よろこびの老画家②
とは言っても、特になにかをしたわけではありません。最初の星にいた頃のように勉強をしたわけでもありませんし、二番目の星にいた頃のように友だちと遊んだわけでもありません。ただ、おじいさんといっしょにいただけなのです。おじいさんの描く絵をながめたり、昔の話をしたり。
つまらない毎日だって思いますか。でも、そんなことはないんですよ。
おじいさんはとても面白いひとでした。おじいさんは当然ながらおとなですが、絵を描いていているときはまったく子どものようになるのです。目をキラキラさせながら、カンバスに夢中で絵筆を走らせ、それで一日が過ぎていくのです。ほんとうに、いくら描いても描きたりないようでした。そうです、おじいさんはおとなにも子どもにもなれるのでした。それはすごいことです。だって、時間をこえているということなのですから。
「坊ちゃん、あんたはなにを喜ぶ。なにを楽しいと思うかい」
あるとき、おじいさんはこんなことを言いました(もちろん、このときも手は動かしたままです。なんて器用なんでしょう)。
「そうですね…」ぼくは頭をひねりました。
「両親から誕生日プレゼントをもらったときは嬉しかったものです。それに、だれかから好きだと言われたときも。そういえば、この前、楽器男といっしょに演奏をしたんです。あれは楽しかったなあ」
「楽器男?」おじいさんはその言葉に興味を持ったようでした。
「楽器をからだじゅうにくっつけて、演奏しながら歩いているひとです」
「わしみたいなやつだな!」おじいさんは大きく笑いました。
「わしは絵を描きたいから描いている。描くことが喜びなんだな。そいつもそうなんだろうよ。それはこころを内側から喜ばせる。なにかをもらうとき、なにかを買うとき、そんなときも喜びがあるにはちがいないが、それはものにくっついている喜びなんだ。自分の内側から出てくるものではない。それが悪いとか、そんな話じゃないがね」
こんなことを話すとき、おじいさんは頼れるおとなに変身するのです。
「すると、ほんとうの喜びは、内側から出てくる喜びなんですか」
「どうだろうね。わしが言えるのは、内側から喜ぶとき、その喜びは簡単には消えないってことさ。ものにくっついている喜びは、ものが消えると消えてしまうからね」
「ふうん」と、ぼくは鼻息を吹きだしました。
「わしの周りにある小さなもの、当たりまえのもの、それが喜びに変わることがあるんだ。そんなとき、わしは筆をとる。喜びが絵になるのさ。そうだな、湯たんぽみたいなもんさ。自分から出てくる喜びは」
「湯たんぽ?」
ぼくは思わず聞きかえしました。だって、なんだか湯たんぽって言葉だけが、話に合わないような気がしたのです。
「ふとんに入れて寝たことはないかい。寒い冬の日、ふとんに湯たんぽを入れる。それは温かいもんさ。からだがじんわりと温まって眠くなるんだ。自分から出てくる喜びもそれに似ている。派手でも分かりやすくもないが、こころの奥に小さな火がともったように感じるんだ」
「ぼくもそんなものがほしいです」
「もう持っているよ、気づいてないだけさ」
星のうみでは、いつの間にか時間が過ぎ去っていきます。だから、おじいさんとどれくらい一緒にいたのか、よく覚えていません。でも、それなりに長い時間だったような気もします。
おじいさんは、よく旅の話をしてくれました。水がたくさんある星で魚釣りをしたこと、雲ばかりの星で一日中雲をながめたこと。そして、魚や雲の絵を描いたこと。とても小さなことでしたが、おじいさんには喜びだったのです。おじいさんがそんな目やこころをもっているから、喜ぶことができたのだとぼくは思います。そして、そういうひとはいつもかすかに笑って、おだやかに生きているものです。
「坊ちゃん、あんたの絵を描きたい」
別のあるとき、おじいさんは真剣な顔でそう言いました。
「どうして?」ぼくはふしぎに感じて、そうたずねました。
「あんたが好きになったのさ」
そう言って、おじいさんは絵筆ではなく木炭を取りだし、ぼくのスケッチをしはじめました。
「あんたがどんなひとなのか、よく見ておかないとな」。
スケッチをはじめる前、おじいさんが楽しそうにそう言ったのを覚えています。
スケッチが終わると、おじいさんは木炭を絵筆に持ちかえ、カンバスに絵の具をのせていきました。もちろん、ぼくを見ながらです。ぼくはモデルでしたからね!
「好きに動いてもいいよ」
「いいんですか?」
「ああ。でも、遠くにはいかないでおくれ」
ぼくは緊張しながら、歩いたり、立ったり、座ったりしていたのですが、おじいさんはじっと座って、ぼくのことを見ていました。でも、おじいさんの目は、ぼくではなく、どこか遠くを見ているようでもありました。いったいなにを見ていたのでしょうね。
それから、何回か寝たり起きたりをくりかえしているうちに、ぼくの絵は完成しました。
できあがった絵は、やっぱり実際のぼくよりも明るく楽しそうなのでした。ぼくの自慢のぼうしとマントは茶色だったのですが、絵では山吹色に塗られていましたし、ぼくの髪の毛も黒ではなく、水色で塗られていました。それに、全体の線とでもいうのでしょうか、それがすこし簡単に描かれていて、それも絵の印象を明るくしてくれているような気がしました(ぼくはふるさとで見た「なんとか派」の絵を思い出しました)。
絵のなかのぼくは、実際のぼくよりおとなびていて、やわらかな笑顔を浮かべていました。背景はたぶん星のうみだと思うのですが、それも、きれいな青空とそこに浮かぶたくさんの風船という感じで描かれていました。
「さて、わしはもう行くことにするよ」
絵を描きおわったおじいさんは満足そうにそう言いました。
「どこへ?」ぼくは寂しそうに言いました。
このときのぼくは、もう、だれかを遠ざけるようになってはいませんでした。もちろん、ひとりになりたいという気持ちはいつもあったのですけど、でも、一緒にいられるひととは一緒にいたいと思っていたんですね。
「どこだろうな…次はもっと明るいところに行くのがいいかもしれない」
そう言って、おじいさんは画材をまとめて背負うと、ぼくに背をむけました。
「じゃあな、坊ちゃん。暗い場所にいつづけるというのは、明るい場所のありがたさを知るという意味では良いもんだ。でもな、暗い場所ってのはいつかそこにいるやつをおかしくするんだ」
「おかしくって?」
「ふさぎこんであらゆるものを馬鹿にし、自分の悲しみだけを最高のものとしたがるようになる。わしはそうは思わないね。悲劇からは遠ざかりたいんだ」
「なんとなく分かります」
「いや、わしはそんなことが言いたいんじゃない。わしはここであんたに会って、話して、あんたの絵を描いた。その日々はわしにとって大切なものになるだろう」
「ぼくの方こそ、あなたに会えてよかった」
「ほっほ、老い先短いわしのこころにまた光が宿った。ありがとう、坊ちゃん。そうだ、この絵はあんたにやろう。あんたを描いたんだからな」
「いいんですか?」
「ああ、いいとも。ほんとうは手元に置いておきたいが、あんたはまだ不安なんだろう。ひとりなのが、旅をするのが。そんなあんたの力になれるかは分からないが、その絵を持っておきなさい。わしのこころがこもっているから。じゃあな」
「さようなら、おじいさん」
ぼくはおじいさんのくれた絵を胸に抱えながら、遠ざかっていくおじいさんの後ろ姿をじっと見つめました。いつかまた会えたらいいなと思いました。けれど、それは無理な話でしょう。この星のうみはとっても広いのですから。




