一人きりの世界
キヌアは一人だった。キアヌはずっと一人だった。灰色の静かな世界で、キアヌは一人座っていた。そこはどこまでも広い世界だった。
硬くてごわごわした床。どこまでも高い天井。ずっと先のほうには、薄い線が一本走っている。その線は世界の端に沿って長く伸びて、中央にキアヌを囲んでいる。
キアヌは仰向けになった。じっと上を見つめて、ピクリともしない。空の端を探しているようにも見えた。両腕を思いっきり横に広げて、キアヌは世界の壁に触れはしないかと指に力を入れた。キアヌは小さく息を吐いた。白くて丸い雲が一つ出来た。キアヌはもう一つ息を吐いた。白くて丸い雲がもう一つ出来た。キアヌは何度も息を吐いて、丸い雲がたくさん出来た。
キアヌは雲を見つめた。ただただじっと見つめていた。やがて飽きたのか、すっくと立ち上がって歩き出した。足跡が一つ、二つ。それは一つの道になった。キアヌは何度も振り返りながら歩いた。歩く道を振り返るそれは同時に過去を振り返ることでもあった。それでもキアヌは何も思い出せなかった。目を開けたときからこの世界にいた。目を開けたときから名前を知っていた。目を開けたときから、ずっと一人だった。
キアヌはたくさん歩いた。何も考えずにただただ歩いた。やがて線が近づいてきて、キアヌは壁にぶつかった。壁はボンヤリしていて、硬くて、柔らかかった。キアヌは壁にもたれて座った。自分が歩いてきた道の先を静に見つめた。
キアヌのもとに誰かがやって来た。真っ白いシャツに茶色の短パンを着ている。背中にはリュックサックを背負っている。静かな風が流れて、その黒い短髪をサラサラとなびかせた。
キアヌは顔をあげてその子を見つめた。その子も立ったままキアヌを見つめていた。
「君は誰?」
その子が先に口を開いた。少し低めの、明るい声だった。
「……キアヌ」
キアヌは初めて口を開いた。キアヌも初めて聞く自分の声はちょっと弱々しいくて、綺麗な響きの声だった。
「へ~。いい名前だね。僕はセッタ。空間の旅人なんだ」
セッタと名乗った旅人は眩しいほどの笑顔をキアヌに向けた。キアヌはポッと頬を赤らめてそっぽを向いた。
セッタはよくしゃべる子だった。旅先で出会った人たちのことをひっきりなしに語った。それなのに自分のことは一切口にしなかった。セッタはキアヌのことにも興味を持ったが、キアヌは何一つ答えることができなかった。
「本当に、何も覚えてないの?」
「……うん」
「ふ~ん。初めて見るケースだよ。この世界には君一人しかいないみたいだし……」
セッタはリュックサックから薪やマッチを取り出していそいそと火を起こすと、串に刺したソーセージを焼き始めた。
「食べる?」
セッタはキアヌに焼きたてのソーセージを手渡した。
「どうしたの?もしかして、嫌い?」
「……これは、何?」
キアヌはキョトンとして、首をかしげながらソーセージを見つめた。
「食べ物だよ」
「……たべ、もの?」
「ほら、こうやって……」
セッタはキアヌの前で食べて見せた。それを見様見まねでキアヌも食べた。
「もしかして、物を食べるのも初めて?」
「……うん」
「お腹空かないの?」
「……?」
セッタの質問にキアヌはまた首を傾げた。
「そっか。本当にすごいね。見たことないよ」
セッタは心底感心したように目を見開いた。
セッタはリュックサックを枕に眠った。キアヌはセッタの寝顔を見つめた。セッタの呼吸に耳を澄まして、胸の上下を数えた。自分の身体にもこんな動きがあるのだろうか。キアヌの観察はセッタが目を覚ますまで続いた。
セッタは起きるとすぐに旅の準備を始めた。最後にキアヌの耳元で小さく何かを囁くと、キラキラした笑顔を残して旅立った。
キアヌは一人になった。セッタと出会って、分かれて、また一人になった。セッタがいなくなった場所を見つめて、キアヌは暖かい雫が頬を伝うのを感じた。この気持ちがなんなのか、キアヌには分からなかった。ふと、セッタの最後の言葉が蘇った。
『もし寂しくなったら、君も旅をするといいよ』
キアヌは考えた。この気持ちが寂しさなのだろうか。自分も、旅をしてみるべきなのだろうか。キアヌは頬の雫を撫でた。旅をしてみよう。キアヌは静に意を決した。