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アイリスは宰相アリアストが妾に産ませた娘であった。
アリアストは勿論結婚しているが、側室は一人も居ない。これは政略結婚で娶った正妻マリエールが非常に嫉妬深い性格であった為である。
アリアストは正妻を迎える以前より密かに想いを交わしあっていた末端貴族の娘のナターシャ・ノブレースという女性を妻に迎えるつもりであったが、しがらみにより叶わなかったのだ。
ナターシャを側室にも迎える事が出来ず、アリアストは妻の目から隠す様に彼女に館を与え密かに逢瀬を交わし続けた。
マリエールは男子を二人産んで数年した後、流行り病に掛かって身罷った。
しかし、その頃にはナターシャも産後の肥立ちが悪く、亡くなった後だった。
アリアストはナターシャの忘れ形見であるアイリスをいたく可愛がり、正式な子供として迎え入れたのだった。
しかし、これが騒動の火種となった。
アイリスは、マリエールが産んだ二人の男児よりも先に生まれていた。つまり、ノイス家の長子であったのだった。
オリオール帝国に於いても女子の多くは他家へ嫁ぐ事が殆どで、家督を継ぐ事が多くない――が、全く無いとも言えない。
現在の帝国四公の内の一人、女傑で知られるエリザベート=バリーベット・バルムンク公爵等という例もあるからだ。
マリエールの子、カリストとサランスト、そしてその子等を次期ノイス家当主にせんと画策する者達に取って、突然現れたアイリスは余りにも邪魔者でしかなかった。
「ふむ、実の弟二人、或いはその縁者達によって命を狙われているのかも知れんな」
アイリスの生い立ちを聞き終えた後、皆の総意をクランドが口にした。
「し、しかし、この十年近くの間一度も命を狙われる事などなかったのですッ!!
何故、今になって私を襲うなどと……」
先程、セイジに仕合を挑んだ際の勇ましさなど見る影もない程にアイリスは狼狽えていた。
「まだ、確定した訳では無い。今暫くは様子を見た方が良い」
「しかし、このまま放っておく訳にも行きません。
ノイス宰相殿に連絡した方が良いのでは?」
クランドが随分と落ち着いた態度だけにまだ若いセイジの方が焦れたのか、やや強い口調でそう言った。
「慌てるな、急いては事をし損じるぞ。
今暫くはアイリス嬢にはこの屋敷に滞在して貰うとしようか。
ハインは済まないが暫く部下を道場とノイス邸に貼り付かせてやってくれ」
そう言うとクランドは懐から数枚の銀貨を取り出してハインに差し出した。
「いけません、師匠。私どもは帝都の平和を守るのが職務。お金など受け取る訳には……」
ハインはお金を断ろうとするが、クランドが素早くその手を掴み金貨を握らせた。
「私も以前は同じ様な職業でいたからな。色々と入り用になる事も分かっている。
黙って取っておきなさい」
窘める様にそう言うと窓の方へ顔を背けた。
周りの者達の暖かい視線を受けるのが辛くなったのだろう。
「さて、ハイン様に表は調べて頂くとして、私の方も動くとしましょう」
そう言ったのはメイドのフェルメだ。
するりと美しい動作で動くフェルメの姿を見て、武を学んで来たアイリスはこのメイドがただ者では無い事に気付いた。
「おお、『絶影』の仕事ぶりがまた見られるのかい。これは楽しみだ」
クランドは背けていた顔を返し、ニヤリを笑みを浮かべる。
「たちどころに全てを明かしてご覧に入れましょう」
不敵な笑みを浮かべ、瞬く間にフェルメの姿が消えてしまった。
「き、消えました……」
「これは、一体何が……」
アイリス、そしてクランドとはそれなりに長い付き合いのハインも流石に驚きを隠せず声を上げた。
「ま、人には色々とあるものよ。お前達だってそうじゃないか……」
「は、はい」
「その、通りで御座います……」
そう言われたアイリスとハインは畏まって小さく頷くよりなかった。