鏡の世界
キアヌは空間を渡った。セッタの真似をして、線を跨ぐ。跨いだ方の足が硬い地面に触れることはなかった。
キアヌは落ちる。下へ、下へ落ちて行く。キアヌは落ちるのに身を任せていた。驚くことも、恐れることもなく静に落ちていった。そうしていつしか落ちているのかさえ分からなくなった頃、遥か下のほうで何かがキラリと光った。キアヌは少しだけ顔をあげた。何が光ったのかを確認しようとした。その途端、重力が戻ってきた。キアヌはまた落ちるのを感じた。地面が、目の前に迫ってきた。キアヌはうつ伏せに着地した。あれだけ長い間落ちていたのに、キアヌは痛みを感じなかった。キアヌは立ち上がった。立ち上がって空を仰ぎ見た。そのまましばらく動かなかった。時間はゆっくりと流れていった。
キアヌは世界を歩いた。自分の知らない世界に興味を持った。しばらく歩くと、街らしきところに出た。カラフルな建物。華やかな人々。建物のドアは鏡だった。人々も手に鏡を持っている。キアヌは街の中を縫うように歩いた。この世界の人々は背が高い。だからキアヌは常に見上げていた。
キアヌは人と建物の間を気ままに歩いた。誰にも気に留められることなく歩いた。キアヌは小さな建物の前に立ち止まった。鏡のドアに目をやった。そこには灰色の半袖のワンピースを着た女の子がいた。キアヌは目を瞬いた。目の前の女の子はまだあどけなさの残る顔で、肩にかかる髪は僅かに茶色を帯びていた。キアヌは手を伸ばしてその女の子に触れようとした。でも、冷たい鏡に当たっただけだった。
その衝撃で鏡のドアが少し開いた。中から緩やかな音楽流れ出てきた。キアヌはさらに鏡を押した。ドアがまた少し開いた。代わりに、鏡の中の女の子が消えてしまった。キアヌは一歩建物の中に踏み込んだ。鏡のドアのほうを向くと、女の子がまたそこいた。キアヌはもう一度手を伸ばそうとした。鏡の中の女の子も手を伸ばした。
「君はどこの娘だね?そんな格好で出て来るなんて」
建物の奥から男の声がした。
「……この娘は誰?」
キアヌは鏡を見つめたまま、男に聞き返した。
「!?君は、鏡を知らないのかい?それは君自身だよ」
男は心底驚いているようだ。
「……私」
キアヌは鏡の前で手や足を動かしてみた。鏡の中の女の子も同じように動くのを見て目を丸くした。
「珍しいのかい?……ねえ、君はもしかして、この世界の人じゃないのかな?」
男は鏡の前に回ってキアヌを覗き込んだ。キアヌはここで初めて男を見た。スタイリッシュな白いスーツの男で、優しい目をしている。キアヌは小さく頷いた。
「何か事情があるみたいだね。今日はうちに泊まっていくといい」
男が促すと、キアヌは警戒もせずに建物の中に入って行った。
鏡のドアは丁寧に閉められた。キアヌは建物の中を見渡した。大きなピアノが勝手に音色を奏でていた。男とキアヌ以外には誰もいない。男は親切にキアヌをもてなした。キアヌも遠慮はしなかった。
その日の夜、キアヌは初めて眠った。男はしばらくキアヌの寝顔を眺めて、それからカメラを取り出した。キアヌの身体が全部入るようにパシャリと撮った。
朝。男は爽やかにキアヌを送り出した。朝日を受けて、街中の鏡が輝いている。キアヌはマイペースに歩いた。目的もなく、適当に歩いた。その後ろで男は写真を鏡のドアの裏に貼り付けていた。男は革命家だった。