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第二章其の三 大器

 あまりに巨大な建造物に、ただただ深い嘆息が漏れた。


 杵築きずき大社おおやしろ。そう呼ばれるに相応しい。どっしりとした杉材は神々と同じだけの時を生きたものであり、そしてこれからも生き続けるものだった。広大な、一つのムラさえ飲み込めるほどの砦である。その中心から天にそびえるのは、やぐらではなく社なのだ。八千穂は呆けたようにそれを見上げていた。

「おおきいサシ。ヤチホ、すごい?」

 誇らしげに秋鹿アイカが言う。

「サシ?」

「あちらの言葉で、王の館……城だそうだ」

 聞き返した須世理に補足したのは水臣ミズオミであった。その会話を聞きながらも、八千穂は心ここに在らずといった表情で、小山の間から突然に姿を現した砦の全貌を見つめていた。

「さあ、ここまで来れば見張りも気付いているでしょう」

 門が開きますよ、と五十猛イタケルが八千穂の背をとんと叩く。はっとして、八千穂は五十猛を見た。その瞳には、信じられないという色が浮かんでいる。

「門は開きます。王のために」

 そう言って五十猛は微笑み、八千穂の迷いを断ち切るように頷いた。

 砦を囲むような小山の更に後方に見える馬見烽まみのとぶひからは、灰色の空に吸い込まれるように狼煙が細く上がっていた。



 身体の汚れを落とし、髪を梳き、服を替える。それらは旅路が終わったことに安堵する間もなく要求された。それだけでもうんざりした心地であった八千穂は、髪を結わなければならないと言われてさらに閉口した。

「これでは駄目か?」

 後ろで縛っただけの垂髪を示して言ったが、須世理スセリはそれを強く否定した。

「豊葦原の将たちが列席するのです。せめて角髪みずらに結っていただかないと」

 その勢いに圧される形で結局八千穂は髪を結った。いや、結ってやったのは須世理である。しかしその感想は、たった一言の短い言葉であった。

「……重い」

「俺のように短くするか?」

 その様子を見て、水臣が面白そうに言ってきた。彼の気楽な様子に、良いかもしれない、と八千穂は思わず呟く。それを耳にした須世理は、とんでもないと目を見張った。

 須世理は他にも、首飾り、耳飾りといった装飾の玉、鮮やかな色の組み紐で八千穂を飾ろうとした。八千穂は櫛稲クシナから受け取った首飾りだけで十分だとそれらを断り、それでも哀しそうな表情をした須世理に慌てて礼を言うと、五十猛の後について長い通路を早足で進む。ひょいと立ち上がった水臣がそれに続き、暫くしてから片付けを終えた須世理が後を追った。

「もう、皆さんお揃いですよ」

 小声で五十猛が言った言葉に、思わずごくりと唾を呑んだ。豊葦原の将にまみえる。そうすれば、八千穂は王に成らざるを得ないのだ。


 そこは、随分と広い場所だった。部屋である、という認識がある前に、そこはあまりに広い場所であったのだ。そこに据えられた座に腰を下ろした八千穂は、言いようのない居心地の悪さを感じていた。広間に集まった全ての顔が、八千穂をじっと見つめていた。

 総勢二十人ばかりの将たちには、若い者もいれば永の年を経たと一目で分かる者もいる。髭を生やした無骨な大男がいたかと思えば、きりりと髪を結い上げた女性の姿さえあった。それに加えて各々が、鮮やかな色彩の髪と瞳を持っているのだ。八千穂は俯くまいと顔を上げてはいたが、その瞳はどの視線も見返してはいなかった。

「――斯くして私たちは新王を、出雲までお連れしたのです」

 流れるような説明を終えた五十猛がそう締めくくる。一瞬ざわりと場がさざめいたが、やがてそれは潮が引くように静かになった。けれど探るような眼差しは消えず、八千穂には背中がむず痒いように感じられるほどだった。

「何か、言いたいことがある者はいませんか」

 顔を巡らせて五十猛が問う。しかし答えはない。五十猛も口を噤み、広間は水を打ったように静かになった。

「……よろしいか」

 しかし、物々しい声に静寂は破られた。八千穂に注がれていた視線が、すぐさま声のした方へと向けられる。大柄な男が胡座を掻いて、睨み据えるように八千穂を見ていた。

わし山祇ヤマツミ、と呼ばれる者だ」

 名乗りを上げた男の視線を、八千穂は初めて見返す。検分するような山祇の視線、その真意はすぐにそれと知れた。

 山祇の表情は、かつて八十神が八千穂を見たときと同じものだった。

「黄泉帰りと五十猛殿は申されたが……失礼ながら、見たところこの者はまだ子供。そのような技が使えるとは思えぬ」

「それは、私が偽りを口にしている、ということですか?」

 目を細めて五十猛が言った。山祇は、首を横に振る。

「そうは言わぬ。須佐ノ王の真意が分からぬだけよ」

「真意も何も……王が現れた。だから父は位を譲った。それだけのことです」

 山祇は不機嫌に押し黙った。何か言わなければならないだろうかと、八千穂は五十猛をそっと伺う。厳しい眼差しで山祇を見ていた五十猛は、それに気付くと八千穂にそっと耳打ちした。

「真っ直ぐに前を見て座っていて下さい」

 言われた言葉に頷き、再び八千穂は山祇を見た。感情を表に出さないながら、射るような眼差しは変わらない。俯いてしまえば多少なりとも楽なのだ。そう分かっていたけれど、その行為は王になると言った自分を否定する。奥歯を噛み締めるようにして、八千穂はその衝動に堪えていた。

「山祇殿、それだけでしょうか?」

 五十猛が問う。八千穂の視線の先の、山祇の眉間に深い切り込みが走った。

「……任せてはおけぬ」

 ぽつりと一言呟いたと思うと、山祇は急に立ち上がった。梁にとどきそうなほどにも見える巨体は、その名に相応しく確かに小山のようだ。

「儂は、王に“スマイ”を申し込む」

 腹の底から響くような声であった。その意を理解した将達が動揺のざわめきを広げる。八千穂は何も言わず、山祇の視線を見返した。しかしその膝上で、拳は堅く握りしめられていた。


 山祇は出雲の者ではない。須佐ノ王と盟約を結び、海を越え軍勢と共にやってきた筑紫島つくしのしまの長である。王が行方を眩ませてからは、出雲の統制をとることにも力を貸した人物だ。

「それもあって、新王の存在は受け入れがたいのでしょう」

 五十猛が説明するのに、八千穂は思案顔で耳を傾けていた。

「しかし出雲の将たちはそれほど反駁を覚えてはいない様子。ここで山祇殿に勝ちさえすれば、皆貴方に従うようになります」

「――そうだろうか」

 楽観的とも言える五十猛の言葉に、ふと疑問の呟きが漏れた。それに苦笑し、五十猛は続ける。

「地に根付き、豊葦原を守る王を、出雲の者はずっと待っていたのです。水臣を見ればよく分かる。軽口を叩いてはいますが、貴方を王と認めたことには変わりありません」

「しかし」

「相手の神力が何に根差しているか、力ある者なら誰でも分かります。山祇殿とて分からないわけではありません。……あの方は、ただ、頑ななのです」

 そう付け加えて、五十猛は立ち上がった。夕暮れ時が近付き、辺りは随分と薄暗い。空を見上げてみると、厚い雲の隙間から僅かに茜色が見えた。

「そろそろおいとまします。八千穂さんも今宵はゆっくりなさって下さい」

「ああ……お休み」

「明日の勝利を、私も、妹も願っていますよ」

 最後にそう言って、五十猛が静かな足取りで去ってゆくのを見送りながら、八千穂も先程の彼に倣って空を見上げてみた。明日は“争”だ。

 ――負ければここへやって来た意味を無くす。

 それは、八千穂を王にと望む全ての者達を裏切る行為だ。もしも彼等が言うような力が自分にあるならば、勿論彼等の望み通りにその力を使いたかった。そして、訴えかけてくる地の声にも、なんとか応えてやりたかった。

 ――しかし、よしんば勝てたとしても、多くのものを無くすだろう。

 八千穂が勝てば、誇り高い山祇は出雲に残るまい。一人の将と筑紫の軍勢、それを失って得られるのは王座だけだ。どちらに転んでも結果は無為である。

 そう分かっていながら、それでも八千穂が勝つことを願う者がいる。

 それならば、と八千穂は目を伏せた。明日は己のためでも、豊葦原のためでもなく、ただ自分を王にと望んでくれる者のために“争”をしよう。そう決意を固め、八千穂はゆっくりと瞼を開いた。

 ほんの僅かの間に、辺りはいっそう暗くなったようであった。


 “争”――それは神々の神力ちから比べだ。行い方はとても単純で、一つの円があればいい。その中に二人が向かい合って座し、互いの顔を睨み据えるのだ。円の内に溢れてゆく互いの神力に、耐えぬいたほうが勝ちとなる。これが最も簡単な、腕力も知力も年齢も関係のない、純粋な神力の量り方だ。

「十日も“争”を続けた猛者の話もある」

 水臣が冗談めかして言った。

「どうなったんだ、それで」

「腹空かせ過ぎてぶっ倒れて、結局どちらも助からなかった」

 にやりと水臣が笑ったのは、彼なりの激励だったのだろう。八千穂は手結たゆいの紐の片端を咥えたまま、口角を上げて頷いた。

「貸して下さいな。結びましょう」

 片手で紐を結ぶのに苦戦している八千穂に、須世理が救いの手を差し伸べる。唇から紐を受け取ると、細い指は器用に紐を八千穂の袖に巻きつけた。

「勝って、下さいね」

 その言葉は、願望ではなく確認だった。手結、足結あゆいは壮士の戦装束。もう、後には引けないのだ。

「……ありがとう」

 須世理の手元に不安は無い。それを見ていると、自分の勝利を信じることも出来そうな気がした。


 八千穂が表へ出たとき、すでに“争”の準備は整っていた。太い縄を半ば地面に埋めるようにして作られた円形の場の中に、どかりと山祇が腰を下ろしている。その円を取り囲んでる数十人の見物人らしき者達が、八千穂が姿を表したのを見てざわめいた。

「待たせて、すまない」

 その人数に驚きながらも、八千穂は平静を保った口調で言う。山祇はそれには答えず、組んでいた腕を解いて両膝を掴んだ。

「では、始めましょうか」

 五十猛が促すのに頷いて、八千穂は円の中に踏み入ろうとする。しかしふと気がついて、首飾りに手をかけた。鎮めの力が籠められているそれは、“争”をするには枷になる。八千穂は一つ息を吐き、首飾りを外した。

 途端、潮騒しおさいのように耳に馴染んだあの音――大地の声が、押し寄せてきた。会話を遮るほどに大きな音ではないが、忘れてしまえるほど微かではない音。久しく耳にしていなかった。それはかつて海岸で聞いた呪詛の声ではなく、むしろ八千穂の気を引き立たせようとするかのように響いている。

 ふと、八千穂は唇の端を持ち上げた。

「五十猛、これを預かっていてくれ」

 心得たように手を差し出した五十猛に首飾りを渡すと、八千穂は縄の内側へ行き、山祇と同じように胡座をかいて両手を膝に乗せた。

「……いざ!」

 山祇の発したその一言が始まりだった。

 見物人達は固唾を飲んで静まり返る。山祇の険しい視線を、八千穂は口を引き結んで受け止めた。

 遅れて出てきた須世理は、その様子を遠巻きに見つめていた。

 ――山祇さまも、愚かな真似を。

 黄泉帰りの術を独力行うことが出来る者に、一介の将が勝てるはずがあろうか。八千穂自身は未だ自分の神力を自覚していないようであったが、その強大さは疑うべくも無い。先程八千穂は首飾りを外していた。けれど鎮めの力の枷があったとしても、おそらく山祇に勝てるだろう。須世理はそう認識していた。

 彼女が見つめる先で、“争”は静かに進行していた。山祇の額に汗が滲んでいるようだ。けれど対峙する八千穂はまったく涼しい表情をしている。

 ――器が違う、ということなのでしょう。

 まさしくそうなのだ。彼らの神力の受容力は、圧倒的に違っている。加えて八千穂の制御しきれぬ神力は、確実に山祇を追い込んでいた。

「勝負はついたな」

 いつの間にそこにいたのか、須世理の横に立っていた水臣が呟く。独り言だと分かってはいたが、須世理はこくりと頷いた。

 山祇の目は血走り、いかる肩は小刻みに震えていた。噛み締められた歯は今にも軋みそうなほどである。八千穂はそれをじっと見つめていた。そうしている彼の胸中には、どんな思念も存在していない。“争”とはそういうものなのだ。互いが神力を受けるただの器となることで、その力比べは成立する。

 ほんの暫くの時間だった。水臣の宣言から僅かの後に、山祇の巨体はぐらりと傾いだ。八千穂が弾かれたように表情を変える。――“争”は終わったのだ。どよめきが広がる中、山祇はうつ伏せに地面に倒れこんだ。どさりという重い音に八千穂は慌てて彼に駆け寄る。

「大丈夫か?」

 助け起こそうと肩に触れる。しかしその手は振り払われた。低い呻き声を漏らしながら、山祇は両腕をついてゆっくりと起き上がる。心配の色を浮かべる八千穂を一瞥し、山祇はぽつりと言った。

「……負けた」

 己に確かめるようなその一言をきっかけに、辺りは歓声とも怒声ともつかぬ叫び声に包まれた。


 髪や袖を縛っていた紐を全て取り払って、八千穂は深い息を吐いた。そのまま手足を投げ出すようにして、床の敷布の上に座り込む。

「お疲れ様です」

 五十猛が労いの言葉をかけるが、八千穂は首を左右に振った。

「……呆気無かった」

「予想していたことです」

 意外だと言わんばかりの八千穂に、五十猛が答える。八千穂は過大評価だと顔を顰めたが、それには苦笑で返した。

「何を気兼ねすることがあるのですか。貴方はもう、皆に王であると認められたも同じことなのに」

「筑紫の軍勢を失って、か?」

 五十猛を見上げ、問う。その言葉に、青年は僅かに目を見張ったと思うと、ゆっくりと笑みを深くした。

「賢王の存在を、大変嬉しく思います」

「茶化さないでくれ、五十猛」

「本心ですよ。――確かに山祇殿は、出雲を去るに違いありません。大きな痛手です。しかしこのまま彼が自分が王であるかのように振舞い続けたならば、それこそ豊葦原にとって致命傷となったでしょう」

 抽象的な物言いは、八千穂にはよく分からなかった。納得がいかないまでもただ頷くと、五十猛はにこりと微笑んだ。

 八千穂は額にかかる髪をかき上げ、五十猛を見上げる。何故、彼は自分をこうまで高く評価するのか。今まで幾度も尋ねようとしてきたのだが、直前で憚られて口に出すことが出来なかった。

 今もやはり、八千穂はそのまま目を伏せる。どんな真意があるにせよ、五十猛は確かに信頼に足る人物だ。二十日余りを共にして、八千穂はそう確信していた。

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