東方から来た魔道士
絶対王政であるベアトリクスの国王代行となったアークラント大公夫人エリザベス
は、その権力に物を言わせ、もっともらしい理由をつけては、強引にマリスを危険な
戦地へと赴かせていた。
だが、その度に、悉く勝利を収める彼女は、どんな不利な戦闘にも負け
ることはないと、常に、騎士たちの信頼と絶対の指示を集め、勝利の女神だの、
ベアトリクスの守護神だのといった呼び名を浴びながら、帰還するのだった。
それがまた一層、夫人の神経を逆撫でする。
「お母様、なぜマリスを危険なところにばかり追いやるのです? 」
ベアトリクス城の夫人の部屋では、公子セルフィスが、ギルシュを伴い、抗議して
いた。
「彼女は、本来の国王の正統な家系で、僕との結婚も控えた、後にベアトリクス女王
となるお人ではありませんか。そんな危険ないくさにばかり彼女を出陣させて、
万が一のことにでもなったりしたら、いったいどうするおつもりです! 僕には、
彼女しか有り得ない。彼女に、もしものことがあったりしたらと、心配で心配で、
夜も眠れないのです」
セルフィスの悲痛な表情に、エリザベスは瞳を潤ませて、彼の肩を抱いた。
「まあ、セルフィス、可哀想に! お母様にも、あなたのお気持ちはよくわかります
よ! でもね、今の王に、もしものことがあれば、お母様の後には、あなたが引き
継いで、この国を取り仕切っていくのです。彼女の婚約者としてではなく、一国の王
としての目で、物事をご覧なさい。
彼女は今や勝利の女神、ベアトリクスの守り神として、あんなに騎士たちの士気を
高めているではありませんか。戦士にとって、士気というものは、戦いの勝敗を最も
左右するものなのですよ。彼女には、本当に戦士としての才覚があると、お母様は
昔から気付いていました。
彼女なら、間違いなく成功を収めてくれると信じているからこそ、かわいい娘も
同然の彼女を、胸の引き裂かれる思いで、あえて戦地へ送り込んでいるのです。
それが、今は代行とはいえ、女王としての務めなのです。
一国の王というものは、自分の感情だけで物事を決めてはならないのですよ。彼女
も、王女として、それに応えてくれているのです。あの子をおいて、今や、ベアトリ
クスの武将は語れないほどになってきています。いかに、お母様の判断が正しかった
か、あなたにもわかるでしょう、セルフィス? 」
夫人は、やさしく、息子の柔らかい金髪を撫でた。
だが、セルフィスは、その母の言葉に心を動かされたようでもなかった。
「それなら、なぜマリスの階級を下げるのです? 彼女は国王が療養中の今、最も
高い身分なのですよ。第一王位継承権者にふさわしい、我が国最高の軍隊である
金獅子団や、金竜団ならともかく、なぜ、あんなごろつきばかりを集めた、まるで
傭兵団のような軍になど、配属しなければならないのです? 彼女の王女という地位
を妬んだ者たちに、嫌がらせでもされたら……」
「冷静におなりなさい、殿下」
エリザベスの鋭い口調に、思わず彼は口を噤んだ。
「あの程度のいくさでは、わざわざ最強を誇る金獅子団や、金竜団を動かすことも
なければ、それぞれの将軍方に指揮させるほどの戦いでもないのです。しかも、
あれは、国王陛下直属の軍隊です。代行のわたくしでは、容易に動かすことはできな
いのですよ。
ですから、彼女が一番適任なのです。本人も、充分やる気ですしね。まだ若くて
女性だからといっても、あれほど、無理だと皆が思ったいくさですら、勝利を納めた
ほどのお人なのですよ。
ごろつきのひとりや二人、いいえ、一〇〇人や二〇〇人など、彼女にとっては、
どうってことはありません。彼女が王女だと発覚する以前だって、似たような平民の
ごろつきなどと一緒に、野盗を退治していたそうではありませんか」
セルフィスの目が、見開かれた。
「似たような平民のごろつきって……ダンのことですか? 彼は平民の出だったけど、
金獅子団のランカスター将軍の遠縁にあたるし、だいいち、そんなごろつきなんかで
はありませんでしたよ! 僕の大事な友人でした。お母様だって、彼をお招きした時、
一緒にお茶を飲んでいたではありませんか! 」
「誰でもいいですけれどね、とにかく、彼女の才能を信じるのですよ、セルフィス。
この先、一国を背負っていくかも知れない身として」
エリザベスは、息子がどんなに抗議しても、彼の意見をまともに聞き入れようとは
しなかった。
彼の後ろでは、ギルシュが終始無言で跪いていた。
「こんなに言っても、彼女を軍から外さないのなら、僕にだって、考えがあります」
セルフィスの瞳に普段の柔らかさはなく、明らかな反抗が表れている。
「すぐにでも、彼女をティアワナコ神殿に洗礼に行かせます。祭司長様への手配は、
僕が済ませておきました。巫女の洗礼を受ければ、おのずと戦いからは手を引くこと
となり、僕との結婚の日取りも決められます。
結婚さえ済ませてしまえば、この先、いくらお母様が、彼女をいくさに駆り立て
たくとも、そう簡単には出来なくなるでしょう。ベアトリクスの国民だって、ティア
ワナコ神殿に奉られている豊穣と勝利の女神ティアネだって、そんなことは許さな
いでしょうから」
エリザベスの瞳が、ぎらっと光った。
セルフィスの緑色の瞳は、まだ彼女を見据えている。
「あなたは、お母様のしていることに反対なの? 陛下が復活なさるまでの間に、
この国をさらに大きくしておこうというお母様の考えに、息子のあなたは賛成しては
くれないのですか? 」
彼は、母に冷たい視線を向けた。
「僕には、そんなこと必要ないように思えます。ベアトリクスは、これまで通り安泰
にしていけばいいものだと思います。豊富な資源に、経済的にも安定している先進国
でもあるこの国には、国民だって、満足してくれています。僕は、マリスとともに、
グレゴリウス陛下の御意思を継いで、この国に平和をもたらしていきたいのです。
お母様のように、攻撃的なやり方は好みません」
彼は踵を返し、側付き魔道士を連れて、母の自室から出て行った。
(あの子が……あの穏やかで、愛くるしいセルフィスが、この私にあんな目を向ける
なんて……! )
夫人の手は震えていた。
(あの子が、この私に、反抗的な態度を取ったなんて! ……みんなあの娘のせい
だわ! セルフィスを私から引き離した、あの娘ーーお兄様の子のせいだわ! )
ドレスのレースを引きちぎらんばかりに、両手で握り締める。
(結婚なんて、させるものですか! お兄様の勝手に決めた結婚なんて……! 私の
かわいいセルフィスを、あんな小娘などに渡してなるものか! )
エリザベスは、セルフィスの消えた扉を、いつまでも、燃えるような瞳で見つめて
いた。
銀色の甲冑姿で白馬に跨がるマリスは、ひとり森の中を進んでいた。
彼女は、エリザベスによって危険な戦地へ行かされることなどには、ちっとも抵抗
はなかった。
いくさや訓練の帰りなどには、決まって、ひとりで寄り道をしてから城へ戻るのが
当たり前となっていた。その辺は、彼女の周りの騎士たちも、徐々に慣れてきたのか、
彼女を城まで送ることはなくなった。
おかげで、彼女は、セルフィスの護衛である魔道士ギルシュの協力を得なくても、
頻繁に遊びに行けることになり、そうなると、エリザベスの陰謀は、マリスにとって
は、逆に自由な空気として、有り難いものとなっているようである。
「ゴドー! 久しぶり! 」
マリスは、森の中の丸太小屋の扉を、勢いよく開き、中にいる見覚えのある老人に
飛びついた。
「おお、マリス! 」
老人は、半分ただれた不気味な顔を、嬉しそうにほころばせ、マリスを抱きしめた。
「このところ、しょっちゅう遊びに来てくれるようになったのう! 」
「ええ! いくさに出るようになってからは、割と自由がきくのよ! 」
老人は、大きな方の緑色の瞳で、マリスを改めて見直す。
「王女の暮らしはどうじゃ? そういえば、この間、街に行った時に噂で聞いたが、
国王陛下が、なんだかご病気で、一時的に、政権は、アークラント大公夫人に移った
そうじゃが……? 」
マリスは少し沈んだような顔になったが、軽く微笑んでみせた。
「いやだわ、ゴドーったら、いつの話してるのよ。お父様が記憶喪失で、療養に
サリナエに行ってしまったのは、もう半年以上も前だわ。この間、あたしがここに
来た時も、知らなかったの? お義母様が国王代行となって他国といくさをするよう
になったから、あたしが武将として軍隊に入り、その帰りに、こうして、ゴドーの
ところにもまた遊びに来られるようになったんじゃないの」
「おお、そうであったか! それは、知らなんだ! 」
ゴドーは、かなり驚き、ただれて潰れかかった方の目まで、見開く。
「しかし、変わった代行じゃな。なぜ王女であるお前に、軍を引かせるのじゃ? 」
「国王も、若い時は軍を率いてたって言うから、王族でもいくさに行くのは珍しく
なくて。エリザベス殿下には、あたしが適任だからって、いつも言われてるし、確か
に、騎士の皆も、あたしのことを勝利の女神ティアネの生まれ変わりだとか、あたし
のいない戦いなんて考えられない、とまで言ってくれてるんだけど……」
マリスは、また沈んだように視線を落とした。
「お義母様は、お城で窮屈そうにしているあたしを、解放してくれようと、いくさに
行かせてくれてるんだとばかり思っていたんだけれど……あたしが勝利を収めてきて
も、最近、なんだかあんまり嬉しそうじゃないの。それどころか、あたしが率いる
騎士団の規模もレベルも、どんどん下がっていって、今じゃ、変なごろつきばかりの、
とても騎士団とは呼べないような軍隊を任されているの。
最初のうちは、皆ちっとも言うことを聞いてくれなかったから、彼ら一〇〇人を、
あたしが身体張ってひとりずつ相手になってやったら、やっとあたしの実力を認めて、
素直に従うようになっていったの。皆があまりにも弱過ぎるから、あたしが一から
鍛え直していたんだけど、どうやら、あたしの配属は、また変わるらしいの。
だめな奴等を更生させる意図もあるんだって言われてたけど、こんなにしょっ
ちゅう移動させられるなんて、やっぱり、ちょっと変よね? 」
マリスは、老人に同意を求めるような視線を送る。
「さあなあ。ワシは軍隊のことや、お偉いさん方の考えることはわからぬからのう。
それで、陛下のご容態の方は、どうなのじゃ? 」
マリスは、深い溜め息をついた。
「王の側付き魔道士バルカスが、時々宮廷に報告に来るついでに、あたしにも教えて
くれてるわ。王の体力は完全に回復してるんだけど、相変わらず記憶の方はさっぱり
で、自分が何者であるのかすら、わかっていないんですって。
愛人だった、あたしの本当のお母様の肖像画を見つめて、それがジャンヌだとは
口にするんだけど、肝心の誰かということになると、全然わからないそうなの。宮廷
画家の描いたあたしとセルフィスの肖像画を見ても、あたしと母親がごっちゃになっ
てるみたいだし……。
宮廷の人たちの間では、半年経っても一向に記憶が戻らないのでは、もしかしたら、
王はもう職務に復活するのは無理なのではないか、政権は、このままエリザベス
お義母様へと移ってしまい、彼女がこのベアトリクスの女王となってしまうのでは
ないか、とも言われているの」
マリスの俯いた瞳は、潤み始めていた。
「せっかく、気のいい王様だなーって、ちょっとお茶目なヤツだなーって思えてきた
ところだったのに、あたしの肉親は、母親が行方不明である今は、あの王様しか
いないのに、忙しくて、お見舞いにも行かせてもらえないのよ」
ゴドーが、マリスの肩に手を置いた。
「きっと大丈夫じゃよ。お前の父親なら頑丈だろうし、根性もあるだろうから、
そのうち記憶も戻るだろうよ」
「……そうよね。あの強引でしたたかなヤツが、このままくたばったりはしないわよ
ね? 」
マリスは、目の端を指で拭い、彼に笑ってみせた。
「よし、今日は、特別にワシの手料理をお前に食べさせてやろう! 」
「わぁ、ゴドーの手料理なんて、初めてだわ! 何を作ってくれるの? 」
「秘密じゃ」
「ええ? なあに? 教えてよー」
「出来上がってからのお楽しみじゃ。材料を仕入れに、ちょっと街まで行ってくるが、
お前も一緒にどうじゃ? 」
「もちろんよ! 」
ゴドーは指をパチッと鳴らせた。すると、マリスの騎士の服装は、平民の娘のよう
な格好になった。
「町娘より、男の子の格好の方が、動き易くていいのに」
「ほっほっほっ! 相変わらずじゃな」
ゴドーは、もう一度、指を鳴らした。
マリスの服は、皮のチュニックとズボンの、少年服へと変わったのだった。
二人が丸太小屋を出て、街へ向かおうとした時であった。
「あら? ねえ、ゴドー、湖のほとりに、誰か倒れてるわ」
マリスが、横たわる黒い影を見つけ、指さす。
「ほんとじゃのう」
ゴドーも、一度大きく目を見開いてから、目を凝らし、マリスとともに、その黒い
ものに歩み寄って行った。
湖のほとりにまで来たマリスが、ピクッと身体をこわばらせた。
ゴドーも、一緒に覗き込む。
「人だわ……! 死んでる……のかしら……? 」
倒れている者は、これまでマリスの見たことのない男であった。
だが、よく見ると、それは東方の女戦士ラン・ファを彷彿させる浅黒い肌をした、
黒い髪の男だった。
一見して、彼が、東洋の出身であることがわかる。
男は負傷し、全身血まみれであったが、黒い服装の上に黒いマントをはおっていた
ため、致命的な傷を負っている割りには、残酷には映らなかった。
彼の青ざめた顔の側には、割れた紅玉の破片が落ちている。
そして、その彼の顔が、彫刻のように彫りが深く、整った顔であることは、瞳が
閉じられていても充分に伝わる。
マリスは、その男のあまりに美しく、加えて神秘的な東洋の雰囲気に、しばらく
視線を放すことはできなかった。
「これは、東方の国の宮廷魔道士じゃな」ゴドーが静かに言う。
「宮廷魔道士? 東方の宮廷魔道士が、なんでこんなところに? しかも、こんなに
怪我をしてるわ」
マリスは、男から目を反らさずに、老人に問う。
ゴドーは黙って、彼の首筋に手を当てた。
「まだかろうじて息はある。ここへ辿り着いたばかりのようじゃが、……驚いた
のう! これだけの致命的なダメージを負ってはいても、息があるどころか、
……こやつは、復活し始めておる! 」
「復活……ですって!? 」
マリスが信じられない思いで、ゴドーを見上げる。
「彼を助けるのじゃ、マリス。お前も、治療の白魔法は習得しておるじゃろう? 」
「え、ええ」
マリスはゴドーに言われるまま、彼と同じく両手を男の身体に向け、呪文を唱えた。
男の顔色は、すぐには変わる様子はなく、ピクリとも動かない。
「それにしても、東洋の男の人って初めて見たけど、随分、綺麗な人ね。まるで、
彫刻に息を吹き込んだみたい」
魔力を注ぎながら、マリスが思わず彼に見蕩れ、溜め息をついた。
「うむ。これだけ美しい男というのも、東洋人の中では珍しい方じゃろう。純粋な
東の民族というよりは、多少西の血も混じっているように思える。これほどの
ハンサムな魔道士は、ワシも見たことがない。まるで、ワシの若い頃を思い出すのう」
マリスが明らかに疑いの目をゴドーに向けると、てのひらから東方の魔道士に注い
でいた緑色の光も止まってしまった。
「冗談じゃて。これ、なにをサボっとる! 早くしないと、こやつが死んでしまうぞ」
ゴドーに催促され、再びマリスは、男に緑色の光を当てたのだった。
『気が付いた? 』
少し離れたところで、少女の声がする。
木で出来た寝台の上で、男はゆっくり目を開け、辺りを見回した。
彼の知らない丸太の天井が見える。
少女は椅子から降りると、彼の側へとやって来た。
『あなたは東洋の人ね? 』
一見、平民の少年のように見えた彼女の口からは、東洋の言葉が流暢に流れた。
男は、碧い瞳を彼女に静かに向け、色が白く、紫の瞳をした、明らかに西洋の血筋
である美しい少女が話す東洋語を、不思議に思ったのか、しばらく、彼女を見つめた
後で、ゆっくりと口を開いたのだった。
『あなたが助けてくれたのか? 』
彼の平坦な声に、マリスは、こくんと頷いた。
『あたしとゴドーが、湖のほとりで行き倒れているあなたをここへ運んできたの。
ゴドーは今街へ買い物に行ってて、もうすぐ戻るわ。大丈夫? 起き上がれる? 』
マリスは、彼が身体を起こすのを手伝った。
『怪我は、だいたい治ったみたいだけど、魔力はまだ完全に戻ってはいないみたい。
あれほどの大怪我だと、体力も魔力も急激にもとに戻すのは、逆に負担がかかるから、
徐々に治していかないといけないんだって、ゴドーが言ってたわ。だから、まだ無理
はしないで、当分ここにいるといいわ』
彼の碧い瞳は、丸太でできた部屋の中をじっと眺めていた。
やはり、彼は非常に整った顔立ちであったと、マリスは改めて感じ、青緑色の透き
通る、珍しい美しい瞳を、不思議なものを見るような思いで、見つめていた。
『助けてくれて、感謝する』
男は、本当に感謝しているのかと疑いたくなるほど、淡白な口調であり、言葉も
顔も表情がなかった。
だが、マリスは別段それを不愉快には思わなかった。
魔道士というものは、日頃からあまり表情がなく、言葉にも抑揚がないものだと
いうことは、宮廷魔道士たちを見ていればわかることである。
そのような中でも、セルフィスの側付き魔道士であるギルシュは、言葉遣いも
それほど仰々しくはなく、表情もあるので、彼女も親しみ易く思っていたが、
その彼でさえ、普段は、やはり他の魔道士たち同様、あまり表情はないのだった。
『あなた、どうやって、ここへ来たの? ちなみに、ここは、東洋とは広大な辺境を
隔てて隣のベアトリクス王国よ』
『ベアトリクス……だと? 』
少しだけ、彼は、驚いたように、目を見開いた。
『……そうであったか……。では、ここは、もうラータンではないのだな』
男の呟きに、マリスは思わず、身を乗り出した。
『ラータン!? あなた、もしかして、あの東洋の大国ラータン・マオから来たって
いうの!? 」
彼女の瞳の輝きを、不思議そうに、彼の碧眼が見つめた。
『ラン・ファと一緒だわ! ねえ、あなた、ラータン出身のコウ・ラン・ファって
女戦士を知らない? ラン・ファは、しばらく、このベアトリクスにいたのよ!
あたしとも、ずっと友達だったの! 』
興奮して頬を上気させるマリスに対して、男は、すっかり冷静であった。
『知らぬ』
一言そう言って、首を横に振った。
マリスの表情からは、一瞬の輝きは失せてしまった。
自分からは、一向に何も話そうとはしない彼に、またしても、マリスの方から話し
かける。
『あなた、いったい、どうして、この国に来たの? この国を目指していたわけでは
ないみたいなのに。それに、あなたの傷、相当深かったわ。魔道士でも、あそこまで
の傷を負わされたら、いくらあたしたちの発見が早かったとはいえ、こんな風に
短時間で、ここまで回復するのなんかは無理だわ。あなたは、いったい何者なの? 』
『私は、ただの魔道士だ』
その一言だけで、彼は再び沈黙した。
それ以上、口を開く様子のない彼を見て、マリスは溜め息をつくと、気を取り直し
た。
『自己紹介が遅れて悪かったわね。あたしは、マリス。こんな格好はしてるけど、
実は、ここベアトリクスの王女なの。よろしくね』
『マリス……王女だと? 』
男は、改めてマリスを見直した。
『……そう……か……。では、私が、ここへ辿り着いたのは、偶然ではなく、必然的
なものだったのだな』
マリスは、男の呟く東洋語が、少し難しかったのか、よく意味がわからないような
顔になった。
男は続けて言った。
『私の名は、ヴァルドリューズ。どうやら、私とあなたは、運命を共にするらしい』
『運命を共に……ですって!? 』
マリスは、彼の寝台から、飛び退いた。
「じょじょじょじょ、じょーだん言わないでよ! あたしには、セルフィスって
婚約者が、ちゃんといるんだから……! あなたみたいな得体の知れない魔道士と、
なーんで一緒にならなきゃいけないのよ! 」
マリスは、カーッと赤くなり、思わず標準語に戻って、叫んでいた。
ヴァルドリューズと名乗った魔道士の男は、僅かに首を傾げていたが、真顔のまま
続けた。
「そのような意味を持つものかどうかは知らぬが、夢の中に度々現れるなぞの老人に、
『王女マリスと運命を共にするのだ』と言われ続けてきた。そして、もうひとつ、
こちらは、魔神のお告げによるものだが、ある剣士の青年とも出会うだろうと。
その青年が、私たちの運命に、大いに力を貸してくれることだろう、ということだ」
マリスは、大きな瞳はパチクリさせ、ぼう然と、魔道士を見ていたが、そのうち、
ハッと我に返った。
「ちょ、ちょっと、あなた、西洋の言葉がわかるの!? 」
驚いている彼女に、ヴァルドリューズは平然と頷いた。
「だったら、最初から標準語で話しなさいよ! 」
マリスは顔を赤らめたまま、前傾姿勢で彼に怒鳴った。
彼は、特に気にもしていないようで、部屋の中を、ゆっくりと見回していた。
「どうしたのかね、マリス? 食べていかないのかね? 」
ゴドーの手料理が並ぶ丸いテーブルから、彼女は顔を引き攣らせ、後ずさった。
テーブルの上には、得体の知れない黒焦げになった生物や、しなびた植物を、白い
クリームであえたもの、昔、この部屋でマリスが見た覚えのある魔物サラマンダーの
頭を煮たものといった、料理というよりは奇抜で、大変不気味な品々が、いっぱいに
広げられているのだった。
テーブルにはゴドーと、ベッドから起き上がったヴァルドリューズとが、席に
ついている。
ゴドーはヴァルドリューズに微笑みかけた。
「病み上がりには、少々刺激が強いかも知れぬから、やめておいた方が良いだろう。
おぬしは、こちらのミルクだけ飲むと良い」
(だったら、作らないでよ、そんなゲテモノ! )
マリスはテーブルから距離を取り、それ以上近付こうとはしない。
「どうしたのじゃ、マリス、お前も一緒に食べなさい」
「いいいい、いいわよ! 遠慮しとく。あたし、お城に戻らなくちゃ! 」
マリスが銀色の甲冑をさっさと身に着け、外に出る扉に向かって、早足で歩いて
いった。
「なんじゃ、食べんのか」
ゴドーは少しがっかりして、緑色の瞳を沈ませた。
「じゃ、じゃあね、ゴドー。また今度ね」
そそくさと出ていこうとするマリスに、ゴドーは思い出したように言った。
「おお、そうじゃ、マリス。お前、洗礼は、確かまだであったな」
「ええ、そうだけど……? 」
いきなり何を言い出すのかと、怪訝そうにマリスが振り返る。
ゴドーは真面目な顔になって言った。
「ただの洗礼ではないぞ。白魔道士としての修行が必要じゃ。それだけは、早く
済ませるのだ。良いか、わかったな。早いうちに、ティアワナコ神殿へ行くのだぞ」
威厳を孕んだ彼の声に、マリスは、真面目な顔になった。
「じいちゃんが前から言ってた『そのうち、あたしが魔物とも戦うようになる』って
ことと、関係あるの? 」
ゴドーから聞いていた、世の中では、少しずつ魔物が増え、被害をもたらしている
ことを、マリスは思い浮かべ、彼の、大きい方の瞳に、深刻さを認めた。
「はあ、神殿行きを、いくさで忙しいからって引き延ばしてきたけど、どうやら、
もう逃れられないみたいね。セルフィスにも急かされてるし、ちょうど次の隊の
配属もまだ決まる前だから、今のうちの方がタイミングもいいわよね。ま、ただの
洗礼よりは、白魔道士っていう方が面白そうだし、あたしの性にも合ってる
と思うわ」
観念したように笑ってみせたマリスは、ゴドーとヴァルドリューズにしばしの別れ
の挨拶を告げると、小屋の外につないであった白いウマに跨がり、城へと一直線に
走っていった。
「さて、東方の魔道士よ。食事が終わったら、ちょっと付き合ってもらうぞ」
黒焦げになった生物の腕らしきところをかじりながら、ゴドーは、にこやかな表情
に戻って言った。
ヴァルドリューズは手にしていたミルクのツボを置くと、彼を見つめた。
「あなたが時々私の夢に現れていたお方ですね」
彼の口調は、マリスに対するものとは違い、丁寧で、尊敬までもが含まれていた。
「偉大なる伝説の大魔道士、ゴドリオ・ゴールダヌス殿」
ゴドーの瞳がきらっと光り、ヴァルドリューズの声に振り返る。
ヴァルドリューズの表情のない切れ長の碧眼もまた、ゴドーの緑色の瞳に、見据え
られていた。




