第二章其の六 裏切
血の臭い、煙の臭い、そして血を吸った大地の金切り声。宇夜の地は、惨憺たる有様であった。八千穂は唇を噛み締める。間に合わなかった。高天原の兵士の姿は既に無く、ムラには死者と怪我人が溢れていた。
誰もが遣り場のない怒りを燻らせていた。宇夜の民がいったい何をしたというのか。言うなれば彼らは弱者である。武具を持たぬ彼らに勝利を収めて、何が得られたというのか。
「……息がある者を集めてくれ」
呟くような八千穂の言葉に、それを耳にとめた幾人かの兵士達が怪訝な顔をする。それ以上を言わず、八千穂は馬から下りた。次いで、彼の後ろに座っていた宿那」が飛び降りる。
「手伝うよ」
「ああ」
短く答えて、八千穂は早足で倒れている人影へと駆け寄った。年配の女性だ。打ち所が悪かったのか意識は無く、かろうじて胸が上下している。左腕から流れた血が小さな血溜まりを作っていた。
枯れ木のような身体を抱き起こし、八千穂は傷の上に手をかざした。念じると、じわりと熱いものが掌に感じられる。治癒の術だ。武術の習練で傷を負った自分自身を練習代に、神力の制御は格段に上手くなっている。抉れたような傷跡は、時を一足飛びにしたように癒えていった。宿那は別の人影に添っている。兵士達はその様子に改めて先程の言葉の意を知り、慌てて駆けだした。
女は息を吹き返した。次々と運ばれてくる怪我人の多くは、安堵の心から噎び泣いた。八千穂は死者にも触れた。しかし秩序を覚えた神力は、彼らを黄泉帰らせることは出来なかった。
「高天原の者の姿は見えません。戦死者が出たとしたら、それも連れ帰ったようですね」
五十猛の言葉に八千穂は頷き、彼が抱えていた子供の身体を受け取った。口の端から一筋伝う他に、出血は見えない。傷は臓腑にあるのだ。
――それが分かったところで、対処の仕方は変わらないが。
医薬に関しては、八千穂にはそれなりの自負があった。母亡き後、ムラに彼の居場所があったとすれば、その知識によるものであった。何よりも生き延びるために、八千穂は種々の薬草と病、解熱から骨接ぎに至るまでの全ての治療法を幾人もの年寄りから貪るように学んだのだ。しかしそうやって得たものも、治癒の神力を持った今となっては無用であるように思えて、八千穂は苦い寂しさを感じた。
そうするうちに、子供はぴくりと頬を動かした。もう安心だ。八千穂は子供の身体を再び五十猛に渡そうと、軽い身体を持ち上げた。
けれど、俄に子供は身を捩った。均衡を崩して地を転がった子供は、しかし泣くでもなく身を起こす。向けられた眼差しに、八千穂はふと既視感を覚えた。獣めいた獰猛な瞳だ。何か一声掛けてやるべきかとも思ったが、特別思いつく台詞も無い。困惑する八千穂の目の前に、突如一人の老人が現れた。
「水方、このうつけ坊主が。礼の一つも言ったらどうだ」
そう言って、老人は子供の頭に拳骨を落とした。面食らったのは、八千穂も子供も同じである。水方と呼ばれた子供は掌で頭を押さえた。
「痛っ! な、なんだよジサマ!」
「目上に対してなんちゅう口の利き方だ。ほれ、見ろ。その方は新しい豊葦原の王様で、大国主とおっしゃる。ムラのもんの怪我も治してもらっとるんだぞ」
そう言いながら、老人はもう一度水方の頭をはたいた。彼はまた悲鳴を上げたが、再び顔を上げたときにはその瞳から敵意は完全に消えていた。
「新しい王様? 怪我を治せるの?」
驚きと尊敬の入り交じった視線に、気恥ずかしさを感じながら八千穂は頷いた。水方は確かめるように自分の腹をさわさわと撫でていたが、突然はっとしたように顔を上げて身を翻し、走っていった。親類や友人の身を案じてのことだろう。
老人はぶつぶつと口の中で呟きながら、既に回復したムラの者達の輪に加わった。
「山手のもんはみんな殺されとる」
「井ノ端もなあ、息子二人亡くしてあっちで半狂乱になっとった」
耳に届く会話は既に憤りを通り越してしまっている。八千穂は眉を寄せた。兵士達の報告によれば、事切れている者は三十人に上るという。高天原の兵士に立ち向かったらしい若者や、子を庇った母が多かった。汝兄汝妹と呼び交わした相手を失った若い娘達の啜り泣き、母親に縋る幼い子供の嗚咽が聞こえていた。
「大国主」
呼ばれ、八千穂は振り返った。息せき切って駆けてくる兵士は高姫である。背に人影を負っていた。
「烏を飛ばした者を見つけました。生きています」
ムラの危機を伝えた者との交信が途絶えたのは、宇夜へ向かう中途でのことだった。よもや高天原の手に掛けられたかと誰もが諦めていたのだが、英雄は無事であったらしい。
「――王」
高姫が背から降ろした少年は呟いた。大きな怪我は無い。年の頃のさほど変わらぬ少年は、ひどく疲れた様子で八千穂を見上げてきた。
「……ありがとう」
口を衝いた謝礼の言葉は、高姫と少年の両方に向けたものだった。少年の、力の入らぬ手首を手に取る。暫く念じてみたのだが、消費された神力や疲労は八千穂の手には余るものだった。せめて鋭い草で切ったのだろう手足の傷を癒そうと掌をかざす。その八千穂の耳に、高姫がそっと口を寄せた。
「その少年と同じ場所に、高天原の兵士が倒れていました。傷を負い、危険な状態です。あちらの家の影に、高彦が連れて参りました」
指示を求めるその台詞に、八千穂は頷いて少年の身体を高姫に預けた。辺りを見回すと、怪我人はもう残り少ない。
「すまない、宿那にこの場を任せる」
耳聡く、若干離れた場所で治療にあたっていた宿那が顔を上げた。兎が抜けきっていないのではないかと八千穂は思う。頼む、と声を掛けると、不遜な笑みが帰ってきた。
膝をはたいて立ち上がり、示された方向に進む。ムラの者の視線を避けた場所に、果たして男は横たわっていた。傍らの高彦が、男の鎧甲の紐を解いている。衣服は乾いた血で所々褐色になっていた。
「息はあるんだな?」
確認の言葉に、高彦が頷く。八千穂は膝をついて、男の傷を検分した。矢傷である。傷はもう血を流していなかったが、既に多くが失われているようだった。痩けた頬は青ざめている。
出血が止まっていることを考慮して、八千穂は直接傷に触れた。この方が治りが早いのだ。まるで指先から血液が溢れ、男の身体に流れてゆくような感覚を覚える。傷口そのものも消えてゆき、後には新しい皮膚がひきつれることなく張り付いた。
男は呻き声を上げる。高彦が身構えた。
「気が付いたか?」
声を掛けると、男はゆっくりと目を瞬いた。けれど瞼はすぐに閉じてしまい、胸からは喘鳴の交じった息が細く吐き出された。
「まだ暫くは動けないだろうが、我慢しておいてくれ」
流石にすぐさま動けるようになるまで回復させてしまうのは得策でない気がして、八千穂はぎりぎりのところで治癒の手を止めたのだ。大刀や刀子の類は高彦が既に取り上げている。ムラに危険は及ぶまい。
敵である。このムラの現状を生み出した者かと思うと、確かに怒りがこみ上げる。しかし事情を知っているやもしれない高天原の兵士を、見殺しにするわけにはいかなかった。
――いや、違う。
誰にともなく、八千穂は胸中で呟いた。
――結局のところ、僕は人死にが嫌いな臆病者だ。
八千穂は押し黙る。三人の間に沈黙が立ちこめた。高彦は言葉を持たないが故に、男は不安を抱えているが故に口を開かない。けれどその沈黙は長くは続かなかった。時を移さず、子供特有の高い声が響いたのである。
「兄ちゃん!」
涙混じりの声に、八千穂は顔を上げた。家の影から身を乗り出すようにして辺りを窺うと、先刻まで自分のいた場所、烏を飛ばした少年の元に、一人の子供が駆け寄っていた。八千穂の目の前で老人に殴られていた子供である。
「母ちゃんが……兄ちゃん、母ちゃんが……」
「……水方」
先程は気付かなかったが、並んだ面立ちは似通っている。兄弟だったのか、と八千穂は思い至った。少年は泣きじゃくる弟へ手を伸べようとして、思うように動かぬ身体に苛立ちを感じているようだ。
「俺、あいつら二人もやっつけたんだ。ムラ長ん家の柱引っこ抜いて、やっつけたんだ」
全ては母を切り伏せられた怒りからだった。その報復がしたくて、水方は兄の手を振り解いたのである。水方が確かめたとき僅かに残っていたはずの息は、彼が再び確かめに走ったこの時、完全に消えていた。
高姫に助け起こされて、少年は弟の頭に手を載せた。小刻みに震える手で、頭を撫でてやる。水方は、一際大きな声で泣いた。
日が没する間際に、豊葦原の一団は杵築へと帰り着いた。杵築の誰もが戦闘を免れたことを喜んだが、兵士達の語るムラの様子には哀惜の念を露わにした。そしてその同情は、兵団に同行し杵築にやってきた、件の兄弟に向けられたのである。
烏を飛ばした少年は事代と名乗った。彼ら兄弟を杵築で引き取ろうと言い出したのは、水臣であった。目の当たりにした事代の神力と、どこで噂に聞いたのか水方の同じ武神としての才に興味を覚えたらしい。母親を亡くした彼らに将来的に豊葦原の兵士とならないかと持ちかけたのだ。水方も気丈なもので、それなら今から行くと言い出して聞かず、事代もそれに引きずられる形となった。
彼らを取り巻く喧騒を逃れるようにして、杵築に入った者もいた。未だ身体の自由のきかぬ高天原の兵士である。見つかれば私闘は免れまい。八千穂は信頼の置ける者数人に命じ、兵士を一室へと運び込ませた。
「誰も殺していないと、言っていました」
事代が高姫に告げた一言も、既に八千穂の耳に入っていた。
壁に背を預けた兵士に真向かうように八千穂が坐し、それを取り囲むようにして幾人かの将が座っていた。宿那など、将でもないのに訳知り顔でその場にいる。
「辛ければ言ってくれ」
そうすればもう一度治療をしようと八千穂は申し出たが、兵士は首を横に振った。言葉がないことに、八千穂の表情に不安の色が浮かぶ。それを見てとり、兵士は苦笑のような声を漏らした。
「……平気です。喋れます」
疲れてはいるようだが、言葉ははっきりとしていた。将達が顔を見合わせて頷く。八千穂は一呼吸の間を置き、尋問を始めた。
「名は?」
「菩比と申します」
迷い無く名を明かしたことに、場がさざめいた。偽名ではないのかという疑いの表れである。しかし菩比と名乗った男はその意を察し、更に続けた。
「……高産巣日神に誓いましょう」
造化三神、だ。豊葦原の母と称される神産巣日神に対して、高天原の父と呼ばれる神である。いま一人、天御中主を加えた三神が、天地開闢を行ったと言われているのだ。誓いの言葉は真実である。八千穂はゆっくりと頷いた。
「何故、宇夜を襲った」
「命じられたからです」
言外に皮肉が込められた物言いだった。八千穂は困ったように眉を寄せる。目の前の男は、それでは高天原に心から従っているわけではないのだろうか。
「誰に?」
「宇受女様です。しかし彼女は先王の天照姫から命じられたのだろうし、その照姫は鏡と秘密の相談事をしていらっしゃる」
「高天原も新たな王を立てたのですか」
驚いたように五十猛が言うのに、菩比はこくりと頷いた。
「豊葦原の事情もこちらの耳には入っておりました。新王から新王への、宣戦布告といったところでしょう。老いた王の間の膠着を、溶かしてしまおうというわけですね」
感慨も無く、菩比は語る。将達は囁きあうことも忘れて唖然としていた。目の前の兵士は、平然と高天原を裏切っているのだ。
「あれはどうも、面倒な儀式ごとは宇受女様に任せて、自分は豊葦原を落とす策を心置きなく練ろうという魂胆でしょう。宇受女様は天照姫の手の内で踊るだけの王ですよ。実際には何も変わってはおりません」
憚る様子も無くそう締めくくった菩比は、八千穂を見つめ返した。一瞬、誰もが口を開くのを忘れる。その静寂を破ったのは、高い子供の笑い声だった。
「宿那」
「面白いな、お前。そんなに高天原が嫌いか」
八千穂に窘めるように名を呼ばれたところで聞かず、宿那は笑いながら言った。菩比は気を悪くした様子もなく、口の端を持ち上げる。
「意味もないのに戦いにかり出されるのが嫌いなんだ」
「それで豊葦原に媚を売ろうってのか」
「媚とはなんだ。俺は助けて貰ったことに、心底感謝してるんだぞ」
双方楽しそうな言い合いが続く。二、三人の将が、堪えきれず吹き出した。その中には水臣もいる。
「杵築に居座るつもりなのか」
「受けた恩は返さないとな」
「兵士でもない輩から矢傷を負うような間抜けは願い下げだ」
「戦いたくなかったから、死んだふりしてやりすごしたんだ」
「余計役に立たない」
「しかし高天原がどう兵士を動かすか知ってるぞ。役に立つだろう」
どうだ、と言わんばかりの顔をして菩比は言い切った。宿那は笑い転げている。空気は一転して明るくなっていた。八千穂も我知らず笑みを零す。口調は乱暴だが、互いがそれを楽しんでいるようだった。
「という訳なのですが、俺も豊葦原の一員として迎えてもらえないでしょうか。人様の土地に手を出すなど、高天原のやり方には呆れ果てました」
「調子がいいな。こちらも裏切るつもりではないのか」
水臣が笑いながら、それでも鋭い視線で問う。しかし菩比は表情を崩さず、首を左右に振った。
「もとより身寄りのない身。今までも隙あらば兵士など辞めようと思っていたのですが、頭が良く回る俺を高天原は放してくれなくて」
冗談めかした台詞であった。言い逃れようとしているとも見える振る舞いに、一瞬将達の目が厳しくなる。しかし、それはいらぬ心配であったらしい。
「誓いますよ。神産巣日神の名に」
さりげなく付け加えられた一言に、場は再び静まり、今度は全ての者の笑い声が響いた。初めは高天原の父神に誓った者が、今度は豊葦原の母神の名を呼んだのだ。何という変わり身の早さ、剛胆か。
「……これから、よろしく頼む」
八千穂が微笑む。その言葉に苦い顔をする者は、場に一人としていなかった。
薄曇りの空に透けた月を、事代はぼんやりと見上げていた。随分と長い一日だった、と思う。昨晩家族で火を囲んだのが、何年も前のことのように感じた。
母は死んだ。叔父の一人も死んだ。祖母は泣いていた。父の家でも従兄弟が死んだ。幼い時分からよく遊んでもらった覚えのある、面倒見の良い若者だった。
宇夜のムラに置いてきた全てが、遠い過去のように思えた。
事代と水方が杵築へ行くと言ったとき、ムラの誰も引き留めようとはしなかった。助けを呼んだ事代を皆口々に褒めながら、何故もう少し早く出来なかった、と彼らの目は言っていた。――今の事代には、そう思えた。
他の生物の身体を借りることが出来る事代と、早くから武神の才を見せた水方は、ムラでも一目置かれる存在だった。その傲りが間違っていたのかもしれない。宇夜から杵築までを慣れぬ烏を御して進むことは、ひどく難しいことだった。日々その力を磨いていれば、もしかするとムラの惨状は免れたかもしれないのだ。
事代が見上げる先で、月はゆっくりと一際厚い雲に覆われてゆく。
水方はもう眠っている。瞼の裏の暗闇に嗚咽が止まらず、寝付けなかったことが嘘のようだ。煎じ薬が効いたのだろう。夢も見ていない様子だった。手ずから椀を持ってきた、一度も泣き腫らしたことがないような目の少年を思い出す。大国主と呼ばれ、彼は何を思うのだろう。
――あの薬、僕も貰えるだろうか。
王が作った薬だと、白髪の子供が言っていた。
第二章 了