血らの、帰路に合わせた嘘だった。
「そうだったのですか……分かりました。稚彦、さん?」
微笑んで、彼女は立ち上がった。そう珍しいことではないのだろう。疑念は殆ど消えたようだった。名を呼ばれた稚彦は、不思議に思ってその顔を見上げた。彼女の笑みが深くなる。
「名前も似てるんですね」
それだけ言うと、女は踵を返した。腕を掴む暇もなく足早に去って行くその背中は、掌と同じように華奢に見えた。