公子の決断
ある夜、ベアトリクス城下町が、ひっそりと寝静まっている頃、公子は母の部屋を
訪れていた。
「ああ、セルフィス、もっと近くに寄ってちょうだい! 」
エリザベスは、ベッドサイドに座る彼を引き寄せた。
「お母様は、今夜も眠れそうにありません。目を閉じるだけで、あの恐ろしい光景が、
すぐに甦ってきてしまうのです! 」
彼女の目からは、はらはらと涙がこぼれ落ちていた。
「お母様、大丈夫ですよ。だいいち、彼女は、もうこの国にはいないと、宮廷魔道士
たちが言っていたではありませんか」
「でも、いつまたわたくしを殺そうと現れるか、わかりません。あの悪魔のような
娘は、黒い魔物に取り憑かれているのです! 」
エリザベスは嗚咽した。息子は、母親を落ち着かせようと、やさしく背を撫でる。
「お願い、セルフィス、ずっとついていてちょうだい。わたくしが眠るまででいいか
ら。お願いよ。あなたがいなくては、お母様は、恐ろしくて、恐ろしくて……! 」
「わかっていますよ。僕が、ずっとついてます。いつものように。だから、お母様は
安心して眠ってください」
「ああ! あなたは、なんてやさしい子なの! あなたが無事でなによりです。良か
った、あの悪魔の申し子に、あなたを引き渡さずに済んで! あの娘はとうとう本性
を現したわ。あなたを騙し、捨てて出ていったのです……! 」
母は、毎晩、息子に同じことを繰り返し言っていた。
息子は憐れむような目で彼女を見つめると、ふいに、やさしい口調で語りかけた。
「さあ、お母様。もういい加減、悪い夢から、目をお覚ましになってください。こん
なに国中探しても彼女は見つからないのです。あの時のように、彼女が黒い靄
を使って空を渡れるのなら、もうとうにこの国からいなくなっていることでしょう。
国の中ばかり探しても、これ以上は無駄です。そろそろ、ミラー伯爵を牢から出して
あげましょう。あれから数ヶ月も経つのに、一向に、彼女らしい人物を見掛けた者は
いないし、ミラー家の方々も匿ってはいないみたいですし、伯爵は、本当に、
彼女の居所を知らないのじゃありませんか? 」
「……そのようね。もともと、あの娘を誘き出すために、彼を牢に入れただけですか
らね。あなたの言う通り、彼らは、本当に、彼女の居場所を知らないようね」
エリザベスは少し落ち着きを取り戻し、ベッドに横になった。
「その件は、僕が処理しておきますから、お母様は、もう安心してお眠りください。
これ以上、国民をお疑いにならずに、他の手を考えましょう。反逆者は、絶対に報い
を受けなければなりません」
静かに見下ろす息子の柔らかい金髪を、彼女は愛おし気に触れる。
「やっと、あなたもその気になってくれたのね? セルフィス。やっと、あの子を
諦めてくれるのね? そうよ、あの子は、あなたを裏切り、ライミアの王子と手を
組んで、この国を攻めるのだと、彼女自身の口で言ったのを、わたくしは、はっきり
と見ましたし、他の宮廷魔道士たちも、証言してくれています。あのような裏切り者
と結婚してしまう前で、本当に良かった! そうでなくては、今頃あなたと彼女は
結婚し、もしかしたら、お母様の代わりに、あなたが殺されそうになっていたかも
知れません。そう考えただけで……おお! なんて、恐ろしい! そんな恐ろしい
ことが起きてしまえば、お母様は気が狂ってしまいますわ! わたくしが代わりに
刺されて良かったのです。あなたがこのような目に合わなくて、本当に良かった! 」
静かに微笑んで母の手を握る彼に、母は念を押すように問いかけた。
「彼女との婚約は、破棄していいのですね? 」
エリザベスの眼差しが、真剣に彼をとらえている。
彼は、一瞬、躊躇うように黙っていたが、そのうち小さく頷いた。
「ああ、良かった! あなたは、ちゃんと悪を見抜けたのですね! それでこそ、
後の王にふさわしいお人です! 」
「やっと安心して頂けましたか? 」
「ええ、ええ! これで、もう今夜は眠れますわ! 」
母は嬉しそうに、微笑んでいる息子を見つめた。
「セルフィス、おやすみの挨拶をしてちょうだい」
彼は、母の頬に口づけた。彼女は愛おし気に微笑むと、しばらくして深い眠りに
ついた。
完全に彼女が眠ったのを見届けると、彼は、そっと部屋から出て行った。
「公子様」
公子の自室に戻ってから、彼の側付きである魔道士の青年が、早くも結界を張った。
「どういうことです? なぜ、婚約を破棄するなどとおっしゃったのですか? 」
魔道士は、細い目を少しだけつり上げて問い質すが、公子は何も答えなかっ
た。
「あなたは、本当は、今でも彼女のことを……それなのに、なぜです? 」
「彼女は、この国では反逆者だ。これ以上、僕の婚約者としているのは、おかしいと
思っただけだよ」
公子の淡々とした返事に、魔道士は黙ってしまった。
遣る瀬ない思いが、彼の主人を見つめるその瞳にだけ、現れている。
(……そんな……! 俺は、間違っていたというのか? セルフィス様だけは、
マリス様の味方だと信じていたのに……彼は、既に、国王代行の傀儡に
なってしまったのか!? )
ふいに、公子が真剣な表情で言った。
「ギルシュ、今から、牢へ向かうよ」
「えっ!? 今から? しかも、公子様自らですか!? 」
魔道士の青年は驚いていた。それには構わず、セルフィスは早足で回廊を進む。
ギルシュも、慌ててその後を追った。
罪人たちの捕われた牢獄の前に、黒いマント姿の二人が、空間から突然現れる。
彼らは、牢の中を進んで行き、やがて、ひとつの部屋の前で、立ち止まった。
その部屋は、他の牢と違い、広く、整った部屋であった。
その中で、寝台に横になっている人物が、人の気配に、ゆっくりを身を起こした。
白髪の混じった金髪の、顔にも少し皺が見られたが、その眼光は、昔といくらも
衰えてはおらずに険しく、格子の外の、黒マント二人に注がれていた。
「ルイス・ミラー白龍将軍ですね? 」
「何者だ? 」
黒マントの一人が、フードを下ろした。
柔らかい金髪に、やさしげな緑色の瞳、整った顔立ちーー牢には似つかわしくない
美しい貴族の青年の顔であった。
「公子殿下……! 」
ルイスは寝台から跳ね起きると、格子に近寄り、跪いた。
「母があなたをこんなところに何ヶ月間も閉じ込めてしまい、僕も、ずっと心を痛め
てきました。だけど、もう大丈夫です。母の許しが出ました。あなたは、明日にでも
釈放されます」
ルイスは呆気に取られて、彼の顔を見つめてから、はっとしたように言った。
「それでは、……マリスが……! 」
セルフィスは、首を横に振った。
「まだ見つかりません。ですが、あなたがたが彼女をかくまったり、密かに連絡を
取ったりということはないと判断されたのです。一刻も早く、あなたに謝りたくて、
こんな夜中に起こしに来てしまったことを、お許し下さい。そして、どうか、僕や
母を許してください」
セルフィスが、ルイスの手を握った。
「もったいないお言葉でございます、公子様……! 私は何の恨みも抱いてはおりま
せん。こうして、誤解が解けただけで、充分でございます」
ルイスは、一層低く頭を下げた。
牢から城へと戻る道中、空中を飛んでいる際に、セルフィスが言った。
「ギルシュ、ここなら、誰にも聞こえないかな? 」
「はい。私の結界の中でありますから」
セルフィスは、しばらく黙っていたが、思い切ったように口を開いた。
「マリスは、母を刺してなんかいないと思うんだ」
突然の告白に、ギルシュは驚いた。
「騒ぎを聞きつけて、僕たちが母の部屋に踏み込んだ時、確かに、マリスの持って
いた剣には血がついていたし、彼女が剣を持っていたこと自体、充分不審ではあった
けど、僕は、母を、この手に抱きかかえた時、ふと思ったんだ。マリスの持っていた
のは、ロング・ブレードだった。男の騎士が持つような、あんな大きな剣で刺した
割りには、母の傷は小さかったように思えるんだ。かと言って、切り口は深そうだっ
たけど」
ギルシュは黙って、そのまま彼の話を聞いていた。
「それに、マリスは、そんな子じゃない。あの子は、本性を巧みに隠せるような子
じゃないのは、きみだってわかってるだろう? 陰謀を企てたり、小細工をしたり、
そんなことに興味はないだろう。昔、ダンが言ってたんだ。彼女は、作戦もなく、
敵の中に、堂々と、自分から突っ込んでいくんだって。きみも、ナハダツ王国との
戦いの時に、彼女の戦い方を見たんだろう? その時は、どうだった? 」
「はい。マリス様は、その時も、騎士たちへの司令はそっちのけで、ご自分だけで
敵国の兵に斬り込んでいき、見事に勝利を収めていらっしゃいました」
ギルシュも、少し嬉しそうに答える。
セルフィスが微笑む。
「母とマリスの間に何が起こっているのかはわからないけれど、母は僕を彼女から
引き離そうとしているような気がする。ライミアの王子と共謀して、この国にけしか
けるという彼女の声を、僕も聞いて、あれはどういう意味なのかとか、なぜ剣を所持
していたのかとか、他にも不審な点は多いけど、僕は、マリスを信じることに決めた
んだ」
「……では、なぜ、姫様との婚約を取り消したのですか? 」
そっと、気遣うように、ギルシュは尋ねた。
「ああでもしないと、母は、僕を信用してくれないでしょう? 彼女に未練のある
僕の言うことは、すべて、彼女に肩入れするように聞こえてしまうだろう。僕は、
ルイス将軍を助けたかったんだ。彼女の育ての父である彼を。婚約破棄は、身を
切られるような決断だったけど、……何度考えても、そうするしかないと思ったんだ」
ギルシュは、改めてセルフィスを見た。
せつなそうな瞳のセルフィスだが、ギルシュを見て、にこりと笑った。
「母が彼女を見つけ出す前に、なんとか僕たちで彼女を探し出すんだ、ギルシュ。
誰にも怪しまれないように、反逆者を捕えて処刑するという名目でね」
「公子様! 」
ギルシュは、こみあげる喜びを、魔道士の顔にしては珍しく、満面に現した。
その町は、静かに眠っていた。石造りの家が建ち並ぶ。最後まで残っていた家の灯
りも、とうに消えていた。
町外れの森の中は、果てしなく広がる闇よりもさらに黒い
闇が、人とも獣ともつかぬものとして、そこに存在していた。
ひとりの少女が、その中を駆け抜けていく。
手には長剣が握られているが、彼女の目的は、闇の魔物たちではないらしく、剣を
振ることはなかった。
黒く、形もはっきりとしない妖魔たちは、彼女に襲いかかる瞬間を決めかねている
ようで、近付いたり、離れたりを繰り返す。
少女の口元が、僅かに動いた。何かを呟いているように。
しかし、何も起こらなかった。
闇たちは、一斉に、彼女目がけて襲いかかった。
少女は剣を一振りする。それに触れた魔物たちは、おそろしい叫び声のようなもの
とともに消滅していく。
彼女の唇は微かに動くが、またしても何事も起きず、あっという間に、襲いかかる
魔物たちに呑まれてしまった。
少女は、闇の魔物に身体中覆われ、息も出来ずにいた。剣ひとつだけでは、もう
払い切れなかった。
その様子を見ている者がいるとすれば、彼女が、魔に喰われる瞬間だと思ったに
違いない。
そこへ、突然、どこからともなく、銀色の光が差し込んだ。
光は、みるみる幅を広げ、魔を照らしていく。使い魔たちは、おぞましく吠える
ような悲鳴を上げ、その光に消されていった。
魔たちが消え失せると、銀色の光は、少女の姿を照らし出した。
光を発していたのは、黒い衣服に身を包んだ男のてのひらであった。肌も浅黒く、
つやのある黒髪の、その男自身が闇を象徴するかのようだ。
男は、ゆっくりと、倒れている少女のところまで来ると、足を止め、じっと見下ろ
した。
碧く、静かな瞳であった。
「……うっ……! 」
失いかけていた意識を取り戻した少女は、手をついて身体を起こす。
肩で荒く息をし、全身に冷や汗を流していた。
「まだまだだ」
男の冷淡な声が、彼女に当てられる。
少女は、まるで憎むような目付きで、彼を見上げた。
「あんた、あたしを殺す気!? 」
対する彼は、無言で、彼女を見下ろしているだけである。
「あんたが、あたしの白魔法さえ封じなければ……いいえ、それだけじゃないわ、
あたしの魔力も抑えなければ、あんなやつらは、このあたしに簡単には近付くこと
さえできないのに! 」
彼女は、そこで咳き込んだ。
彼が口を開く。
「お前の魔力を、今以上に高めなければならぬのだ。そうでなくては、獣神の召喚は、
到底無理だ」
何の感情も含んでいない言葉であった。
「魔力なら、ベアトリクスを出て来てから、かなり上がったわ! ゴドーにも分けて
もらったし、イメージ・トレーニングだってしてんだから! 」
「では、なぜ『全身浄化』の呪文を唱えられないのだ」
男の質問に、一瞬、彼女は口を噤んだ。
「……唱えたわよ。だけど、……出来なかったのよ」
しばらくの間、沈黙が流れる。
夜の闇の中は、静まり返っていた。
「わかったわよ! どーせ、あたしの修行が足りないって言うんでしょ! 」
沈黙に耐えられなくなった彼女は、そう言って立ち上がった。
「マリス、これから、朝にかけて、瞑想するのだ」
男は抑揚のない声で言うと、闇の中に消えていった。
「わかってるわよ。あたしには、そうするしかないんだから……」
少女は、男の消えた後で、そう呟くと、足を組んで座り、固く目を閉じた。
眠りから冷めた町は、人の出も多く、活気に満ちていた。
荷馬車を引く商人、野菜や果物、ちょっとした食べ物などを売る露店が、道の両端
に並ぶ。
町の中央には、どの町でも見掛ける大きな噴水があり、そこでたわむれている子供
達や、仲の良い男女の姿が見られた。
「見て、ジェイクだわ! 」
町娘のひとりが、細い路地から現れた一人の男を指さした。
背が高く、がっしりとした鍛え上げられた筋肉は、衣服の上からでもわかり、男が
傭兵であることは見当が付く。短い金髪の、少し目尻の上がった切れ長の目は、純粋
さとは程遠く、抜け目のなさそうな、少し捻くれているような印象を受ける。
「ジェイク! 戻ってきたのね!? 」
そこにいた数人の娘たちは、それをきっかけに、彼に群がっていった。
娘たちが、頬を染めて、男を見上げる。
彼は微笑んでみせた。
そこへ、通りかかった二人の男女に、彼は、ふと目を留めた。
男の方は並の男たちよりも背が高く、肩よりも長い黒髪に、全身を黒いマントで
覆っている。浅黒い顔は彫りが深く、東洋の血筋のようだが、碧い眼をしていた。
西洋人から見ると、東洋人の年齢は外見からは判断がつかないが、それが魔道士で
あることは、一目瞭然だった。
その少し前を歩く少女に、非常な興味を抱いたように、傭兵の目は、釘付けに
なった。
少女は、きりっとした紫色の瞳を、まっすぐ前に向けている。一瞬、赤毛かと思う
くらい、その肩よりも伸びた茶色の髪は、日の光を浴びて、オレンジに輝いていた。
かなり整った顔立ちの美しい少女であったにもかかわらず、意外なことに、平民の
少年が着るような皮のチュニックを身に付けており、更に、腰には剣まで差している
のだった。
(……女剣士か)
彼としては、女性の剣士を特に珍しいと思ったわけではなかった。傭兵たちの中に
は、時々女性もいた。
彼が、その少女に目を留めたのは、その少年のような格好と、彼女の雰囲気とが、
あまりにもそぐわないものであったと感じ取ったからであった。
(男モンの服を着てる小娘にしては、珍しく、どこか気品のようなものまであるよう
な……? )
そのうち、彼らはすれ違った。その時、少女も、ちらっと男を見た。
一瞬だけ、二人の視線がぶつかったが、彼女の方は、何の感情もない視線を、すぐ
に前方へ戻す。
「ジェイクったら、何をよそ見してるのよ」
娘たちは、傭兵の腕に絡み付くと、そのまま食堂へと連れ込んでいった。
食堂では、例の少女と魔道士が、隅の方の丸いテーブルについた。
傭兵と町娘たちは、そこから離れたところに席を取った。
「ねえ、旅のお話、聞かせてよ」
「まあ、待てよ。せめて、注文くらいさせてくれ」
小鳥のように騒ぎ立てる娘たちに、男はまんざらでもなさそうに、にやにやと笑い
ながら、店の従業員に料理を注文する。
「無事に帰ってこられたお祝いに、私たちがごちそうするわ」
「えっ、ホントかよ!? いつも悪いなあ! 」
その一角だけが、わいわいと賑やかであり、他のテーブル客たちは、黙々と食事を
していた。
『まあ、なにかしら。あんなに女の子たちを侍らせて、デレデレしちゃって』
テーブルに並べられた野菜のスープ、パン、サカナを香草で包んで焼いたものなど
を食べながら、マリスは、ヴァルドリューズに心の中から語りかけていた。
彼の方は、特に反応もせずに、食事を続ける。
『それにしても、……どの町も、どの町も、庶民の食事って、こんなに祖末なもの
しかないの? 皆、可哀想ね』
そこに並んでいるものは、少なくとも、その町の人々にとっては、ご馳走である。
ベアトリクスを出てから半年が経過していたが、訪れる町で見る食事は、どこも
似たり寄ったりであった。
生まれた時から、先進国の貴族の食事と、城での最高級の食事に慣れていたマリス
には、不憫な食事にしか映らなかった。




