旅の目的、悲しいひと
ふたつの星を経て、ぼくははじめて旅の目的について考えはじめました。自分はどうして旅をしているのか、その理由を探しはじめたということです。でも、よく分かりませんでした。旅はつづいていましたし、おわっていないものの中途半端なかたちをもって、これはこういうものだという風に決めつけることは、少なくともぼくにはできなかったからです。
とうとつですが、みなさんは自分がなぜ生まれたんだろうと考えることはありませんか。
ぼくは旅の目的について考えているときに、このことに思いあたりました。このふたつはなんだか似ているような気がしたのです。
ぼくのふるさとでは、おとなの人はよく「自分の生まれた意味について考えなさい」とぼくに言い、その答えをすぐに求めました。
たしかに〝生まれる〟ということをなにか意志を持って行うなら、答えることはできるのかもしれません。でも、ぼくは生まれるときのことをよく覚えていません。いつのまにか生まれていたのです。だから、生まれたことの意味はわかりません。ないといってもいいでしょう。でも、生まれて、生きているんです。旅をしているんです。
なんだか変だな、とぼくは思いました。
おとなの人がぼくに問うていることは、やってみなくては分からない未来のことなのです。生まれたことの意味については、生ききってみなくては分からないし、旅の目的についても、旅を終えてみなければ分からないのです。つまり、ぼくらが年をとり、おじいさんやおばあさんになって、それから死ぬときになってようやく分かることなのです。いえ、死ぬときになっても分からないかもしれないのです。
だから、ぼくは、そのことについて考えるのをやめました。その代わりに、毎日を真剣に旅してみようと思ったのです。毎日をなんとなく過ごしていては、きっと答えも出ませんからね。
でも、ふしぎなのは、おとなの人たちが自分の出した問題を意識するのを忘れていることです。おとなの人たちは毎日を同じように忙しくこなしています。きっと、ぼくらのような子どもだけが考えるようなモンダイだと思っているのでしょうね。毎日考えなければならない、たいせつなことだと、ぼくは思うのですがね。
さて、ぼくの旅の話に戻らなくてはなりませんね。
三番目の星は少しいびつな形をしていました。大きなゆりかごのようにも、大きな幼虫(すこし気持ち悪いですかね)のようにも見える小さな星でした。その星の内側、つまり谷のようになっているところに、ぼくは舟をとめました。一軒の家が見えたからです。それも星と同じように小さな家で、人ひとりがかろうじて住めるくらいの粗末なものでした。こんなところにだれが住んでいるのだろう。気になったぼくは、おそるおそる家に近づいていって玄関扉を何回か優しく叩きました。
「あいているよ」
力ない声が聞こえてきたので、ぼくはその人を心配しながら、扉を開けて入っていきました。入ると、目の前にベッドがひとつだけ置いてあって(ほかには何もありません、何もです)、その上に小さな男の人が古びたギターを抱えながら横たわっていました。その人はギターを見ずに、ときおりポロン、ポロンと弦を鳴らしていたのですが、その音が異様に悲しげだったのをいまでもよく覚えています。
「こんばんは」ぼくはささやくように言いました。
「こんばんは」男の人は天井を見ながら言います。
「なにをしているの?」
「なにも」と、男の人は吐くように言いました。
「なにもしたくないんだ。なんだか悲しいからこうしているんだ」
「なにがそんなに悲しいの?」
「悲しいことが悲しいのさ。深くは聞かないでおくれよ、話すのも悲しいんだ」
それを聞いて、ぼくはなんとも言えない苦い気持ちになりました。彼の悲しみの理由が分からないこともそうですが、それが分かっていたとしてもどうしようもないような気がしたのです。
「ねえ、パイプを吸っていいかい?」
「え?」と、ぼくは聞き返しました。考えごとをしていて、聞いていなかったのです。
「パイプを、吸っていいかい?」男の人はもう一度言いました。
「吸いたいのならどうぞ」
「ありがとう」男の人はやはり天井を見ながら言いました。
そして、どこからかパイプを取り出し、いつの間にか持っていたマッチを擦って火をつけました。火をつけると同時に、紫がかった煙がパイプからのぼり、だんだんと部屋を満たしていきます。そのせいか、もともと薄暗かった部屋がさらに暗くなったような気がしました。男の人はギターをおなかに乗せながら、パイプを口にふくみ、数秒間吸ったあとプカリ、プカリと煙の輪っかを数個吐きだしました。
次々と輪っかが天井にのぼっては消えていく様子を見て、ぼくはなんだか煙突みたいな人だなと思いました。
「ずっと、そうしているの?」
「ああ」と、男の人は右手だけで弦を弾きながら言います。
「ぼく、じゃま?」
「いいや、でも」
「でも?」ぼくは次の言葉をうながしました。
「いても、いなくても同じだと思う」
「それは、どうして?」
「おれは悲しいんだ。悲しいときは自分だけがかわいく見えるもんさ。自分のことしか見えなくなるし、悲しいことを周りのせいにしたがるもんだ。いやな奴さ。でも、そうするしかできないんだ。君には分からないかもしれない」
「そうかもしれません」
その言葉から、彼には彼なりの考えがあるのは分かりました。ただ、ぼくは男の人がほんとうにひとりぼっちだと思ったのです。ひとりぼっちというのは、ひとりだけでは成りたちません。ほかにだれかがいるから、ひとりでいるということができるのです。
でも、男の人はそのだれかのことを忘れていました。ぼくのことも見えていませんでした。ぼくもひとりですが、この世界にはほかの誰かがたくさんいることを知っています。そして、その中に、ぼくにとってかけがえのないひとがいることも知っています。彼はちがいました。彼はこころまでひとりぼっちだったのです。なにが彼をそうさせたのでしょう。ぼくにはわかりません。でも、こころまでひとりでいることほど、辛いことはないように思います。
結局、ぼくには何もできませんでした。
悲しみをいやすことも、いっしょに悲しみにひたることもできませんでした。それが今でもこころに残っています。ぼくはこのとき、ほんとうの悲しみに対しては何もできないことを知りました。そばにいるぼくには意味がなく、男の人はずっと暗いベッドの上で横たわりつづけていたのです。
いつだったか、旅先で出会ったある人にこの男の人の話をしたことがあります。その人は「そいつは気力がなく、臆病なやつだ」といって、男の人を笑いました。ぼくにはかばうことも、笑うこともできませんでした。なにを言っても、どうにもならないのでした。知らない悲しみに対しては、なにも言えないのです。なにも。
だから、あのとき、ぼくは逃げたのです。煙のにおい、深い悲しみ、重い空気にたえられなくなって、ぼくは逃げたのです。ぼくもまた、臆病なやつでした。
「さようなら」
ぼくはかろうじてそれだけを言って、彼の家から飛びだしました。
彼からはなんの返事もありませんでした…