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『光の王女』Dragon Sword Saga 外伝2  作者: かがみ透
第十四部『獣神の召喚』
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束の間のやすらぎ

「……思い出したことがあるの。私、あなたに、幼い頃、会っていたんだわ」


 白いシーツの上に寄り添った二つの黒い影のうちのひとつが、静かに言った。


 もうひとつの影の腕は、彼女の下を通っている。


 彼女もまた、彼の黒い衣服に隠されていて、それまで知らなかった、意外にも均整

の取れた身体付きに、うっとりと、指を這わせていった。


「私は、覚えがないが……」


 男は、相変わらず、平坦な声で返す。


「食堂で、小鳥にパンをちぎってやっているあなたを見て、なんとなく思い出したわ。

私とあなたとは、幼い頃、同じ道場に通っていたのよ」


 彼は、その碧い瞳を、意外そうに彼女に向けた。

 彼女は思い出しながら、ゆっくりと語り始めた。


「代々武道家として続いていたある家では、なぜか異様に魔力の高い子供が生まれた。

魔力が低いのが武人の特徴であり、その家でも、代々武道家の家同士の結婚を繰り

返してきたはずなのに、突然変異だったのでしょうね。ひとりだけ、生まれつき最も

魔力の高い者が生まれたわ」


 ヴァルドリューズの瞳が、じっと静かに、ラン・ファを見つめる。

 彼女は続けた。


「その子は『幼いうちは、男女ともに武道を習う』というラータンのしきたり通り、

家から近い、ある有名で大きな道場に通っていた。私は実家が遠かったから、親元

から離れて、そこに住み込んで武術を習っていた。だから、その子のことは、そこで

見掛けたんだけれど、その時は、その子の魔力が高いなんてことは知らなかったわ。

彼は、私よりも、確か二歳ほど年下だったらしいけど、とても落ち着いていて、他の

同年代の子たちとは、全然雰囲気が違ったわ。いつも静かで、でも、武道の技は、

誰よりも早く身に付けられていた。だから、他の子たちは、ちょっと近付きがたく

思っていたみたい。私も、そのひとりだった」


 ラン・ファは、彼が静かに聞いているのを確認してから、再び語り始めた。


「その子は、いつも道場の庭に来る小鳥や、動物たちに懐かれていたわ。彼が歩いて

いるだけで、小鳥は彼の肩に止まり、木の枝に飛び移りながら、彼を追う小さな動物

たちも、何度か見たことがあった。彼は、本当はやさしい人なのかも知れない。そう

思った頃、その子は、道場から去っていったわ。今度は魔道の修行に入るために……」


 ラン・ファは、そこで言葉を区切ると、彼を改めて見つめてから、言った。


「その子の名は、フェイ・ロン。まだ魔道士ヴァルドリューズと名付けられる以前の

名前よ」


 彼は、じっとラン・ファの黒い瞳を見つめた。


「……そうか。私は、幼い頃、あなたに会っていたのか……」


 彼は、特に表情は変えなかったが、ラン・ファを見る瞳が和らいだ。


「それからは、多分、あなたの過酷な魔道教育が始まったのでしょうね。噂でしか

知らないけど、優秀だったあなたは、魔道士の塔にも、若くして入ることができ、

ゆくゆくは、ラータンの宮廷魔道士にって、誰もが想像していた。そして、あなたは、

皆の期待に応え、その通りに、宮廷魔道士ヴァルドリューズとなって、再びラータン

の土を踏んだ。私は、武遊浮術(ぶゆうじゅつ)の師匠についてから独り立ちして、

いろいろなところを旅してまわっているうちに、ベアトリクスに落ち着いた。今まで

旅した中で、そこに一番長くいたわ。だから、その頃のラータンでの詳しいことは

わからないの。あなたが、宮廷で、どんなことをやっていたのか、皆の評価はどうだ

ったのかとかは、一切知らないわ。あなたが、どうして、ラータンの宮廷魔道士や、

魔道士の塔を辞めて、マリスや大魔道士と知り合ったのか、良かったら、話してくれ

ない? 」


 ヴァルドリューズは、彼女から視線を反らし、天井に向けた。


 ラン・ファは、彼が口を開くのを、じっと見守っていた。


「ラータンの皇帝は、東洋全体を統一しようと考えた。宮廷魔道士たちも寄り集まり、

東洋一を誇るその魔道の力によって、近隣諸国を従えようと企んだのだ。私を始めと

する新しく宮廷に入った魔道士たちは、皇帝の家臣たちに促されるまま、魔道士の塔

でも禁止している『魔神の召喚』を、研究するよう命じられた。私たちは、魔道士の

塔にも内密に、裏魔道士として、禁じられた研究をしていたのだ。そして、私は、

魔神の中でも、術者にとって最も危険とされる『東洋の黒い魔神ーーグルーヌ・ルー』

の召喚魔法を習得した」


「『黒い魔神』は、よほどの者でないと召喚は難しく、その身を乗っ取られて、

一国を滅ぼしてしまった例もあると聞くわ。その一番不可能とされていた魔神を、

……あなたが、召喚できたっていうの? 」


 ラン・ファは驚くが、ヴァルドリューズは特に表情を変えない。


 その魔神による悲劇的な伝説は、東方では有名な話であった。

 そのような魔神の召喚に成功し、操ることの出来る者などは、この世には存在しな

いとまで言い伝えられてきた。


「グルーヌ・ルーは全体を召喚してはいけない。一部のみの召喚だったから、彼に

乗っ取られることはなかった。私とは、単に相性が良かっただけだろう」


 ラン・ファは、あっさりとそう言いのける彼の実力が、他の魔道士たちを簡単に

越えるものであることを、改めて実感した。


「その頃からだった。ある老人が、よく夢の中に出て来て、『マリス王女と運命を

共にするのだ』と言って消えていった。それと同時に、ラータンの宮廷魔道士たちは、

魔神の召喚に、ひとりだけ成功した私の力を恐れるようになり、ある時、集団で襲い

かかってきたのだ。しかも、それは、私が忠誠を誓い、私にカシス・ルビーを授けた

皇帝の命によって……! 」


 ヴァルドリューズの瞳が、僅かに歪められた。

 ラン・ファの瞳も、心が痛んだように、彼に注がれる。


「なぜ、彼らを撃退しなかったの? あなたなら、出来たでしょう? 」


 彼女の質問に、彼は、ゆっくりと首を横に振る。


「彼らを攻撃する理由はない。恨みもない」


 淡々とそう告げてから、彼は続けた。


「私がベアトリクスへ辿り着いたのは、まったくの偶然であった。私は、魔道士たち

の攻撃を浴びている最中、無意識のうちに、ベアトリクスへと来ていた。意識は

まったくなく、それこそ死にかけていた私は、マリスとゴールダヌス殿に救われたの

だ。彼を見た時、夢の中の老人が彼であったことは、一目でわかった」


「またあのじいさんは、そういうことをする! そうやって、いかにも運命のように

仕組んでるけど、それが、人の運命を弄んでるっていうのよ」


 ラン・ファは、面白くなさそうに、美しい顔を歪めた。


「彼の思い付いた獣神の召喚には、魔神グルーヌ・ルーを呼び出せる魔道士が必要

だった。彼にサンダガーを呼び起こさせ、サンダガーを守護神に持つマリスを媒体と

して、その身に乗り移らせる。そのような方法で、最高の戦力を持ったきまぐれな

獣神を、必要な時に召喚できるよう、お考えになった。だが……」


 彼の表情が沈んだ。


「言われた通りに、マリスの呪文も成功し、私もグルーヌ・ルーの力を借りて、獣神

を呼び出すところまではできたのだが、なぜか、一度も、『彼』を召喚できていない」


 静かに視線を落とす彼に、ラン・ファは尋ねた。


「ゴールダヌスは、どうしたの? もう一度、彼に聞いてみることは出来ないの? 」


 彼は首を横に振る。


「ベアトリクスを出る際、彼は、長年の因縁ある敵によって、倒された」


「なんですって!? 」


 ラン・ファが思わず身を乗り出した。


「だって、あの人は、大魔道士でしょう? それじゃあ、その倒した相手も、大魔道

士クラス……!? 」


 ラン・ファの興奮した口調と相反して、ヴァルドリューズは穏やかに語った。


「彼は出発の時、私とマリスに、彼の魔力を分けて注いだのだ。そうして、彼の魔力

が弱まったところに、その敵が現れた。ゴールダヌス殿は、おそらく、再生も出来ず

に……」


「じゃあ、あなたの額のルビーは、どうして、まだ付いているの? それは、授けた

者と授かった者との魔力が引き合って、ついているものでしょう? どちらかが死ん

でしまっては、そんな風に、くっついていられないはずよ。もしかして、彼はまだ、

かろうじて生きているんじゃないかしら? 」


「そう考えられなくはないが、彼は、私とマリスに魔力を注ぎ、このルビーには、

彼の念がこもっている。だから、もう一人の彼の魔力を持ったマリスが生きている

限り、ここに付いたままなのかも知れない」


「……そうだったの」


 ラン・ファは、視線を落とした。


「ゴールダヌスも、バカな男ね。せっかく、私が忠告してやったのに。人の人生を

弄ぶから、ツケがまわってきたんだわ……」


 ラン・ファは静かにそう呟いた後、元通り、彼の腕を枕に、横になると、今まで

とは、がらっと調子を変え、語りかけた。


「それにしても、あなたみたいな(ひと)、初めてよ。ずっと冷静なんだもの。

いつもそうなの? 魔道士なんて、ずっと精神の修行ばかりしていて、恋愛には興味

がないのかと思ってたけど、実は、影で相当遊んでたりして……? 」


 彼女の瞳がからかうように彼を見る。

 彼は戸惑うことなく、一向に表情を変えなかった。


「そのように思った女性は、今までいなかった」


 ラン・ファの瞳は、少し真面目になった。


「……なぜ、私と……? 」


 無言の彼に、ラン・ファは怒るでもなく、少しだけ笑った。


「頭で考えても、それはわからないでしょうね。私は、わかってるわよ。あなたが、

どうして、私とこうなったか」


 その黒く輝く瞳が、やさしく彼に向けられた。


「私に恋をした? 多分、それとは違うわね。あなたは、今まで気を張りつめて

来すぎたのよ。幼い頃から魔道の勉強を押し付けられ、一流の魔道士になったら

なったで、責任のある極秘任務を押し付けられ、挙げ句の果てには、ゴールダヌスの

大それた計画を受け継ぐハメにもなってしまい、なかなか完成しない魔法に、突飛な

行動を取るマリスにも手を焼き、すべてのことに、疲れ果ててしまったんだわ。

あなたの心と身体は、やすらぎとぬくもりを求めていたのよ」


 ラン・ファは、ヴァルドリューズの(つや)のある黒髪に、すうーっと指を通し

ながら言った。


 彼の瞳は、黙って彼女を見つめる。


「マリスのことは放っておいても大丈夫よ。縛ろうとすればするほど、あの子は反発

するわ。さっきみたいに、突然飛び出していったりして、手の付けられないように

思うかも知れないけど、あれは、あなたの気を引きたい部分も、多少はあると思うわ。

あの子は、あなたともっと打ち解けたいんだと思うの。対等に見てもらいたいのよ。

これからも一緒に旅をしていくんだし、戦いのパートナーでもあるんですもの」


「……」


「それなのに、あなたときたら、特訓の後に、彼女をねぎらいもしなければ、普段も、

滅多に話しかけてやることすらしない。それじゃあ、あの子は、あなたから信用され

ていないと思うだろうし、あなたに対しても不信感を募らせていくばかりだわ。彼女

との付き合いは、これから先も長いんでしょう? だったら、少しでも、お互い歩み

寄らないと。信頼関係がなくちゃ。二人で協力し合ってこそ出来る魔法なんじゃない

のかしら? 」


 ラン・ファが起き上がり、彼の真上から見つめる。


「マリスのことは扱い辛く思ってるかも知れないけど、あの子に対しては、あなたは

寛大な父親になったつもりで、どーんと大きく構えていればいいのよ。彼女の才能を

信じて。せっかく、あなただって、うるさい魔道士の塔や、ラータンのイカレた宮廷

から抜け出せたんですもの。使命使命って、そんな死んじゃった大魔道士の言いつけ

に生真面目にとらわれていないで、いい機会だと思って、マリスみたいに、自分も

ついでに楽しんじゃえば? そうしながら、『世界平和計画』とやらの達成に向けて、

頑張っていけばいいんじゃないかしら? どんなことにだって、息抜きは必要よ」


 彼女は、一旦言葉を区切ってから、続けた。


「もうちょっと肩の力を抜いていいのよ、フェイ・ロン。あなたの本来の名前が意味

しているように、あなたのしたいように、大空を我がものとして、自由に飛び回る

龍のようにね……」


 黒い瞳がやさしくまたたいた。


 穏やかなその声は、彼の耳に心地よく響いていく。


 ラン・ファの手がヴァルドリューズの頬に添えられると、しっとりと、包み込む

ように、唇が重ねられた。


 彼は、しばらくそれに身を任せ、口づけと、常にラン・ファの(まと)う、花の

ような香りに浸っていた。


 ゆっくりと唇を離したラン・ファの瞳が、意地悪く輝く。


「実は、私が、ゴールダヌスと敵対する大魔道士の手先で、色仕掛けであなたを油断

させて、殺そうとしているとは思わなかった? 私は、武浮遊術の愛技っていう恋愛

の技を使いこなせるのよ。もし、そうだとしたら、あなたは今頃殺されてるかもよ」


「……あなたなら、なぜか、それでもいいと思えた」


 彼の意外な言葉に、ラン・ファは思わず目を見開いた。


「例え、世界を救うゴールダヌスの計画が達成されなくなっても、いいと思ったの? 

それとも、そうなれば、あなたを縛り付けるものから解放されるから? 」


「そうではない」


 ヴァルドリューズは、笑った。


 彼が笑うところを初めて見たラン・ファは、意外そうな顔になった。


「もしかして、なんだけど、……それだけ、私を……好きになった……っていう

こと? 」


 ラン・ファを見つめる彼の瞳が、和らいだ。


「……そうかも知れない」


 意外な言葉と、その微笑みに見蕩(みと)れたラン・ファが、珍しく頬を染め、

小さく「……バカ……」と呟いた。


 彼も少し照れたように微笑み、どちらからともなく、顔を近付けていった。




 翌朝、いつものように、ラン・ファとヴァルドリューズは、朝食に出かける。

 マリスは、やはり帰って来なかった。


「まったく、とんだ不良娘だわ。私の教育が裏目に出ちゃったのかしら」


 ラン・ファが仕方のなさそうに笑う。

 それを受けて、ヴァルドリューズも、少しだけ微笑んだ。


「まあ、あの子はまだ若いから、いろいろとあがいていくうちに、何が本物か、

わかってくるでしょう」


 そう言う彼女自身も、実際には、マリスと十歳しか離れておらず、貴族とは違う

平民の間では、未婚であっても、まだまだ若いとされている年頃である。


 食堂では、ヴァルドリューズが、トリの香草焼きを切り分けて、ラン・ファの器に

盛った。彼女が彼を見ると、彼は微かに微笑んで言った。


『分け与えるのは、東洋の習慣だっただろう? 』


 それは、東洋の言葉で語られていた。


 彼らは、二人きりの時には、東洋の言語を用いていた。周りの者には何を話して

いるのか、わからなかったことだろう。


 彼は相変わらず言葉は少なかったが、彼女を思い遣る様子は、常にさりげないとこ

ろで現れていた。わかりやすくも、押し付けがましくもなかったため、普通の人では

気が付かないか、または、ただの親切としか受け止められなかったことだろう。


 そして、それは、男と女の間を熟知したラン・ファであるからこそ、そのような彼

のあたたかい部分を見過ごすことなく、みつけられたのだとも言えた。


 彼女は、言葉だけに頼らず、相手の目を見ただけでも、愛情を嗅ぎ分けられるよう

だった。


『ありがとう、フェイ・ロン』


 心からの彼女の微笑みが、彼に贈られる。


 ラン・ファは彼をヴァルドリューズではなく、彼の本当の名で、よく呼んでいた。

 その名前を呼ぶ時の彼女の声には、親しみがこもっている。表情の少ない彼でも、

彼女にそう呼ばれると、僅かながらにも、目元がほころんでいた。


 マリスがラン・ファの家に帰らず、一晩中賭博場で遊んでいる時が続くと、彼らが

二人きりでいる時間も増える。


 彼らは、特に実のある話をするわけでも、かといって、たあいもない話をするでも

なく、同じ空間にいても、別々に本を読むなどしており、夜も別々の部屋で眠って

いた。


 外見的にも魅力的な美しい男女が、一つ屋根の下で一緒に暮らしているという状況

下で、もしそのように過ごしている彼らを知っている者がいたとすれば、その非常に

淡白な付き合いを不思議に思ったことだろう。それでも、二人にとっては、充分の

ようであった。




「そろそろ、旅立たなくてはならないだろう」


 ある日、彼が切り出した。やはり、東洋の言葉で。


「そう」


 彼女は、特に驚きもしなかった。


「私たちは、魔物を退治する旅を続けなくてはならない。もうこの町には、たいした

魔物はいない。世界には、もっと邪悪なものたちが分散している。魔王復活の時まで

になんとかしなくてはならないのだが、一向に、例の術を完成させていない」


「そうね。そろそろ本格的に、動かなくてはいけないようね」


 ヴァルドリューズは、じっと彼女を見つめた。


「あなたには世話になった。一緒にいれば、マリスも心強いだろうが、それは、

あなたをも、危険な戦いに巻き込むことになる。私たちの恩人であるあなたを、

そのような目に合わせるわけにはいかないと思っている」


 ラン・ファも真面目な表情で頷いた。


「私がいては、あなたたちの戦いの足を引っ張ることになるかも知れないわ。獣神を

呼び出して戦わなくてはならないほどの、大掛かりな戦闘では、足手まといになる

ばかりだものね」


 彼女が足手まといになど、なるはずもないことは、彼は充分にわかっていた。

 だが、それには、あえて何も言わなかった。


「いよいよ行ってしまうのね」


「ああ」


「頑張って。陰ながら、応援しているわ」


「ああ」


 会話は、そこで途切れた。


 涼し気な響きの夜のムシたちの声、さあっと流れていく風の音ーー自然の奏でる音

以外、そこには何もなかった。


 ふいに、ラン・ファが立ち上がり、部屋のドアへと向かう。


「ラン・ファ」


 彼の声に、彼女は、背を向けたまま立ち止まった。彼も立ち上がると、彼女の後ろ

に、ゆっくりと歩いていき、足を止めた。


 ラン・ファは目の端を指で拭う仕草をした後、振り返り、微笑んだ。


「ちょっと泣けちゃった。私、男の人の前でなんて、泣いたことなかったんだけどな」


 恥ずかしそうに視線を外す彼女を、ヴァルドリューズの瞳が、少しだけ、せつな

そうに見下ろしている。


「でも、わかってる。私が、あなたたちと一緒に行くのは、……あなたのためになら

ないってことも」


「ラン・ファ……! 」


 彼は、ラン・ファを抱きしめていた。


「……すまない……」


 彼の口からこぼれた言葉に、彼女は、少し笑ってみせた。


「謝ることなんかないじゃない。私は、自分の限界を知ってるから、あなたたちに

同行出来ないって、勝手に言ってるだけなのよ。それに私、あなたがいい男だからっ

て、時々誘惑したくなっちゃうかも知れないしね」


 彼女の口振りは、何でもないことのように軽かった。それが、本心ではないことは、

彼にはわかっていた。


「あなたは、私たちの足を引っ張るどころか、充分、心強い戦力となるだろう。だが、

一緒には行かれない。それは、私が、あなたを……愛してしまったからだ」


 彼の腕は、彼女を、より強く抱きしめた。


 ラン・ファは、しばらく、ぼう然としたように、そのまま彼に抱かれていたが、

やがて、静かに口を開いた。


「だから、すまないって謝ったの? 理由が、『愛してるから』だなんて……とても

光栄なことのはずなのに、謝られるのって、なんだか変な感じね」


 そう言って、彼を見上げて微笑んだラン・ファの頬は、濡れていた。

 彼の碧い瞳はせつなそうに、その潤んだ瞳を見つめる。


「でも、その気持ち、わかるわ。……だって、私も、まったく同じ気持ちなんです

もの……! 」


 ラン・ファの瞳からは、次々と、水晶のような粒が、あふれていた。

 それが一層、彼女の黒い瞳を、宝石のように美しくまたたかせていた。


「ラン・ファ……! 」


 彼は、再び彼女を、強く抱きしめた。


 二人とも、それ以上は何も語らなかった。


(わかってる……わかってるわ、フェイ・ロン。あなたは、私といると『ヴァルド

リューズ』でなくなってしまう。それでは、世界を守っては行かれないでしょう。

私は、ゴールダヌスの考え方は気に食わなかったけれど、世界は、神は、もしかし

たら、あなたたちを必要としているのかも知れない。それを妨げることは、私程度の

人間がしてはいけないこと。といって、一緒に参戦することは出来ない。それは、

あなたが戦いにおいて、優秀で冷静な魔道士でいられなくなると同時に、私も、

無敵の女戦士ではいられなくなってしまうからよ)


 二人は、互いを強く抱きしめていた。何も語らずに。


 時間だけが、二人の願いとは裏腹に、刻々と過ぎていった。


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