第二章其の四 美保
山祇が砦より姿を消したのは、“争”から三日の後、日も昇らぬ早朝のことだった。門を守っていた兵士が、急ぎ足で去ってゆく筑紫の一団を朝靄の中に見たのである。馬に乗った者は多くはなかったが、屈強な兵士達のこと、並足に遅れてはいなかった。見張り兵は慌てて後を追おうとしたが、それよりも事態を報告する方が無難だと考え、踵を返した。
別の門で見張りをしている兵士か、それとも重大なことであるだけに将に報告すればよいのか。とにかくにも兵舎へ急ぐ彼の目に、ふと人影が映った。兵舎と王の寝殿を繋ぐ、砂利を敷いた道。そこに幽鬼のように佇んでいたのは、黒髪を背に流した少年だった。
「……お、大国主!?」
山祇を打ち負かしたその人である。兵士は仰天し、思わず叫んだ。大きな声ではなかったが、早朝の空気にやたらと響いた。
八千穂はその声に、驚いたように振り返った。何やら胸が騒いで目覚めたのは、朝焼けがようやく見えた頃のこと。誰もいるはずがないと思っていたのだ。軽く会釈をすると、その兵士は弾かれたように直立し、深々と一礼する。随分慣れたとはいえ、やはりそういった態度をとられるのには閉口した。
特に何かを言うでもなく、八千穂は兵士を見つめていた。兵士は暫くの間しどろもどろになっていたようだったが、やがて少年に駆け寄って膝をつき、おずおずと口を開いた。
「すみません、大国主、お伝えすることがあるのです」
首を傾げる八千穂に、兵士は何度かつっかえながら山祇が兵の一団を連れて去ったことを告げる。柳眉を寄せてそれを聞いていた八千穂は、兵士の言葉が終わると、間を置くことなく言った。
「馬を用意してくれないか」
「山祇殿を追うのですか」
「ああ……話がしたい」
心得たように兵士が頷く。
「共は、如何致しましょう」
「一人で行く。他の者にはあなたから伝えておいてくれ」
そう言って八千穂は兵士に背を向け、支度を調えるために寝殿へと歩いていった。兵士は立ち上がり、その背にもう一度礼をしてから厩へと向かう。馬たちの方はとうに目覚めているだろうが、厩番の兵士は果たして起きているだろうか。
それから半日が経った頃、八千穂は若駒を駆り、美保の崎へと向かっていた。出雲の国を一匹の獣のように見立てたとき、ちょうど首の先になる場所だ。杵築の地は腰にあたる。背骨を伝うようにして入海に沿って進めば、狭田、闇見を抜けて美保へ至る。このままゆけば、彼等の出発までには辿り着くことが出来るだろう。山祇が向かうとすれば筑紫の船団の待つその場所だ。そう、以前五十猛や水臣と話していた。
入り組んだ山道を抜ける道は、栗毛の雄馬が知っていた。八千穂はただ膝で馬の胴を押さえ、気の小さいその獣が怯えることの無いよう、手綱をしっかりと握っていれば良かった。
「出発までに追いついてくれ……頼む」
口に出して語りかければ、心なしか若駒は勢いづくようだった。しかし、すぐに息が上がるような無様な走り方は決してしない。
――まったく、賢い獣だ。
八千穂が初めて手綱を握ったのはほんの二日前のことだったが、その獣の心の有り様はすぐさま理解できた。
「本当に冬衣の息子だったのか」
これは、馬を駆る八千穂を目の当たりにした水臣の言葉である。八千穂はその言葉に苦笑を返した。広くなる視野、それでも足は地面を踏みしめているのだという感覚、その気になれば風のようにも走れること。その全てが、八千穂には心地良いのだ。
焦りを感じている理性とは裏腹に、馬の背で揺られる道中は彼の心を高揚させる。出発を急いだために物々しい馬具は一切無い。最低限の鞍に轡、そして鐙だけだ。その身軽さが余計に嬉しかった。若駒は山を降り始め、木々の合間に開けた視界に八千穂は思わず身を乗り出す。海が、見えた。
忙しく動き回に荷を積んでいる兵士達を、山祇は少し離れた小高い丘から眺めていた。突然に筑紫に戻ると言い出した自分に、皆、心得たように従ってくれた。山祇への忠義でもあっただろうが、それ以上に彼等自身の故郷への思いがあることだろう。山祇もまた、筑紫に置いてきた妻子のことを思い出す。娘達はどれほどに美しくなっていることか。遠く離れていた父の顔など、とうに忘れているかも知れない。
「――山祇殿」
不意に名を呼ばれ、山祇の肩がぴくりと動いた。しかし、彼は振り返らない。名を呼んだのが誰なのか、分かっていたからだ。
「行ってしまうのですか、山祇殿」
再びの言葉。それにも無言を返す。相手もまた口を噤んだ。互いに顔も合わせず、声も交わさない。暫くの時間、彼等はそうしていた。荷を運ぶ兵士達のざわめきが聞こえる。
海を見下ろしたまま、山祇は口を開いた。
「大国主よ、案ずるな。儂は高天原に寝返りはせぬ」
突然の言葉に、相手が息をのむような気配が感じられた。しかし返答は、無い。疑っているのか、何を今更と呆れているのか。選ぶとすれば後者であろうと思いながら、山祇は更に続けた。
「豊葦原のために戦う。ただ、場所が違うだけだ」
その言葉は偽りではない。高天原に手を貸すなど、それこそ山祇の自尊心には耐え難いことであった。老将はゆっくりと立ち上がる。船へ積み込む荷は、残り僅かであるようだった。
結局一度も振り返ることなく、山祇は丘を降って浜へ向かった。その背に、潮騒に混じった声が届く。
「どうか、お気をつけて」
山祇は口角を上げる。もちろん、答えは返さなかった。
船団は岬を回り、やがて視界から消えていった。人気の無くなった浜に、波の打ち寄せる音だけが響いていた。夜になってしまう前に、杵築に戻ることが出来ればよいのだが。須世理達には随分心配をかけているだろうということに、八千穂はその時になって初めて思い至った。若駒が彼を案じるように鼻面を寄せる。その頬をそっと撫でてやりながら、彼は大きな溜息を一つ吐いた。
「辛気くさいな、相変わらず」
突如背後に声が響いた。八千穂は驚き、振り返る。人の姿は見えない。――いや、視線を僅かに下に向けると、そこには自分を見上げる顔が見えた。
「あ……っ!?」
にっと笑ったその人物に、八千穂は愕然と目を見開いた。子供。異国の装束を身につけている。陽光を受ける真白い頭髪、そして紅い瞳。
「阿久――っ」
名を叫びかけた八千穂の口を、その子供は素早く押さえた。状態を把握できず、八千穂は瞬きを忘れて子供を見下ろす。髪や瞳の色だけでなく、面立ちすらも見知ったものだ。よもや幽世の鬼だろうか。しかし、唇に触れる幼い掌は確かに温かだった。
「それは、死人の名だ」
目の前の子供は笑みを浮かべたまま、けれど静かに言った。訴えかけるような紅い瞳に、八千穂は言葉を飲み込む。それを確かめてから、子供は掌をゆっくり離し、爪先立っていた足の踵を地につけた。
「死者と生者を取り違えるのは罪だろう?」
その言葉に、八千穂はうめく。
「いったい……」
絞り出すように呟いた他に、彼は何も言えない。へたり込むように腰を下ろすと、今度は子供を見上げる形となる。八千穂の凝視を受けて子供はさも可笑しそうに声を立て、そしてそこで初めて名乗った。
「宿那」
「……え?」
「宿那、という名を新たに貰った」
どこか誇らしげに、子供が言った。八千穂がその名を確かめるように呟くと、宿那は顔一面に喜色を浮かべる。
「また、よろしくな」
未だ合点のいかない八千穂を余所に、かつての兎はそう笑った。確かにこの子供は殺された兎の化生だ。しかし、その身体は根国堅洲の地に埋もれているはずである。では血肉を備えた、宿那と名乗る目の前の子供はどこから来たのか。
そういった八千穂の思惑を感じ取ってか、宿那は更に続ける。
「道々話すよ。馬に乗せてくれ」
おれは軽いから平気だろう、と笑う宿那に、八千穂は慌てて頷いた。ここで時間を潰していては、今日のうちに杵築へ帰り着けまい。
「……一人で乗れるか?」
立ち上がって子供を見下ろし、八千穂は思わず彼に問う。宿那はその答えに、八千穂の向う脛を軽く蹴った。
気が付くと恐ろしく急な坂から滑り落ちている最中だった、と宿那は語った。闇から闇へと、凄まじい速さで向かっていた。これが黄泉平坂、これが死だ。そう認識した途端、覚悟を決めていたはずの心が悲鳴を上げた。滑らかな斜面にしがみつこうとしたが、爪を立てた場所からどろりと溶けて霧散する。いや、消えたのは指の感覚だった。恐怖に叫び声を上げれば、それもまた、消えた。
「使った場所から、消えていくんだ」
馬上で手綱を取る八千穂と背を合わせるようにして、宿那はぽつりと言った。平素快活というか、気短であった彼には似合わぬ口振りである。
「けどその時、いきなり腕を掴まれた」
骨が軋むほどの強い力で腕を捕られ、これが黄泉の鬼かと身を強張らせた。しかし目に映るのは闇ばかりだ。その力に支えられ、滑り落ちてゆく速度は次第に緩やかになる。それどころか、失った指や喉の感覚が再び現れたのである。そしてついにその力は、彼の身体を坂から引きずり上げ始めた。
「あれ、お前だろ」
「……多分」
覚えていないが、と続けた八千穂に、宿那はからからと笑った。
その頃にはもう、その力の主が誰であるか察しが付いていた。出会い頭の時と同じように、彼を助けようとしているのが分かった。
しかし、それは束の間だった。糸が切れたように、その力は消滅したのだ。
「――何があったんだ?」
宿那の問いに、八千穂は言葉に詰まる。自分では全く覚えていないのだ。
「黄泉帰りの術は禁忌なのだと……須佐ノ王に殴られて気を失ったらしい」
口に出して、彼は思わず顔をしかめる。後々五十猛から聞いたことだったが、情けないにも程がある有様だ。しかし宿那は気にした様子もなく、災難だったな、と笑い飛ばした。
力が消えると同時に、足場を失ったように身体が傾いだ。落ちる。そう感じた瞬間、咄嗟に黄泉平坂に手をついた。
――消える!
同じことを繰り返している。そのことに気付き、血の気が引く思いがした。けれど、掌は消えはしなかった。それどころか、斜面の浅い窪に指がかかり、かろうじて滑り落ちずに留まっている。消えた力のいくらかが、依然として彼を守っているとしか思えなかった。
歯を食いしばり、斜面にへばりつく。何故そのようなことをするのか、彼自身にも分からなかった。手を離せば楽になるのだ。しかしそれが出来なかった。生への渇望は、死人にも存在する。がくがくと震える肘から、次第に感覚が無くなってゆくような心地がした。消えてしまう。そう思った時、不意に身体が軽くなった。
「それもお前だと思ったんだけどな……」
大きな掌で掬い上げられたような感覚。しかしそれは、先程の腕を掴み引きずり上げるような力とは違う。薄れてゆく意識の中で、それを感じた。
「誰だったと思う?」
宿那は八千穂に聞いたが、それは答えを期待する問いではない。相手が答えを知らないことを楽しむ問いだ。しかし八千穂には、見当が付いていた。それほどの力を持ち、また彼に関与してくるのは、恐らくは思い描くただ一人だ。
「……神産巣日神」
八千穂が口にした名に、宿那は驚いて振り返った。
「知ってたのか?」
「いや、そうではないかと思って」
宿那の身動きに怯えた様子の馬を宥めてやりながら、八千穂は肩越しに宿那を振り返り、微笑む。子供は不服そうに眉を寄せていたが、八千穂と目が合うと慌てたように背を向けた。
彼は再び、語り始める。
「気が付いたときには黄泉じゃなかった。きっと、常世って場所だろう」
神産巣日神の掌の中、とでも言えばよいのか。繭に包まれたようなその場所で、胎児のように手足を丸めていた。気が付いた、といっても意識ははっきりとせず、夢でも見ているような心地がした。
その時はまだ、神産巣日神の名など思い浮かびはしなかった。当人が語りかけてこなければ、きっといつまでも気付かなかっただろう。
「初めに、神産巣日神の名を聞いた。次におれが死んだこと、でも黄泉帰ろうとしていることを聞いた。今は、身体を創っている最中だとも聞いた。魂から黄泉のケガレを祓うためには、新たな名が必要だとも」
正確に言えば、それは言葉ではなかった気がする。水鏡や炎の中に映される託宣が、そのまま頭に叩きつけられているような感覚だった。
「それから、八千穂、お前を助けるのがおれの役目だと」
「僕を?」
八千穂が問い返すのに、宿那はひょいと馬の背に立ち上がり、前方に顔を向けた。馬が不快気に首を左右に振るのを、八千穂は慌てて宥める。
「落ち着け、大丈夫だ……いったい、どうし――っ?」
振り向こうとした首に、するりと子供の手が回った。何事かと思えば、八千穂が身につけていた鎮めの玉を外したのである。
「自分の神力を御せない、とか」
「……煩い」
さも愉快そうに言う宿那に、八千穂は滅多に口に出さない悪態を吐いた。
「そう邪険にするな。――これは、もういらないよ」
八千穂の肩に顎を乗せて、宿那は彼の目の前に外した首飾りを差し出した。
「何故?」
それを受け取って、八千穂は腰を下ろした宿那に問う。自分がその術を身につけることが出来たなどとは、彼自身まったく思っていないのだ。しかし宿那は八千穂の背にもたれた姿勢のまま、思いもしなかったことを言った。
「お前の神力の余剰分、おれが受け取ってるらしい」
「――え?」
「受け取った神力は、お前の力としておれが使える。ほら」
促すような言葉に八千穂が振り返ってみると、掲げられている宿那の手には幾粒かの種が載っていた。白い毛に覆われたそれに、八千穂は見覚えがある。製薬にも使用する蘿摩だ。それを認識した矢先、突然その種子は動き出した。馬の揺れではない。それからすぐ弾かれるようにして、種から透き通った双葉が現れたのだ。
唖然とする八千穂の前で、宿那は笑って半ば育った蘿摩を馬の背から地に投げた。その蔓はするすると伸びて、樫の若木に絡み付く。
「お前はお前で、いつでも念じたときに神力が使えるようになってるはずだ。事ある毎に首飾り外すのは面倒だろ」
それが、カミとして黄泉帰ったこの兎の神力だった。己が生み出すものは何も無く、故に他者の力を扱える。しかし相手が八千穂であるときに限るのだと、神産巣日神は条件を付加した。それは八千穂の片腕としての生しか認めぬという枷だったが、宿那にとってそれは己の望みでこそあれ、不快に感じることなど何一つ無かった。
「どうだ、身が二つに増えたようなものだ。有り難いと思え」
両手をはたき合わせての偉ぶった物言いに、八千穂は思わず声を立てて笑う。
「ああ……そうだな。本当に有り難い」
今日はいったいどれほどのものを失い、どれほどのものを得たのだろう。八千穂の胸には、人の頭数の計算だけでは説明の付かぬ充足感があった。宿那はさも嬉しげな笑顔を見せると、再びくるりと後方に顔を向ける。その白い頭髪をふと眺めて、八千穂は不意に気付いた。
「少し、背が伸びたか?」
特徴的な髪や瞳に目がいって気が付かなかったが、最後に見た一月足らず前の時、彼はもう少し幼かった気がする。八千穂の言葉に、宿那は今更気付いたのか、と驚いた様子だった。
「神産巣日神としては、兵士として戦える年齢まで身体を創ってから、おれを送り出そうとしてたみたいだけど」
背を向けたまま、宿那は続けた。
「お前がまた辛気くさい顔してないか心配で、頼み込んで早めに来た。まあ、前よりは役に立つだろ」
その物言いに、八千穂は苦笑して前方を向き、手綱を握りしめた。素直なのか素直でないのか、よく分からないところも変わっていなかった。
左手の嵩山、布自枳美烽から立ち上る煙は、山祇の出立に応じてのことか。杵築までの道はまだ長い。
「今度は八千穂が話をしてくれよ。この一月、何があったのか」
宿那が言う。八千穂はそれに応じた。木ノ国から出雲へ至る道中、また出雲での騒動。八千穂の淡々とした語り口でも、宿那はさも楽しそうに耳を傾けていた。
――あの大社を眺めて、宿那はどんな顔をするのだろう。
そう思うと、八千穂は自然口角が上がるのを感じる。その巨大な砦に自分がどんなに驚いたか、言おうとしていたが寸前でやめた。