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「ここが今日泊まる宿だよー」とか「ここのお姉さんは親切なんだよー」とか、「ここのパンおいしいから、明日来よーね」とか言いながら、少女は俺の手首をガッシリ掴んで放さなかった。
あ、そうだ。
この少女は主人と呼ぶことにしよう。
それでいいよな?
──うん。
どこからともなく返事は聴こえる。
「みつかんないねー」
露店を回って色々な品物をみて回り、服など身につけるもの一式を俺に買い与えてから路地に入って、主人は言った。
「おにいちゃん、ホントに欲しいものはないの?」
先ほどから繰り返し、この質問をされている。
欲しいものなど言ったところでどうにかなるものではない。
強いて言うならこのむさ苦しい髪を縛るものが欲しいが、そんなものはどうとでもなる。別段言うものでもない。
この主人ならば与えてくれそうだが、いざというときの弱みにもなりかねない。
「……──もう、今日は帰ろっか。
宿は……どこだったっけ?」
主人は首を傾げてから、路地の入り口から頭を出して左右を見回す。
今ならば、反対側から逃げられるだろうか。
奴隷は、主人の命は絶対だ。だが、それ以外は守る必要はない。主人に逃げるなと命じられていない限り、逃げることも、主人のもとへ帰ることも自由である。そう考えるのは、極一部の者だけであるが。
逃げれば、探し出されるまでは自由が手にはいる。知らない内に売られることなど滅多にない。そのかわり、探し出されたのならば、殆どの場合は死を意味する。ただ性格が気に入らないだけでも死に至らしめられることがあるのだ。それも当然といえよう。
俺は今までに当たった主人がたまたまそういう人物ではなかった。ただ運が良かっただけにすぎない。まあ、俺たちの性格のことを黙って売れば高い値が付くというのも理由にあるだろうが。
少しだけ、離れてみようか。
逃げることはしない。
なんだかこの主人、俺が逃げると必死に探しそうである意味怖い。
主人とは反対側へ、一歩踏み出す。
少女にしかみることのできないそれは、今足を踏み出した黒髪の男の首に指をそろえた手を当て、横に一閃した。
その見えざる手が首を透けて通ると一瞬、赤い靄が辺りに満ちる。
それを認識できるのもまた、少女のみだった。
首に嫌な感触があった。
触ってみると、濡れていた。これは、冷や汗だろうか。
気のせいか?
いや、タイミングが良すぎる。
なら、この感覚は、一体──?
あの主人がやったのか?
あの主人は、この世界に存在する能力者か?
「どうしたの?」
主人が振り向く。
俺の視線に気づいたのか?
いや、ただ宿の場所を思い出しただけだろうか?
「──なんでもない。」
つい、反応してしまった。
無反応路線で決めてたはずなのに……!
主人は俺の葛藤には気づいていない(と願いたい)ようで、ボソリと呟いた。
「……──お兄ちゃんに、イタズラされちゃったんだね。」
おにいちゃんって……俺のことか?
先ほどからそう呼ばれていた記憶がある。
主人は少し怒ったような、ぼんやりとした顔で俺の背後を凝視している。
「じゃあ、これ、あげる。」
テコテコと歩いてきて差し出されたのは、主人の首に巻かれていた二つの鈴のうちの片方。
「お守りなんだ。
──お兄ちゃんのだったんだけど、お兄ちゃんはもう、ここにいないから……お兄ちゃんにイタズラされないように、おにいちゃんに、これあげる。
なくさないでね?」
俺がどうしていいものか迷って何もしないでいると、しゃがんでと言われた。
大人しくしゃがむと主人は俺の背後に回り、なにをするのかと思ったら伸ばしっぱなしのむさ苦しい髪をその鈴のひもで束ねた。
首の後ろがすっきりする。
これが、俺がこの主人の奴隷だという証になった。
動く度に、鈴の軽やかな音がする。
「それで、おにいちゃん、宿の場所って、わかるかなぁ?」