1
オリオール帝国はここ数年騒がしい空気が流れていたが、この春の暖かさが感じられる頃になると少しばかり落ち着きを見せ始めていた。
白雷皇が帝位を継いで三年。
帝都カフィジナを縦断するマケイ川が大海へと繋がる港街の古い道場がある。
築三十年は過ぎたと思われる襤褸道場は、その白色の壁とあちこちに補修の後が見られ、全身継ぎ接ぎだらけのミイラを連想させる。
だが、看板だけは嫌に真新しく、マトイ道場とだけ記されている。
その道場の稽古場中央には二十代前半と見られる男が目を閉じ、静かにめい想していた。
魔術の道に生きる者ならば、その異様な姿に驚きの声を上げたかも知れない。彼の身体より放出される魔力が全身に纏い、そこから無数の赤い線――魔力線が蜘蛛の巣の様に道場の内側を全て覆っているのだった。
この場を同業の者が見ていたならば、この力と技を兼ね備えた男に賞賛を与えていたに違いない。
しかし、今この道場には一人も、そう一人もいないのだった。
この道場は、魔術と呼ばれる技を修める場の一つである。
昨年の終わり頃に開かれたが、今以て一人も門下に入る者はいない。
それも仕方の無い事で、魔術はこの国で多く普及しており、道場の数も王都だけで百や二百ではきかないと言われている。無名の魔術師が開いた道場などよりも、歴史がある道場や著名な魔術師の道場を選ぶのは自然というものである。
「ふぅ……」
道場主の男――セイジ・マトイが一つ息を吐くと、魔力線が消え、身体に纏っていた魔力も次第に霧散して行く。
セイジは周囲を見回すが無論誰も居ない。
各地を巡る為の旅費集めにでもと考え開いた道場であったが、どうにも上手くいっていない。これでは貯め込んであった金の方がなくなってしまいそうである。
「どうしたものか……」
独り言を漏らし、道場から離れ、住居の台所へ向かうと、棚から黒く焼かれたパンを一つ取り出す。
昨年購入し長く放置してあった黒パンは、カチカチに固まっていた。収穫の直後は麦の価格は大小共に安くなる。この時を見計らいセイジは安い黒パンはまとめ買いしたのだった。
乾燥しきったパンは冬の間は保存が利く。春頃ともなれば草木が芽吹き多くの食材が出回り、麦も相対的に安くなる。それまでと思っていたが、粘り気も柔らかさも無い黒パンの味に流石のセイジも苦痛を感じ始めていた。
「金が無ければ食もままならなくなる。道場を開いたのは失敗だっただろうか?」
孤独は独り言を増やす。
如何に精神的な鍛錬を怠らなかったセイジとはいえ、こうも長く会話もなければ精神的に参ってくる。
思い悩んだ表情で、火の魔術で竈に火を入れ、鍋の中の昨晩の残り物のスープを温める。
主食であるパンと同じく、スープの方も随分と質素なものだ。
僅かばかりのカンビラの干し肉を煮込んだ汁に、近くに済む家の女房から分けて貰った白菜に似た野菜ピセルを刻んで入れたものだ。
掬ってスープ皿に注いだものには、ほんの少しのピセルのみで、干し肉は欠片すら入っていない。
セイジはその貧相なスープで石の様なパンを何とかふやかしつつ食事を摂る。
「誰か、誰か居りませんか?」
何とか腹の方にゆとりが生まれ、一心地する為に白湯を一杯飲んでいると空となっている道場の方から声が聞こえて来る。
「うん、誰だろうか?」
セイジは残りの白湯を一飲みで空にすると、道場に入る。
「誰も居られませんか!?」
開け放たれた道場の扉の前に立つ人物こそが、声の主だった。
「何かご用かな?」
セイジが顔を出すと、その声の主ははっきりとこう言った。
「突然に申し訳ないが、一手御指南頂きたい」
それは、つまるところ道場破りというものである。
「う、ん……」
セイジは内心の驚きが顔に出ぬ様に抑え込まなければいけなかった。
それは決して道場破りが来る事に驚いた訳ではない。
その道場破りを申し出た人物が、美しい女であったからに他ならない。