第三章其の一 変動
「高志へ向かいましょう」
五十猛がそう言ったのは、宇夜への襲撃から暫くが経った日の朝だった。いつもの通りに、八千穂は水臣を相手に剣の稽古をしていたところだ。
「高志……?」
当惑したように八千穂が反復した。その地の名を知らなかったわけではない。ただ、噂に聞くその国は、遙か地の果てと同意語であったのだ。ともかくにも話を聞こうと、八千穂は剣を鞘に収めた。
「五十猛、お前」
「借りますね」
何事か言いかけた水臣の手から、五十猛は大刀をするりと奪う。そして切っ先を地面につけると、おもむろに線を描き始めた。初めは豆の莢のような弓形の図、そしてそれに添うような二つの大きな丸、最後にいくつか点を描き加えて、五十猛は八千穂に向き直った。
「これが、大八洲と豊葦原が共有する国の形です」
「これが?」
「はい。そして出雲はここに……木ノ国はここになるのですが」
そう言いながら、五十猛は二つの場所を円で囲った。出雲は弓形の反りの一部分、木ノ国はその反対側の張り出した一部分である。
「高天原から豊葦原へやってくるためには、“門”を抜ける必要がありますが……豊葦原の土の上で、その門が開かない場所は出雲の地のみ」
五十猛の言葉に、八千穂は頷いた。今まで幾度か聞いた理屈だ。
「出雲の北は海、南は山脈。よって高天原の軍は、西か東から攻めてくることになります。その時西から攻めてこられた場合には、後ろには山祇殿の率いる筑紫がある。けれど東から攻めてこられた場合には、助力の期待できる勢力は今のところ無いのです」
剣先の示す空白を、八千穂は見つめた。弓の一方の筈を出雲とすれば、もう一方の筈となる場所だ。五十猛がその場所を円で囲む。
「ここが、高志国です。海路を使い片道一月――しかし得られるものは大きいでしょう」
いつになく真剣な五十猛の表情に、八千穂が否と言えるはずもなかった。
海から吹き付ける風は冷たく、潮の香りはさほど強くなかった。波は絶え間なく岩盤に叩きつけられて白い飛沫を上げている。けれども波の音はどこか軽く、それだけが海に訪れた春を示していた。逆を言えば船出の耐えうる波こそが、出雲の海にとっての春なのだ。
「どうした八千穂、怖いのか」
「……そうだな」
否定無く頷いた八千穂を見て、宿那は驚いたような顔をする。八千穂はそれに苦笑してみせ、再び眼下の海を見つめた。
波の音は軽い。しかしそれを手放しで喜べるほど、八千穂は海に馴染んではいないのだ。浅瀬の魚を捕るくらいのことは出来たが、船を出すとなると話は別だ。しかも単に沖へ向かう訳ではなく、長い距離を船で行くなど。
数日前のやりとりを思い出し、八千穂は大きく息を吐いた。長く疎遠であった高志の勢力に同盟を願い出るには、新王である八千穂自らが出向く以上の策は無い。それは理解しているのだが、実際に海を見ていると不安を感じずにはいられないのだ。
――そもそも疎遠になった理由というのが、須佐ノ王の癇癪とは。
曰く、彼の見た鬼、蛇の化生の成れの果ては、高志国で神力を得たものなのだそうだ。誰かに神力を与えられたわけでもない、自力で変じた化生であったのだが、須佐ノ王にしてみれば、里を襲われた怒りは忘れがたく、その矛先は高志へと向けられたのだとか。もちろん時の高志の長には、言い掛かりであるとしか思えなかった。そして結局、それを境に交流は殆ど無いという。
「難儀なことだな……」
年寄り臭い八千穂の呟きに、宿那は笑った。
「五十猛殿が一緒に行くんだ。そう危険な旅路じゃないだろ」
風神と共に船旅をするほど心強いことは他にない。まして、彼は佐伎国への渡航経験さえ持っている。それを思えば、海岸線を見落とさぬようにして進むだけの今回の旅は安全といえる部類だろう。用意された船は三隻。出雲を留守にするわけにはいかないので、高志へ向かうのは八千穂と五十猛、それに宿那、他、腕の立つ兵士が九人である。その中には高彦もいる。僅かな人数であったが、高天原は海へは門を開けないことを考えれば十分な人数だ。
それでも、揺れ動く水面を見ていると気分が沈む。こんなところで地神としての自覚をするとは思わなかった。
「再び出雲の地を踏むのは、夏の初めか」
陰鬱な言葉の響きに、宿那は笑うのも忘れて八千穂の横顔を窺った。潮の飛沫を受けたために、海に慣れぬ目はうっすらと赤くなってしまっている。
「船の用意が出来ましたよ」
五十猛が、普段よりいくらか大きな声で言ったのが聞こえた。その横では、高彦が大きく手を振っている。八千穂は立ち上がり、伸びをした。
「……須世理姫にはちゃんと挨拶してきたか?」
「当たり前だ」
からかう調子を帯びた宿那の言葉に、八千穂は気付く様子もなくそう答えた。
□ □ □
巨大な鏡の前に足を崩して座っているのは、長い時を経た女だ。しかし、まっすぐに伸ばされた背筋、凛とした瞳は、決して老いてはいなかった。
「宇夜へ向かわせた一団が逃げ帰って参りました」
その張りのある声には、媚びた色は一切無い。
「兵士の一人は死に、一人は行方が知れません」
『……そうか』
女の他に誰もいない部屋の中に、掠れた声が響いた。見れば、鏡には女の姿は映っていない。靄のようにはっきりとしない人影の、唇にあたる箇所だけが僅かに動いていた。
「豊葦原には、我らの知らぬ切り札があるのでしょうか」
それは問いかけというよりも確認の言葉であった。人影の首が、震える程度に動く。肯定の意だろう。
『かの王は、少数の手勢を連れて高志へ向かった』
「同盟ですか……厄介ですね」
出雲の足は船だろう。高志に門を開くとしても、高天原の軍勢がそこに至るまでは陸路となる。門は異界同士を繋ぐことは出来ても、距離を縮められはしないのだ。
『しかし、好機でもある』
抑揚無く、掠れ声は言う。女は頷いた。
高志と出雲が手を組むのは、王の代替わりに続き予想出来たことだった。高志を高天原に屈服させることを考えないわけではなかったが、容易くそれが出来るほど規模の小さな勢力ではなかった。下手に手を出せばかえって藪をつついて蛇を出す結果になりかねないと、事態を静観していたのであった。
女は――天照姫はこう考えていた。高志と手を結ぼうと思えば、出雲は今までの非礼を詫びる形もあり、王自らが出向くこととなるだろう。もちろん一人のわけはなく、気心の知れた手勢を連れて行くはずだ。
それが、好機である。
白い砂利の敷き詰められた庭に、二人の若者が畏まっていた。そうは言っても、片方の若者はしきりに辺りを気にした様子で、落ち着きが無い。
「火乃芸」
それを諫めるように、もう一人の若者が名を呼んだ。呼ばれた方は、返事は返さずに戯けたような表情を作る。その様子に、思わず溜息が漏れた。それを耳に留めたのか、火乃芸は取り繕うように笑った。
「だって、どんなお役目か気になるじゃないか。天稚彦だってそうだろ?」
子供じみた口調に、苛立つ。戦場に立ったことのない甘ったれだから言える台詞だ。奔放で身勝手な又従兄弟を、天稚彦は睨め付けた。照姫のお気に入りの孫という立場が彼をそのように育ててしまったのだろう、とは、高天原の者達に共通の考えであった。
火乃芸はその視線を受け流すと、再びそわそわとし始める。天稚彦はもう、それを気にすることは諦めた。
居住まいを正し、宮の正面扉を見つめる。苛立つのは、なにも火乃芸の挙動によるものだけではない、と天稚彦は思った。嫌な予感がする。いったい何のために、照姫は二人を召したのだろう。
扉が、動いた。天稚彦は地に手をつき、頭を下げる。だが火乃芸はといえば、嬉しそうに立ち上がった。
「お祖母様」
ゆっくりと開かれた扉から、白い衣を纏った足が踏み出された。半ば透けた領巾が足先で踊るように揺れている。帯を締めているのは巫女の証だ。結い上げられた髪は艶やいだ金色をしていて、頬に幾筋か零れている。
「二人とも、よく来ましたね」
毅然とした瞳が、火乃芸を認めて微笑みを作る。天稚彦はそろそろと頭を上げた。火乃芸は照姫の表情に満足したのか、再び天稚彦の横に腰を下ろす。その二人を見下ろして、照姫は目を細めた。
「あなた方に果たしてもらいたい役目は、他でもありません」
いきなり本題だ。天稚彦は身を固くした。火乃芸も呼び出されている以上、それほどの危険は無いと考えられる。そう自分に言い聞かせて、胸にこみ上げる不安を無視しようとしていた。
照姫が続ける。
「火乃芸には筑紫へ、天稚彦には出雲へ、間者として降りてもらいます」
けれどその唇が紡いだ言葉は、その予感を裏切らないものであった。
――それは、恐ろしく危険ではないか。
震える声で返事を返しながら、天稚彦は思った。筑紫はまだいい。高天原の目が届く場所だ。予め危険を知ることも出来る。しかし、出雲は。
はしゃいだ様子の火乃芸を横目で見ながら、天稚彦は唾を飲み込んだ。
「門を開くには、鳥船を連れてお行きなさい。まずは天稚彦を出雲の手前の国境まで送り、それから火乃芸と鳥船で筑紫へ向かうように。天稚彦には追って遣いを送ります」
更に続けられる言葉に、天稚彦は呆然とする。門を開く神力を持つ者は多くない。その中でもとりわけ力の強い、鳥船を同行させるとは。いや、それはいい。問題は、照姫の口振りからすると、天稚彦は自ら望もうと高天原に帰ることは出来ないということだ。
何か怒りを買うようなことをしたのだろうか。恐々として、天稚彦は照姫を窺った。しかし、彼女は暖かな視線を、火乃芸に向けているだけであった。
□ □ □
花をつけるにはまだ早い、柔らかな烏野豌豆の草むらに腰掛け、須世理は唇を引き結んでいた。女に船旅をさせられるかと、願いを一蹴されたことが腹立たしかった。いや、本当にそう言ってくれたのであれば癇癪の起こしようもあったのだ。
頬をくすぐる風と共に、溜息を一つ吐く。五十猛は、根気よく優しく、留守を守っていてくれと教え諭してきた。八千穂はとても困ったような顔をしていた。それ以上我が儘など言えるはずもなく、須世理はこうして鬱いでいる。
久方ぶりの地上の春は、彼らが帰ってくる頃にはとうに終わってしまっているだろう。それが何とも悔しく思えた。
「スセリ、さみしい?」
その言葉と共に、突然顔を覗き込まれる。秋鹿だ。内心ひどく驚いたが、須世理はにこりと笑ってみせた。
「ええ……寂しいです」
取り繕うところのないその言葉が、確かに胸の内の全てだった。秋鹿はそれ以上何も言わず、須世理の横に腰を下ろす。そして春先に伸び始めた草を、手遊びに千切り始めた。子供のような秋鹿の仕草に、須世理は目を細めた。
女に船旅が出来ないなどとは言わせない。秋鹿がいい例だ。海を隔てた佐伎国、そこからこの地にやってきたという。いつか聞いた事情を思い出しながら、須世理はしなやかな蔓草をそっと摘んだ。
飢饉があったのだ、という。凶作に加え、佐伎国の王の強いる重税に、民は喘いでいた。その話を聞いたとき、須世理はひどく驚いた。民が生きることが出来ぬほど作物を奪い取るなど、一国の王にあるまじき愚かな振る舞いである。民とて黙っていないはずだ。しかし、秋鹿は首を横に振った。強き者には逆らえない。
そんな折であった。口減らしにうち捨てられた弟妹のことを思いながら、秋鹿は海を臨む巨岩に腰を下ろしていた。その水平線に、舟影が見えた。秋鹿はぼんやりと座り込んだまま、動かなかった。やがて彼女の元に現れた水臣は、事情を聞くと秋鹿に問うた。
我らと共に、豊葦原に来るか、と。
片言の秋鹿の時間をかけた語りから、聞き取れたのはこれだけだった。
――何故、高天原は豊葦原を欲しがるのだろう。飢えているわけでも無かろうに。
放っておいてくれればいいのだ。豊葦原の者達は、高天原を攻めようなどとは微塵も思っていない。平和な日々を送れさえすれば、他に多くは望まない。
――守りの戦は、強い。
兵士の数だけで見れば、総数は遙かに敵うまい。けれど、守りに徹した豊葦原を容易に打破することが出来ないということは、永きにわたる戦で高天原も思い知ったことだろう。
それなのに、何故、戦おうとするのか。
須世理は、もてあそんでいた蔓草を掌から払い落とす。傍らの秋鹿は草地に寝そべり、とても眠たげに瞬いていた。
高志国。東の地。唯一、翡翠を孕んだ大地。それだけしか知らぬ自分に内心呆れながら、須世理は首を巡らせた。青く霞む山々の向こう側に、その国はある。