我が名はゴールダヌス
「うわああ! 火事だあ! 」
「みんな、逃げろー! 」
ヴェセック・シティーの町中では、太い火柱が、天を焦がしていた。
ベアトリクス王国の中心街ではなく、郊外にあたり、住民のほとんどが平民で、
かなり広範囲の街である。
町人たちは、桶で水を汲み、消火活動を急ぐが、火の手は、一向に収まることは
なかった。
「ねえ、ダン、火事ですって」
「ああ」
学校帰りに寄り道をして、ちょうどこの街に立ち寄っていたダンとマリスが、人垣
に紛れていた。
「子供は、近寄っちゃいかん! 」
住民たちに押し出されても、二人は諦めず、そこから離れた木の上によじ登った。
「だめだ! どんどん火の勢いが強くなるばっかりだ! 」
「誰か、魔道士を! 魔道士を連れてこい! 」
男たちが口々に、そう叫ぶのが聞こえる。
「魔道士? 」
マリスが、ダンを見る。
「魔道士なら、不思議な術で、水や氷を出したり出来るそうだ。俺が今世話になって
る親戚の、あのランカスター伯爵の家にも、魔道士の使用人がいるぜ」
道端の露店で買った、棒に刺して焼いた肉詰めを頬張りながら、ダンはもうひとつ
同じものをマリスに手渡す。
二人は、木の枝に腰掛け、肉詰めを食べながら、暢気に火事を見学して
いた。
「ワシが、火事を止めてみせよう! 」
年老いた男の声が聞こえ、人々が振り返る。
老人は青いガウンのような長いチュニックに身を包み、頭には、髪の毛が一本も
ない。背中がかなり曲がっていたが、それでも、背丈は高いことがわかる。
神官の持つ錫杖に似た、茶色い木の枝で出来た杖をつきながら、
しっかりとしない足取りで、よたよたと歩いてきている。
人々は、ぎょっとしたような顔で老人を避け、離れたところにいる者も、怖いもの
見たさのように、彼から視線を反らせないでいた。
老人がくるりと振り返った時、木の上から見ていたダンもマリスも、あっと声を
上げそうになった。
老人の顔は、半分皮膚が溶けかかり、ただれていたのだった。
「おい、じいさん。危ないから、下がってろよ! 」
一人の男が、老人の手を引いて、下がらせようとした途端に、老人はよろめき、
その場に倒れてしまった。
「ほら、言わんこっちゃない。怪我する前に、安全なところに隠れてな! 」
街の人々は、口々にそう言い、消火活動を続けていたものたちは、再開する。
「我が名は、偉大なる大魔道士、ゴールダヌスである! 」
老人が、突然、重々しい声で、そう告げた。
人々は、またしても彼に注目した。
「ごーるなんとか……? 」
木の上で、マリスが、ダンを見る。彼も首を傾げ、わけのわかっていない表情を、
彼女に返しただけだった。
「ウソつけ! そんな大昔の大魔道士が、こんなところにいるわけないだろう! 」
「このじいさん、きっと、気でも狂ってるんだろう」
「よくいるんだよ、『我こそは、本物のゴールダヌスなり! 』とか言い出す、
イカレた奴が! 」
人々は、老人には構わず、桶に水を汲んで来ては、燃えている木の小屋にかける
作業を繰り返す。
「ウソではない。本当じゃ! 」
青い衣の老人は、転がった杖を手にして、立ち上がると、またしても、よろよろと
火元に近付いて行く。
「危ねえぞ、じいさん! 」
「もう放っておこうぜ」
二通りの声が、ダンたちにも聞き取れる。
「ワシの魔法で、こんな炎なぞ、一瞬にして消してくれるわ! 出でよ、クリス
タル・ブリザード! 」
老人は両手を持ち上げるような格好で、天を仰いだ。
一瞬だけ、町人たちは手を止め、老人のどこか威厳のある、神憑った
ようにも取れるその様子に、見入った。
もし、この老人が、自分で名乗ったように、あの伝説の大魔道士ゴールダヌスで
あるのなら――!
誰もが、瞬時に、期待を込めた眼差しで、彼を見据える。
それは、木に腰掛けて見ている二人も、同じであった。ダンもマリスも、その老人
の起こす魔術とやらに、期待を込めて目を輝かせる。
だが、実際には、何も起こらなかった。
火は揺るぎもせず、これまでと同じか、それ以上の炎を吹き上げている。
「ほら、じいさん。何も起こりゃあしないじゃないか」
「さあ、どいた、どいた! 邪魔だよ! 」
老人は、忙しく動き回る人々にぶつかられ、またよろよろと倒れ込む。
そこへ、三人の黒いマントをはためかせ、飛んで来るのを見付けた人々が、空を
指さして声を上げた。
「宮廷魔道士様だ! 」
「宮廷魔道士様が、来て下さったからには、もう安心だ! 」
三人の魔道士は、ふわりと地上に降り立つ。
木の上から見下ろしていたダンとマリスは、またしても、目を見張る。
彼ら魔道士たちの額には、真っ赤に輝く宝石が、嵌め込まれていた。
宮廷魔道士と呼ばれたその三人は、建物の周りに散ると、片方の掌を、それぞれ
炎に向けた。
彼らの掌からは、一斉に水が吹き出し、それは、みるみる広がり、彼らの術が重な
り合うと、今度は氷となって膨張して行き、天まで伸び上がっていた炎の先まで、
包み込んでしまったのだった。
「これで、もう大丈夫だろう」
魔道士たちは、三人とも一列に並び、町人たちの方を向き、平坦な物の言い方で、
そう告げた。
その言い方どころか、彼らは、飛んで来た時も、火を消している時も、すべて無表
情であった。沈んだような、冷たく見える瞳は、ちゃんとものが見えているのかと、
誰もが疑いたくなったことだろう。
だが、ベアトリクスの国民たちは、魔道士というものに慣れていた。魔道士とは、
厳しい精神の修行により、多少のことでは動じない性質になってしまっているのだと、
人々は、そう解釈していたので、別段、彼らを不気味だとか、愛想が悪いなどとは、
感じてはいなかった。
「怪我人は、いないか? 」
魔道士たちは、火傷や、転んで怪我を負った者たちの、魔術による治療を始めた。
「あんたも、診てもらうか? じいさん」
尻餅をつき、ぽかんと口を開けている青いチュニックの老人を、からかう者もいた。
魔道士のひとりが、ちらっと老人を見る。
「魔力はほとんどない。老人よ、怪我をする前に、魔道士のまねごとなどは、やめて
おくのだな」
老人は顔を真っ赤にして、杖を支えに起き上がると、よたよたと杖をつきながら、
もと来た方へと、足早に去って行った。
「ありゃあ、ゴドーだ。森の中にひとりで住んでるキコリのじいさんだぜ。自分の
ことを魔道士だと思い込んでる、キチガイなんだ」
町人のひとりが、青い衣の後ろ姿を指差し、笑い声を上げた。
「人騒がせなじじいだな! 」
火事も収まり、ほっとした人々の口からは、安堵からくる言葉が、次々と出て来て
いた。
「よし、マリス、探偵ごっこだ」
ふいに、ダンが言い出した。
「あのじいさんの後を付けていこうぜ。あんなマヌケそうなヤツなら、すぐに付けら
れるだろう」
「うん」
二人は木から降りると、老人の後を目指して、一目散に駆けて行った。
「あれえ? どこ行っちゃったんだろうなぁ」
森の中で、ダンがきょろきょろ見渡す。マリスもきょろきょろしてみるが、つい
先程まで追ってきた青い衣姿が、忽然と消えてしまった。
「なんだよ。あのじいさんなら、トロそうだったから、最後まで気付かれずに、尾行
できると思ったのになぁ」
ダンが、がっかりしたように、側に立つ木に寄りかかった時だった。
「失礼な! 誰がトロいじゃと? 」
ダンの寄りかかった木の後ろから、青い衣の老人が現れ、ダンとマリスはびっくり
して飛び上がり、身を寄せ合った。
老人は、近くで見ると、一層不気味であった。
顔の右半分はただれ、その目は見えてはいるようだが、ほとんど塞がってしまって
いる。背中もかなり曲がっていて、背骨がごつごつと出っ張っている。非常に痩せて
いて、手などはトリの骨を思わせるほど、骨と皮ばかりに思われる。皮膚も皺やシミ
だらけだ。
ただれていない方の顔も、決して人の好い年寄りの顔ではなかった。目がぎょろっ
と大きく、緑色の眼球は濁っている。禿げ山のような頭も、近くで見ると、髪の毛が
一本もないわけではなく、何本か、ところどころから垂れ下がっているのがわかった
が、色素のなくなってしまった透き通るような白い毛だったため、遠目ではわからな
かったのだ。
今見ると、まったくの禿げ頭でいてくれた方が、はるかに良かったと思えるくらい、
ところどころ生えた髪がだらしなく、汚らしいといった印象を与え、人々に嫌悪感を
一層募らせるのだった。
「このワンパク小僧どもめ! ワシをからかいに来おったか! 」
老人は杖を振り翳し、ダンとマリスとをじろじろ見比べて怒った。
「わ、悪かったよ、じいさん。謝るからさ、そんなに睨まないでくれよ」
ダンが後退りしながら言う。
「いや、子供と喋るのは久しぶりじゃ。お前たち、ワシの家が知りたいのなら、教え
てやろう。こっちじゃ」
突然上機嫌になった老人は、笑顔になったのだが、不気味さが薄れるわけではなか
った。
「なんだろうな、このじいさん。ころころ態度変えちゃって。やっぱり、ここがイカ
レてんのかな? 」
ダンが自分の頭を指さして、小声でマリスに言う。
マリスも眉を寄せ、首を傾げた。
「い、いいよ、案内してくれなくて。俺たち、もう帰るからさ。な、マリス? 」
「マリス……じゃと? 」
老人の無事な方の瞳が大きく見開き、マリスに注がれた。
「おお! なんじゃ、おぬしは女の子ではないか! そんな格好をしとるもんだから、
つい男の子だとばかり思っておったよ! 」
老人は、にこやかにマリスの肩を抱えた。
「マ、マリス……! 」
心配そうなダンの顔に、マリスは、にこっと微笑んだ。
「大丈夫よ、ダン。おじいさんの家に、ちょっと行ってみましょうよ」
「大丈夫って……なんで、そんなことわかるんだよ」
「う~ん、……ただ、なんとなく」
老人に連れていかれるマリスの後ろ姿を、ダンは、しばらく、ぼう然と見つめて
いた。
「うわあっ! なんだ、これは!? 」
その老人の家に入った途端、ダンとマリスは叫び声を上げていた。
丸太で出来た小さな小屋だと思っていたのが、一歩足を踏み入れると、夜空の星々
の中に放り出されたような、不思議な景色が、果てしなく広がっているのであった!
「お茶でも飲むかね? 」
老人は、ふわりと浮かび上がると、1階の天井あたりの高さで止まり、ポンと、
木で出来たような安楽椅子が、突如出現した。
「どうだね、お前さんたちも、来てみるかね? 」
宙に浮いた椅子に凭れかかり、ツボを器に傾け、それを口に運びながら、
老人は子供達に笑いかけた。
「そんなとこ、行かれないよ。じいさんが降りてきてよ」
ダンが弱気な声を出す。
「なあに、ここまで飛び上がるのは、この家では、ごく自然なことじゃよ。出来ない
と思っておっては、いつまで経っても出来ぬがのう」
マリスは、少しの間考えていたが、思い切って飛び上がってみた。
不思議なことに、少しだけ、彼女の身体は、宙に浮かんだのだった!
「そうじゃ、そんな感じじゃ。もう少し強く念じてごらん。そうすれば、ここまで
辿り着けるぞ」
言われて、すーっと、マリスの身体は、もとの立っていた位置に降りていき、次に、
彼女がふわりと飛び上がった時は、老人の座っている高さまで、昇って行かれたのだ
った。
「そうじゃ。よう来たのう! まあ、そちらに座るが良い。何が飲みたいかね? 」
木で出来たテーブルの前に、普通の四つ足の椅子が、ぱっと現れ、彼女はそれに
腰掛けた。
「マラスキーノ・ティー」
「ほほう! 子供のくせに、随分と、香りの強い茶が好きらしい! 」
老人は嬉々として、パチンと指を鳴らした。
すると、空中に、ポットが、カップとともに現れ、それを手にした彼は、茶を注い
だ。
「……マラスキーノの香りだわ! 」
マリスがカップを受け取り、一口啜る。
「美味しい! 本物のマラスキーノ・ティーだわ! 」
「そうじゃろう? 」
テーブルについたマリスは、不安定さなど気にかけることもなく、不思議で、楽し
い想いでいっぱいだった。
「おーい、俺は、どうなるんだよー! 」
下の方で声がして、マリスが見ると、ダンがひとりで心配そうな顔で、見上げて
いるのだった。
「ダンもおいでよ。おもしろいわよ」
「行くったって、どうやるんだよー」
「簡単よ。ポ~ンて飛べばいいのよ」
「できるかい! そんなこと」
「じゃあ、迎えに行ってあげる」
マリスは椅子から降りると、そのままゆっくり下降していき、地面に降り立った。
「ほう。もう感覚を掴みおったか」
上から、老人が感心したように、マリスを見下ろす。
マリスがダンの腕を抱えて飛び上がった。
「うわーっ! 」
足が、地だったところを離れてしまうと、ダンは、両足をばたつかせた。
二人は、ふわふわと浮かんで行き、マリスの座っていた椅子の高さまで、辿り着い
た。
「ほら、来れたでしょう? 」
「あ、ああ……」
ダンは、ぼう然として、自分の位置に現れた椅子に腰掛け、マリスからマラスキー
ノ・ティーをわけてもらう。
半信半疑のダンとは対照的に、マリスは、この不思議な空間が、すっかり気に入っ
たようだ。
(あの時の赤ん坊が、こんなに大きく……! 今は、まだ目覚めてはいないが、この
子には、そのうち、とてつもない魔力が備わるだろう……! )
老人は、じっとマリスの顔を、見つめていた。