小宮殿
「ファレリア通りのはずれに、最近出来たんだって、小さな宮殿が。そこでは、病気
のお姫様が、召使いたちと一緒に住んで、療養してるそうだ」
教室では、ダンとマリスが貴族の息子と話をしていた。
「まだ僕たちと同じ年頃で、生まれつき身体が弱いらしいんだ。だから、しばらくは、
家族とも離れて、自然の多いところで、病気を治すんだって」
「それ、本当なのかよ? 」
「本当だよ。使用人たちが話をしてるのを聞いたんだ。うちの父様も、お見舞いに
行くとか言ってたよ」
ダンに向かって、貴族の少年は、胸をそびやかせた。
「ふうん、可哀想ねえ」
そう言って、マリスが、ちらっとダンを見ると、彼は、にやっとマリスを見返した。
(ダンがこういう顔をする時は、決まって……)
「帰りに、ちょっとのぞきに行ってみるか」
ダンが、皆には聞こえないよう、小声でマリスに言う。
(ほうらね)
マリスも、にやっと笑い返す。
好奇心の強いダンとマリスは、授業が終わると、さっそく目的地へと赴いたの
だった。
貴族の少年の言っていた通りを抜けると、そこには、だだっ広い草原が広がって
おり、川が流れている。
『川の上流を伝っていったところにあるんだって』
少年の言葉を頼りに、二人は上流目指していく。
町からは、かなり離れ、木も生い茂っていた。
「おい、あっちに何か見えるぞ」
ダンの指さす方を、マリスも見てみると、背の低い木々が、ずらっと並んでいる。
二人はそちらへ向かっていく。
「……ここだ……! 」
葉の間から顔をのぞかせたダンが、こっそり言った。
マリスも隣から顔を出すと、そこは、広い庭となっていて、たくさんの草花が植え
られていて、その向こうには、バルコニー付きの、白く大きな建物がある。
貴族の屋敷にしては小さく、一階建てであったが、時々、警備服の男たちが、巡回
している。
「なんだろ、あの警備兵たちは……? ただの貴族の家にしては、随分、物々しいな」
ダンが首を傾げ、隣でマリスも頷いた。
見張りの姿がなくなったのを見計らい、二人は低い木々の間をくぐり抜け、草花の
影に身を隠しながら建物に近付き、こそこそと屈んで、壁に沿って進んで行く。
外壁の向こうの廊下を人の歩く音が聞こえると、二人は進むのをやめ、そのまま
息を殺した。
「……大分、お悪いようだわ」
「このまま高熱が続くようなら、危険だそうよ」
「まだお若くて、あんなにお優しい方なのに……なんて、お可哀相な! 」
使用人らしい女たちの声は、次第に遠ざかっていった。
「やっぱり、噂のお姫様は、ここにいるらしいな」
ダンがマリスの耳元で囁いた。マリスも頷く。
二人は、自分たちがこれから犯す『悪いこと』に、わくわくするようなスリルを
味わっていた。
「綺麗なカーテンだな。この部屋かな? 」
しばらく壁沿いに進んだところで、ダンが窓枠に手をかけ、そうっと部屋の中を
伺ってから、飛び降りた。たいした高さではないので、音も立たない。
「どうだった? 」
マリスは、逸る気持ちを抑えた声で尋ねる。
「お姫様は見えなかったけど、大きなベッドがあった」
ダンも興奮を押し殺した顔で答える。
二人は頷き合うと、手を伸ばし、そうっと窓枠にぶら下がり、そのまま身体を引き
上げていった。
レースのカーテン越しには、ダンの言う通り、大きな天蓋付きのベッドが見える。
その中央は、こんもりと堆くなっており、人の寝ている様子が伺える。
「あれがお姫様なのかしら? 」
小声でマリスが言った。その時、
「誰? 」
部屋の中から、弱々しい声が聞こえ、ダンもマリスも、慌てて首を引っ込めた。
『どうしよう? 』
『逃げるか? 』
マリスとダンが目配せでそう交わし、地面に飛び降りようとした。
「待って。行かないで」
声が引き止めた。
ダンとマリスが、再びそうっと部屋の中を覗くと、ベッドに寝ていた者がゆっくり
と起き上がり、窓に近付いてきたのだった。
窓が開いた。
おそるおそる二人が顔を上げてみると、そこには、金色の髪を肩まで伸ばした、
ペリドットのような柔らかい光を浮かべた緑色の瞳の少女――いや、よく見ると、
それは少年であった! ――の、整った顔が、そこにあった。
「いけない、ばあやが来る。はやく中へ」
少年に言われ、二人は、わけもわからないまま、ひゅっと窓から部屋の中に転がり
込むと、彼に促されて、とっさにベッドのしたへ潜り込んだ。
「お坊ちゃま、入りますよ」
「ああ」
年を取った女の声が聞こえ、少年は急いでベッドに潜り込む。
人の良さそうな顔をした、太った老年の女性は、トレーにカップとツボを乗せて、
部屋に入る。
「お薬の時間ですよ」
「うん」
少年は、ベッドに座ると、粉の薬を手渡され、カップに注がれた水で飲み干した。
それが済むと、適当な話をしてから、老女は去って行った。
「もう出て来てもいいよ」
少年はベッドの下に声をかける。
ダンとマリスは、もぞもぞと姿を現した。
少年は、興味深そうに、二人を見つめた。二人も、少年をまじまじと見つめていた。
年の頃は同じ位。女物のような淡い色のネグリジェらしき寝間着を着て、色が白く、
痩せている。
少年にしては、頼りないような、儚い印象であるが、病気にかかっているのでは
仕方がないだろうと、すぐに二人は思い直した。
「僕の名は、セルフィス。セルフィス・アル・フランシスだよ」
少年は、にっこり笑ってみせた。
太陽のような明るい笑顔ではなく、月のように、どこか淋し気な、だが美しい笑顔
であった。
マリスは、しばらくの間、彼のその笑顔から目が離せず、身動きさえ出来なかった。
「セルフィスって……アークラント家のセルフィス公子か!? 」
ダンの驚く声に、こくんと、セルフィスが頷く。
「アークラント大公っつったら、ベアトリクス王の弟じゃないか! ……ってことは、
……お前は、国王の甥!? 」
ダンの驚きようが新鮮のようで、セルフィスはくすくす笑った。
「きみたちは、誰なの? どうして、こんなところにいるの? よく護衛兵に見つか
らずに、ここまで来られたねえ」
「そりゃ、そうさ。俺たち、探偵ごっこは得意なんだ」
ダンが誇らし気に胸を張ってみせた。
セルフィスは感心したように、二人を交互に見て、そのうち、マリスに目を留めた。
「あれ? きみは、……女の子だったのかい? 」
マリスは、はっと我に返った。自分が、先から、この少年を見つめ続けていたこと
に、今気が付いたのだった。
「俺はダン。金獅子団将軍ランカスター伯の遠縁の者だ。こいつは、マリス。白龍団
将軍ルイス・ミラー伯の令嬢なんだ。今は、こんなカッコしてるけどな」
ダンが、からかうように、少年服のマリスの頭を、ポンポン叩いた。
「へえ、よりによって、きみたちは、ベアトリクスでも有名な、将軍たちの身内の人
だったのかい!? すごいなあ! それに、白龍団っていったら、王家の護衛でしょ
う? そうかあ、ルイス将軍のところの――」
セルフィスは、感心したように、ダンとマリスを眺めていたが、そのうち思い出し
たように、サイドテーブルから菓子を二つ取ると、二人に差し出した。
若草色をした蒸したパンであった。
「せっかくだから、お茶くらい出すよ。器がひとつしかなくて、悪いんだけど。
これも食べていいよ」
セルフィスは、予想外の来客に、嬉しそうにもてなした。
「えっ、いいのかよ」
「うん。僕はもう食べ飽きてるから」
ダンは、さっそく受け取ると、ガブッと蒸しパンにかじりついた。
「わあ、うめえな! 悪いな、こんな高級菓子もらっちゃって」
ダンの男らしく豪快に菓子に食いつく様子を見て、セルフィスは、ほんの少しだけ、
羨ましそうな目をした。
「ほんと、うめえや! ……あれ? どうした、マリス? 食べないのか? いらな
いんなら、俺がもらうぞ」
「誰が! ちゃんと食べるわよ。当たり前でしょ」
伸ばされたダンの手をペチッと叩くと、マリスは、ダンといる時はいつもそうして
いるように、大きく口を開け、パンを頬張ろうとしたのだが、なぜか小さくちぎって
から、口に入れた。家の中でしているように。
「ほんと、うまかったぜ! ありがとな、セルフィス」
ダンが上機嫌でセルフィスの肩を叩くが、はっと、手を口に当てた。
「……そうか、大公の息子なんだから、殿下って、呼ばなくちゃいけなかったんだな。
ごめん! 平民の俺が、こんなに馴れ馴れしくしちゃって……」
ダンが、ぺこぺこ謝るのを、セルフィスが笑って制した。
「いいよ。僕、同じ位の年の友達がいないから、ちょうど遊び相手が欲しかったんだ。
生まれつき身体が弱くて、外でもあんまり遊んだことがないし、同じ年頃の子と話す
機会も、あんまりなかったんだ」
伏せ目がちに語る彼を、ダンもマリスも静かに見ていた。
「だから、きみたち、僕の友達になってくれないか? そして、こうして時々遊びに
来てくれないかな」
セルフィスの大きな緑色の瞳には、普通の少年のそれにはない、頼りなげな、
すがるような色が浮かんでいた。
ダンもマリスも、それを不思議な気持ちで見つめていた。
「ああ、もちろんだ。何度でも来てやるぜ。護衛のおっちゃんたちには見つからねえ
ようにな」
ダンが黒曜石のような黒い瞳を、いたずらっぽく光らせて、胸を叩いた。
セルフィスの顔が、次第に明るくなっていった。
「ありがとう! 絶対だよ! 」
セルフィスは、いつまでも眩しそうに、二人を見つめていた。
庭の植え込みに隠れようとしたが間に合わず、警備兵に見つかり、追いかけられた
二人は、走って逃げる。
もと来た川を下っている最中、もう警備兵は追って来ないのがわかると、二人は
走るのをやめた。
「なんか、あいつ、可哀想だったな」
「そうね」
「病気だって言ってたけど、何の病気だろうな。召使いどもは、高熱が続いてるとか
なんとか言ってたけど、実際、あいつ、熱で赤い顔しながらも、しっかり喋ってたし、
……そりゃ、俺たちのような悪ガキとは違うだろうから、男にしてはお上品で、
おとなしかったけどさ」
「……そうよね」
「遊びに行けば、またうまいモンくれるかも知れねえな。いやあ、それにしても、
さっきの蒸しパンだっけ? あれは、本当にうまかったなあ! 」
思い出す度に唾液が湧いてくると言った感じで、ダンは、空を見上げ、ごくんと
つばを飲んだ。
しかし、マリスの方は、蒸しパンの味などは、全然覚えてはいなかった。
(あたしったら、いったい、どうしちゃったのかしら……? あの公子を見た途端、
なんだか不思議な気持ちになっちゃって……)
(それにしても、なんて頼りなくて、儚気な人なのかしら! まるで、
ガラスで出来ているような……手を引っ張ったりしたら、壊れてしまいそうなくらい
繊細で……。あんな男の人がいたなんて……! )
なぜかはわからなかったが、マリスは、その時、強く思ったのだった。
『あの人は、私が守っていくのだ』と。
ダンは、いつもと何気なく様子の違うマリスを不審そうに見たが、それ以上、特に
気にかけることもなく、そのまま彼女と一緒に、川の流れに沿って、道を下っていっ
た。
偶然とはいえ、それは、三人にとって、実に、運命的な出会いであった。




