覚醒
「最近、ダンは来てくれないんだね」
セルフィスが淋しそうな笑顔を、マリスに向けた。
「軍隊に入っちゃうと、なにかと忙しいのよ」
そう言うマリスは、丸くいくつもの突起の生えた茶菓子を、ポンと口の中に放り
込んだ。
「マリスも卒業したら、軍隊に入るんだったね」
「ええ、そうよ」
セルフィスは視線を落とすと、溜め息をついた。
「きみたちが羨ましいよ。いつも元気に飛び回っていて、僕よりも年下なのに、
僕よりもたくさんのことを知ってる。僕がもう少し元気だったら、一緒に野山を
駆け巡ってみたいのに……」
柔らかい緑色の瞳は、弱々しい光を放っていた。
その瞳を見ているうちに、マリスは決心した。
「セルフィス、外に出てみない? 」
びっくりした彼は、顔を上げて、マリスを見た。
「だめだよ、そんなの。僕、病気なんだし、それに、見つかったりしたら、怒られ
ちゃうよ」
「怒られたら謝ればいいわ。あなたは身体が弱いんだから、大人たちだって、それ
ほど怒りはしないわ。例え、二度と外に出させてもらえなくなっても、一度は出られ
たんですもの。外の素晴らしさを知るだけでもいいじゃない」
マリスは、怯えたような目で尻込みしている彼の手を取った。
「一緒に行きましょう、外へ。いつかも言ってたじゃない。自分の病気は、普通の
と違って、あの不思議な力のせいなんじゃないかって。どうしても心配なら、お薬を
持って行けばいいわ。野盗のいるような危険なところには行かないから。
ね? ちょっとだけ、表に出てみましょうよ」
一度言葉を区切ってから、彼女は続けた。
「例え、野盗が現れたとしても、大丈夫。あたしが守ってあげるから」
そう言ったマリスのアメジストの瞳は、穏やかにセルフィスを見つめている。
しばらく、その瞳に見入っていたセルフィスは、ほとんど無意識のうちに、ベッド
から立ち上がっていたのだった。
「さ、早く、今のうちよ」
さっと駆け出していくマリスの後を、なんとか遅れまいと、セルフィスもついて
いく。
二人は、庭の植え込みに、素早く身を隠した。
護衛兵に見つかることなく、小宮殿を脱出した彼らは、庭の仕切りである植え込み
から、森の木々の中へと這い出し、そのまま、目印となる川に向かって走り出した。
マリスは、セルフィスの歩調に合わせて、普段よりも、速度を落として走る。
「なんだか、すごくドキドキしちゃったよ。きみたち、いつもこんなことしてたの?
ドキドキしすぎて、心臓が変にならなかった? 」
セルフィスの上気した顔を見て、マリスは笑った。
「そのドキドキがたまらないんじゃないの。ダンにそれを教わったら、いつの間にか、
やめられなくなっちゃってたのよ」
彼は、目を丸くして、マリスを見ていた。
二人は、川岸まで辿り着くと、走るのをやめ、後は歩いて川を下っていく。
「うわあ……! これが、外の世界かあ……! 」
森を抜けた時、彼の目の前は一気に開け、だだっ広い草原が広がっていた。
滅多に宮殿を出ることもなく、小宮殿に移動する際も馬車の中で寝ていた彼は、
このような広い場所を目にし、立つのは生まれて初めてのようなものであった。
「こんなに広くて、なにもなくて……ああ! この草原の向こうには、いったい何が
あるんだろう! 」
上気した頬のまま、セルフィスは、地平線の向こうまで見抜こうと、一心に見つめ
ている。
「町よ。ファレリア通りがあって、たくさんのお店やおうちがあって、森も山も湖も
あって……その向こうには、ベアトリクス城があるの」
マリスも、地平線の彼方を眺めて言った。
「ああ! ベアトリクス城は、そんなに遠いの? 僕の住んでた宮殿は更に向こうだ
から、そんなにも遠いってことだね。外はなんて広いんだろう! 」
セルフィスは、静かに興奮して、頬をバラ色に染めていた。
マリスは、じっと、その様子を見ていた。
「……なんとなく、マリスの言ったことがわかった気がする。護衛兵たちに見つから
ないか、家のものに怒られるのではないかと不安で、庭に出た時は、とってもドキ
ドキしていたけど……そんなのは一瞬に過ぎなかった。今この美しい草原の夕焼けを
見ることができただけで、僕の中の不安なんて、一遍に飛んでいってしまった。
これなんだね? 外の世界っていうのは」
セルフィスの瞳がマリスをとらえた。
マリスは微笑して、こくんと頷いた。
「ドキドキした甲斐があったでしょう? そのうち、そのスリルも快感になっていく
わよ」
いたずらっぽく笑うマリスを見て、セルフィスは笑った。
「ぼくには快感にまではならないだろうけど、ここへ連れてきてもらって、良かった
って思ってるよ。本当にありがとう。感謝してるよ、マリス」
マリスはセルフィスの笑顔を見つめた。
(……良かった。ちゃんと笑ってる)
それは、いつものあのどこか淋し気な月を思わせる、老成した笑顔とは明らかに
違い、普通の少年のような、無邪気で明るく、素直な笑顔であった。
「調子はどう? 具合悪くない? 」
「うん、大丈夫みたいだ。例え具合が悪くなっても、ここで、こんなに美しい景色を
眺めていたら、すぐに治ってしまうよ」
セルフィスはそう言うと、いつまでも夕焼けに見とれていた。
二人は、もとの道を辿り、森の中を、川の上流に沿って歩いていく。
その途中、突然辺りが暗くなったと思うと、森の木々がわざめき始めたのだった。
「な、なに? 」
セルフィスが空を見上げる。
マリスは彼を留まらせ、油断なく辺りを見回した。
野盗とは違うが、何かが迫ってくる……彼女の発達した野性的カンとも言うべき
ものが、そう告げているのだった!
「……何かが来る! 」
マリスは、セルフィスの前に進み出ると、腰に差していた剣を、すらっと引き抜い
た。
その時、『それ』は来た!
人ひとり分はあろうかと思われる真っ黒な生き物が、地面から、にょろにょろと、
あちこちから沸き上がってきた。
てっぺんの丸くなったいくつもの支柱が、地面からにょきっと生え、ゆらゆらと
揺れながら、近付く。ずるずると引き摺るような不気味な音を立てて――
「ああ、これは、いったいなに!? 」
セルフィスがマリスの後ろで、怯えた声を出す。
「わからないわ。でも、こいつらからは、……邪悪な匂いがする! 」
マリスは目を反らさずに後退りし、大木までいくと、セルフィスを大木
の後ろへ避難させてから、一番手前の黒い物体に向かって、剣を一薙ぎした。
しゅぽ~ん!
黒い柱は半分になり、飛んでいくと、しゅううっと煙に巻かれ、消えた。
それを見届けると、マリスは残りの柱をも次々切り伏せていった。
ずるずると迫って来た柱の魔物は、マリスの剣によって煙となって消えていくが、
その分、後から後から湧いて出ているようで、一向にその数は減らないと思われた。
「いったい、なんなのよ、こいつら! これじゃあ、ラチが開かないわ! 」
柱を切り飛ばしながらも、マリスはセルフィスをちらっと見る。
彼は、大木の影から、マリスを心配そうに覗いていた。
追い討ちをかけるように、新たなものまで湧き始めていた!
黒い、大人の人間ほどもある大トカゲやカエル、そして、するどい牙を生やした
魚の形をしたものまでが浮かび上がってきたのだった。
「なっ、なんなのよ、こいつらはっ! 」
それさえも、次々切り伏せていくマリスであったが、さすがに動揺する。
と、大トカゲの一匹が、ワニのような巨大な口を開け、炎が勢いよく吹き出した!
「きゃあっ! 」
マリスは咄嗟に地面に伏せた。
炎は次々と吐き出され、森の樹々に燃え移り、木も草もパチパチ言い始めたのだっ
た!
「なに!? 本物の火なわけ!? 冗談やめてよ! 」
マリスが起き上がって周りを見渡すと、セルフィスの悲鳴が聞こえた。
はっとした彼女が振り返ると、彼のいる大木にも、同じようなものが迫っていたの
だった。
それがわかる前に、彼女は既に駆け出していた。
叫ぶセルフィスの目の前で宙に浮いている巨大な黒い魚が、牙を剥き、大きく口を
開いて、彼に襲いかかった。
が、魚の動きは止まった。
彼の元へ全力疾走していたマリスの目にも、それは、はっきりとわかった。
次の瞬間、魚の顔は、きれいに斜めに線が入ったように、片側だけずり落ち、その
ままもう片側も、ぐしゃっと音を立てて、地面に崩れ落ちたのだった!
その背後には、ひとりの人影があった。
「ラン・ファ! 」
マリスが叫ぶ。
それは、まぎれもなく、あの女戦士ラン・ファであった!
「これは、魔物だわ」
ラン・ファが地面に転がった魚の飛び散った、体液を見て言った。
「魔物ですって!? 」
恐怖のあまり、茫然と立ち尽くしているセルフィスの隣に来たマリスも、同じく
地面に視線を落とす。
巨大魚の体液は、どす黒い緑色をしていた!
「久しぶりに、この剣の本来の威力を発揮する時がきたようね」
その言葉に、マリスは彼女を見上げた。
柄と刃の根本には、見事な彫刻と大きめの紅い宝石が埋め込まれた、美しい造りの
ロング・ソード――ラン・ファの手には、いつもの剣が握られていた。
「それにしても、なんで、ラン・ファがここに……? 」
女戦士は、一瞬だけにこりと笑うと、切れ長の瞳を、きりっと引き締めて言った。
「話は後よ、マリス。あなたは公子様をお守りして」
そう言い終わらないうちに、彼女は化け物たちに向かって、駆け出していた。
ぐおおおおおうううう!
しゃああああああっ!
声にならない音を上げ、魔物たちは、次々ラン・ファの剣にかかって、切り裂かれ
て行く!
黒い物体は、簡単に真っ二つに別れ、不気味な緑色の血しぶきを上げ、地面に転が
る。
辺りは、夥しい量の、黒緑色の血の海と化し、疾風のように駆け巡る
彼女の後には、魔物の屍が、あっという間に、累々と築かれていったのだった!
マリスとセルフィスにも、魔物の手は伸びていく!
マリスは、ひたすら迫って来る化け物たちを、剣で切り刻むが、ラン・ファと違い、
マリスの倒したはずの魔物たちは、切られてもすぐに切り口同士が引き合い、もとの
化け物となって、彼らに襲いかかるのだった。
(こいつら、次々と復活してるわ! これじゃあ、キリがないわ! )
しかし、恐怖を感じている間はなかった。
この人を守らなくては! ――その思いから、マリスはセルフィスを大木と自分の
間に挟み、彼を庇いながら魔物を刻む。
「マリス、後ろっ! 」
ラン・ファの声にマリスが振り返る前に、セルフィスの悲鳴が響き渡った!
マリスが見た物は、セルフィスの身体にまとわりついている、いくつもの黒い影
だった。
影は、ゆらゆらと形を一定に留めず、炎のように激しく立ち上ってみせたり、人の
手のように、彼の腕を引っ張ったり、身体を撫で回したりしているようだ。
「セルフィス! 」
マリスが剣で追い払おうにも、影は、剣に触れたところでダメージも恐れもない
ようだった。
セルフィスの中では、恐怖心が急速に膨張していった。
(夢のとおりだ……! いつも熱が出る時に見るあの夢と同じだ! 得体の知れない
黒い影が、僕を闇の中へと引きずり込んでいってしまうんだ! そして、それは、今、
現実になろうとしている……! )
彼の面が蒼白になり、恐怖が彼の心と身体を支配しつくした!
セルフィスの柔らかい金髪が、ふわっと逆立つと、突然、暴風が森中を吹き荒れた。
黒い魔物たちは、次々吹き飛ばされて行き、燃え移っていった炎も消され、マリス
までもが弾き飛ばされた。
「マリス! 」
ラン・ファがマリスの身体を受け止めると同時に、剣を持っていない方の掌を、
素早く風上に翳した。
途端に、二人は風の攻撃を浴びなくなった。流れの強い川の中にぽっかり突き出て
いる岩のように、風は行く手を阻まれ、二人の周辺を避けて通っていく。
「なっ、なにっ? 」
ラン・ファの後ろに腕を引っ張られたマリスは、自分とラン・ファのいる空間と、
魔物が吹き飛んで行く景色とを驚いて見つめた。
「防御結界よ。私の後ろにいれば、一先ずは安心だわ。だけど、私も魔道士
じゃないから、どこまで持ちこたえられるか……」
マリスを振り返らずに、ラン・ファは前方を見つめたまま説明した。
マリスはわけがわからず、ただただ周りの様子に見入る。
魔物の残骸も、何もかもが飛んでいってしまったように思われたが、マリスは前方
を見て愕然とした。
セルフィスに取りついている黒い影だけは、そこから離れてはいなかったのであった!
「ラン・ファ、セルフィスの周りにいる、あの黒い影はなんなの!? 」
マリスの叫ぶような声に、ラン・ファは振り返った。
「ダーク・シャドウ。あれも魔物よ。どうやら、公子様は非常に高い魔力を持って
いたようね。そのため、普段は滅多に魔物などは出て来ないこんな場所にまで、
『彼ら』が誘き出されてしまったのだわ。ダーク・シャドウは魔物としてはたいした
ことはないんだけど、……まずいわ、公子様は、取り憑かれ始めている! 」
「セルフィスが魔物に!? 」
動揺するマリスに、ラン・ファは冷静な表情で続けた。
「恐れや妬み・嫉み、憎悪――そういった人間の負の心は、最も魔物を
近付き易い状態にさせるわ。恐怖におののいた公子様の心の中に魔物が入り込んだの。
そのせいで公子様の魔力をコントロールする力が利かなくなり、魔力だけがどんどん
暴走を始めているんだわ」
「じゃあ、この風は……セルフィスが起こしているっていうの!? 」
ラン・ファが無言でマリスに頷いてから、セルフィスに視線を戻す。
「公子様! 目を覚まして! そんな魔物など、あなたのお力をもってすれば、
たあいもないものです! ご自分の魔力で、そいつをはねのけるのです! 」
ラン・ファがセルフィスに叫ぶが、暴風は一向に止まず、彼の面は、蒼白に引き
攣ったままであった。
「それにしても、おかしいわ。あれほどのお方が、なぜ、あんな下等魔族たちを追い
払えなかったのかしら。あんなものにまで取り憑かれるなんて……」
ラン・ファが少しだけ首を傾げ、独り言を言った。
「セルフィスが部屋の中のものを浮かせてみせたことはあったけど、魔道士の使う
魔法みたいに、炎の術や氷の術なんかを使ったところは見たことなかったわ」
マリスが不思議そうな顔で、ラン・ファを見る。
途端に、ラン・ファの顔色が変わった。
「なんですって!? ……じゃあ、公子様は、……『まだ目覚めてなかった』って
いうの!? 」
マリスには状況が飲み込めず、ただ曖昧に頷いた。
「セルフィスは、いつも具合が悪くて寝ていたの。高熱が続くこともあったわ。
あたしとダンが、こっそり遊びに行くようになってからは、身体の調子の方はいい
みたいだったけど、……彼が言うには、具合が悪いのは病気ではなくて、不思議な
力のせいなのかも知れないって」
ラン・ファが舌打ちした。
「なんてこと……! 生まれながらにして、あまりにも魔法能力が高いと、重い病と
似た症状になることがあるって聞くけど、……大公家では、それを病気だと判断して
しまって、本来なら神殿に行くものを、療養用に小宮殿を建て、公子様をそちらに
移してしまったというわけね。
だから、彼は魔力をコントロールすることを、今まで誰にも教わってはいなかった
んだわ!
それが、魔物への恐怖心によって、この場で目覚めてしまったのね! 」