湖の世界
キアヌはまた線を跨ぐ。キアヌはまた落ちる。上昇気流に煽られて、遥か上に昇って行く。右に左に煽がれて、捩れながら上に昇る。激しい動きの中でも、キアヌは静だった。右に向かって突風が吹いた。上昇気流が止まった。キアヌは仰向けに落ちる。キアヌは自分の両手を見つめた。
キアヌは落ちた。フカフカの草の上に背中から落ちた。キアヌの指に草が絡まった。キアヌが腕を上げると草もついてきた。鮮やかな緑色の草だった。キアヌは草を見た。草を見つめた。草を眺めた。キアヌは身体を起こした。緑色の地面の所々に黄色や赤が輝いている。キアヌは赤い花を手に取った。キアヌは黄色の花も手に取った。しげしげと眺めた後、キアヌは立ち上がった。遠くの方で何かがキラキラ光っていた。キアヌはその光に向かって歩いた。
光は湖だった。キアヌは湖を覗き込んだ。鏡のように自分が映った。キアヌは手を伸ばして水面に触れた。自分の姿が少し揺らいだ。キアヌは手を引っ込めた。指先についた水滴が腕を伝った。キアヌは水滴を目で追った。そよそよと風が吹いた。世界がざわめいた。キアヌは立ち上がって歩いた。湖の岸に沿って歩いた。
湖から音がした。湖の真ん中から人が出てきた。長い髪の女の人。上半身だけが水面に出ていた。キアヌは立ち止まった。女の人は滑るようにキアヌに近づいた。
「だぁれ?」
女の人はキアヌの腰の辺りから見上げて言った。
「……キアヌ」
キアヌは身を屈めて目線を合わせた。
「どこぉの世界ぃから来たぁの?」
女の人は不思議な話し方をした。キアヌは目をパチクリさせた。
「……分からない」
「そうぉなんだ。よかったぁら、うちぃに来なぁい?」
女の人は人懐こそうに微笑んだ。
キアヌは女の人の後に着いて行った。足が水中に入る。膝が水中に入る。腰が水中にはいる。それからストンッと頭まで水に埋もれた。キアヌは大きなヒレを見た。ヒレはゆっくりと下がって、上から女の人が現れた。
「ごめんね。ヒレがないの忘れてた、つかまって」
キアヌは女の人の手を取った。女の人に引っ張られて湖の中心に進んだ。キアヌは周りを見渡した。蒼色の水は下に行くほど輝きを失っていく。目の前を透明なクラゲが群れを成して漂って行った。下のほうで大きな魚が優雅に泳いでいる。キアヌは大きな街にでた。みんな女の人と同じような姿をしている。キアヌは街の石畳に足を下ろした。女の人も石畳にヒレを下ろした。女の人は滑るようにして歩いた。キアヌは歩くたびに浮き沈みした。
キアヌはドアのない草で出来た建物に連れて来られた。キアヌが手を伸ばして触る。建物がグラリと揺れた。キアヌは石畳に腰を下ろした。女の人はたくさんの料理を出した。キアヌは出された物を全て食べた。女の人は料理に手をつけなかった。
キアヌは女の人に引っ張られて水面に出た。女の人は手を振りながら戻って行った。キアヌは湖から放れた。しばらく歩くと見知った後ろ姿を見つけた。
「……セッタ」
キアヌはその後ろ姿を追った。見晴らしのいい草原。それなのにキアヌはその姿を見失った。
女の人は建物から草の袋を持ち出した。街の外に投げ捨てる。中からヒラヒラと鱗が零れ落ちた。女の人は犯罪者だった。