ナハダツ王国
ナハダツ国の町を進んでいく、青い鎧のベアトリクス軍を、民は怯えたように、
物の影から、顔を覗かせていた。
「ママー、あれだぁれ? 」
「シッ! 指を指してはいけませんよ! 神様に嫌われますよ」
「あれは、隣のベアトリクス王国の軍隊じゃないか? 」
「なんだって、この国へ……? 」
「まさか、占領しに!? 」
「そんなことはないだろう。こちらには、ブーディラの神がついているのだから」
兵士たちよりは穏やかな顔つきの民たちであるが、その信仰心は、兵士町人問わず、
熱心であることが伺える。
軍の前方を進んでいるマリスは、その町並みを見回し、ふと首を傾げた。
(いたるところに変な絵の描かれた看板があるわ。あれはいったいなんなのかしら? )
そうこうしているうちに、ナハダツ城に着く。
城はすんなりと開門し、マリスは数十人の騎士たちを引き連れ、入っていく。
「……ということで、ダー・ヴァ将軍を始め、そちらの兵は、わたくしどもが
預かっております。交換条件です。こちらの証書にサインをお願い致します」
毅然とした態度で、銀色の甲冑姿のマリスが、ナハダツ王に証書を見せる。
王は、先とは違う猛獣の角の付いた冠を被り、上半身裸の上に直に皮の防具を身に
付け、白いマントをはおっている。
ぎょろっとした目は、ベアトリクス青竜団をじろじろ眺め、白髪の混じった灰色の
口髭と頬からあごにかけて生えている髭も手伝い、蛮族の王と呼ぶにふさわしいと、
ベアトリクス人からすれば思えたほどの巨大な、迫力のある大男であったが、一四歳
のマリスは、一向に動じることはなかった。
「わかった。サインは書斎でする。ついてくるがよい」
王は、どこか訛った標準語でそういうと、のしのしと歩いていく。
「これより先は、ブーディラの神を祀る神聖な室であり、この室への、王族
以外の入室は禁ずる。王女以外のものどもは、謁見の間にて、このまま待て」
青竜団騎士たちは心配そうな面持ちで、顔を見合わせ、マリスを見るが、マリスが
凛とした態度のままで彼らに頷いてみせると、副将はやむを得ずその場で待機の合図
を出した。
「なかなか度胸あるおなごだ。先の外交官より、お前の方が堂々としておるわ」
猛獣のような凄みのある巨大な姿に続き、マリスは回廊を通り、平然と扉の中へ
入った。
ドアが閉まる時、カチリと、錠のかかる小さな音がした。
「しばし、待て」
王は、彼にとって少々小さいが豪華な石のテーブルの上で、証書に目を通し、
サインをした。
マリスは、油断なく部屋の中を見回していた。他に人の気配などはないのがわかる
と、今度は部屋の装飾に気を配る。
謁見の間と同じような極彩色の敷物に、ここにも神の絵が額縁に嵌め込まれ、
飾られていた。
(またあの絵だわ。町の看板にもあったあの不気味な絵。ナハダツ族の崇めている
神かしら? ああ、目が腐る! )
マリスは不快な思いで、その絵から目を反らした。
王からサインの入った証書を受け取り、確認すると、マリスは挨拶をして、部屋
から出て行こうとする。
「そうそう。そちらの女王陛下から、貢ぎ物を頂けるという話だったが」
「貢ぎ物……? 」
マリスが怪訝そうな顔で振り返った途端、両腕が王の手一本によって掴まれ、
そのまま宙に浮かされた。
彼のもう片方の手が天井から下りた紐を引くと、黄色のビロードのカーテンが、
するすると開いて行き、そこには、やたらに彫刻や装飾の施された仰々しい大きな
ベッドが現れたのだった!
「きゃっ! 」
マリスはその上に投げ出された。
巨体であるその王が横になるのにも充分な広さであったが、それよりもずっと小柄
なマリスでは、十人分は並べそうだ。
「……あ、あんた……! 」
アメジストの瞳は、キッと王に向けられた。額には汗が流れ、彼女の表情は、苦痛
に歪む。
「ふっふっ…、腕の関節は外させてもらった。おぬしが威勢のいい小娘だということ
は、聞いておったからのう」
「……あたしを、どうする気……!? 」
両手をだらりと下げたままベッドの上に起き上がり、少しずつ奥へと、膝で後退
して行く。
「だから、ベアトリクス女王から、ワシへの貢ぎ物だよ」
それまで表情のなかったナハダツ王は、にやりと笑ったかと思うと、マリスの両腕
を掴み、ベッドの上で押し倒した。
マリスの顔を掴めるくらい巨大な手の、太い指が、かしゃっ、かしゃっと、銀色の
鎧を外していく。
「なんとまあ、細っこいことだ! まだ子供だが、まあよい。お前はワシの愛人と
して、この城で、永遠に、ワシに尽くすのだ! 」
「なっ! なによ、それ! 」
その大きな手は、鎧の下にある騎士の衣服にも、伸びていく。
必死でもがこうとする彼女の身体は、上半身はほとんど言うことを聞かず、足も、
王の足に押さえつけられた。
「汚らわしい! 触らないで! 」
マリスの必死の抵抗もむなしく、とうとう彼女を覆っている唯一の薄物に、王が
手をかけようとした時だった。
ふいに、彼の身体は硬直したように動きが止まり、どさっと、彼女の上に覆い
被さった。
「きゃあああっ! 」
マリスが喚きながら両足で撥ね除けると、王の巨体は、簡単に、どさんと、
ベッドの外に落ちたのだった。
「どうやら、間に合ったみたいですね」
マリスが声のする方を見上げると、空中には、ギルシュが浮かんでいたのだった。
「……ギルシュ……! 」
一瞬、ぼう然としていたマリスの瞳からは、途端に、安心したように、ぽろぽろと
涙がこぼれ落ちた。
「もう大丈夫ですよ、姫君。今、直して差し上げますからね」
ギルシュはベッドの上に降り立つと、てのひらをマリスの腕にかざした。
マリスの腕からは、痛みはみるみる引いていき、すぐに、もとどおりに動かせる
ようになったのだった。
「ギルシュ! 」
マリスは自由になった腕で、彼の首に飛びついた。
「怖かったですか? でも、もう大丈夫ですよ。大丈夫」
ギルシュはマリスを包み込み、泣いている子供をあやすように、軽く背を叩いた。
マリスがひとしきり泣いて落ち着くと、ギルシュは、床に仰向けになって倒れて
いるナハダツ王を、顎でしゃくった。
「さて、あいつの始末をつけないといけません」
マリスもギルシュに捕まりながら、おそるおそるベッドの端に寄って、見下ろす。
「どうするの、こいつ? ……まさか、殺したの!? 」
「いいえ、まだ生きてます。ちょっと眠ってもらっただけです」
ギルシュは、すたっと床に下りると、王の額に、しばらく指を当てる。その周りに
は、ぼやぼやと黄色いもやのようなものが漂った。
「よし、これで貢ぎ物のことは忘れたでしょう」
マリスはまばたきして、ギルシュを見た。
「記憶を消したの? 」
「ええ。一部分ですけどね」
ギルシュは立ち上がると、少し照れたように、マリスから、目を反らした。
「あのー、姫様、早く、お召し物を着けられた方が……」
「えっ? きゃーっ! 」
ギルシュに言われて初めて、マリスは、自分が肌着姿であったことに気付き、
慌てて衣服と鎧をかき集めた。
「よくここがわかったわね」
元通り甲冑を身に着けたマリスは、ベッドから立ち上がった。
「実は、セルフィス様のご命令で、密かに、あなたを見守ってたんです。宮廷には、
替え玉を置いて」
「替え玉? 」
「まあ、私の分身みたいなものです」
「へー、魔道士って、そんなこともできるの? 」
「出来ない方が、普通ですけどね」
マリスは感心してギルシュを見つめ直した。彼は、特に自慢気でもなく、平然と
していた。
「いつから見てたの? 」
「ナハダツ国とのいくさの時からです」
「なんですって……!? 」
マリスが、キッと彼を見上げる。
「だったら、もっと早く助けてくれれば良かったのに! 」
「すみません。強力な魔道士が見張ってたもんですから、そいつが消えてからで
ないと、あなたを助けられなかったんですよ。それまでは、自力で、なんとかして
もらおうかなーと。でも、そいつも最後まで見学してくほど悪趣味ではなかったよう
で……とにかく、間に合って良かったです」
にっこり微笑むギルシュに、マリスが、わなわなと拳を震わせた。
「バカッ! だったら、そいつがずっと見張ってたら、あなたも、あたしがそこの
バカ王にひどいことされてるのを、黙って見てたっていうの!? ひどいわよ!
身動きが取れなくて、本当にどうしようかと思ったんだから! このあたしが、ここ
まで怖い思いをしたことなんか、なかったのに。あたしがどんなに怖かったかなんて、
どうせ、あなたには関係ないんでしょ! 」
マリスの瞳からは、一度止まった涙が、再び流れ出した。
「関係なくはありませんよ」
ギルシュは静かな口調だった。
「あたしっ、ほんとうに、もうダメなんだって思って……! こんなケダモノに……
ナハダツの……蛮族のジジイなんかに……! セルフィスとも、もう結婚出来ないの
かと思って……身体が動かなくて悔しいし……怖かったんだから! 」
マリスが手で涙を拭い、しゃくり上げるように泣いた。
ギルシュの静かな青い瞳が、マリスを見下ろす。
「セルフィス様以外の男なんかに、あなたを……みすみす、汚させはしません、
絶対に……! 」
「ウソ! だって、今、見張りの魔道士がいたから、あたしを助けられなかったんだ
って、言ったじゃないの! そいつがずっといたら……」
「あの魔道士が、すぐに出て行くのはわかってました。あのケダモノにだって、誰に
だって、あなたに指一本触れさせはしません! 」
強く断言したギルシュが、マリスの肩をつかみ、真剣な眼差しで覗き込んだ。
「ギルシュ……? 」
マリスは、彼の顔を見つめた。
「さっきは怖い思いをさせてしまってすみませんでしたが、大それたことになる前に、
私が絶対に、あなたを守りますから! だから、信じてください。セルフィス様が
あなたを守るよう私にお言いつけになったからには、私はそれに忠実に従います。
例え、命に代えてでも……とまでは言いませんけど」
マリスが目を丸くした。
ギルシュは、にやっと笑った。
「私が忠誠を尽くすのは、あくまでもセルフィス様のみですから、彼の護衛が優先
です。なので、あの方のご命令とあらば、護衛がおろそかにならない程度には従い
ますが、あなたも、なるべくひとりで頑張るつもりでいてください。私も、手が回ら
ないこともありますから」
「なによー、さっきと言ってることが違うじゃないの」
マリスが面白くなさそうな顔になる。
「あなたは、甘い顔をするとつけあがりますからね。突き放すくらいで、ちょうど
いいんです。さ、早くこの部屋を出ましょう。その前に、このバカオヤジを……
そうですねえ、椅子にでも座らせておきますか。うたたねしていたように、思わせて
おきましょう」
ギルシュは、さっさとベッドの皺を直すと、元通り、黄色いカーテンを閉め、
サインに使ったテーブルを直し、そこへ、王を座らせようと、指を鳴らして、王の
身体を浮かせた。
ふわふわと、巨体は浮かんで行くと、豪華な赤い椅子に座る。後は、ギルシュが
細かく配置などを直していく。
「あら? こいつ、こんなところに、こぶができてるわ」
マリスが、床に落ちていた角付き冠を、元通り王の頭に被せようとした時、王の
後頭部に、ぷくりと出っ張りが出来ていることに気が付いた。
「ああ、さっき、焦ってたもんですから、思わず、手に力が入り過ぎちゃって……」
ギルシュは、何気なく言った。
マリスが驚いて、あんぐり口を開けた。
「手で殴って気絶させたの? 魔道士なのに、魔法使わなかったの? 」
「えっ? ……ああ、そう言えば、そうですね」
彼は、あいまいに笑った。
(呪文なんか、いちいち唱えられるかってんだ! 一刻も早く、ヤツの汚らわしい
手をどかせたかった。……それに、どうも魔法で攻撃するってよりは、この手で、
思いっ切り殴ってやりたかった! )
じんじん痛む腫れた右手を、マリスにわからないようさっとマントの中に隠すと、
ギルシュは微笑んだ。
「その扉は、鍵がかかっています。外してあげますから、どうぞ部屋を出て、先程の
謁見室へ向かって下さい。青竜団の騎士たちがお待ちしています。私は、このまま
セルフィス様のところへ戻りますから。じゃあ」
彼がふいっと姿を消すと、ガチャリと音がした。
マリスが扉を押すと、簡単に開く。
「……ありがとね、ギルシュ」
マリスは、彼の消えた辺りを振り返り、そう小さく言うと、まっすぐ回廊を通って
いった。
(どうもいけないなー)
空間から、彼女が無事にナハダツ国を出るのを見届けたギルシュは、主人のもとへ
帰る途中、心の中で呟いていた。
(封じよう、封じようとしても、彼女を見てしまうと……実際、話をしてしまうと、
つい……。本当に、この先、セルフィス様のご命令で、彼女のことも、ずっと守って
いかなくちゃいけないのか? それって、ちょっと酷だよなあ! )
彼の仕事は、まだまだ続くのであった。
「お勤めご苦労様でした。明日、正式な報告を、会議でしておきますからね」
マリスの功労を、エリザベスが自室で、ねぎらった時であった。
マリスは、慎重に切り出した。
「あの、お義母様、ナハダツ王が、少し気になることを言っていたのです
が……。私のことを、『ベアトリクス女王からの貢ぎ物』だとか……」
「まあ、なんですって!? 」
驚いた後、エリザベスは心配そうな表情で、マリスを見つめた。
マリスも、じっと彼女を見る。
「わたくしが、そんなことをするはずないでしょう。だいいち、あなたは、私の
セルフィスの大事な婚約者なのですよ。そのあなたを、この私が人質に差し出す
なんて……! ナハダツ王は、逆に、あなたを人質にとって、この国に脅しをかける
気でいたのかも知れません。おお! なんと、汚らわしい考えなのでしょう! 」
その義母の驚きように、マリスはいくらか安心した。
やはり、あれは、いくさに負けた腹いせから思い付いた、あの王の邪な
企みだったのだと。
「さあ、今日はもう、ごゆっくりお休みなさい、王女殿下。さぞ、お疲れになった
ことでしょう」
「はい、お義母様。ありがとうございます。おやすみなさいませ」
エリザベスの自室から、マリスが出て行くと、しばらくして、そこは、黒い異空間
へと変貌していった。
「なんてことなの!? 事前に情報を漏らし、圧倒的人数で迎えたナハダツ兵を、
いとも簡単に降伏させ、さらに手を打っておいた国王からも、けろっと逃れられた
なんて……あの娘は、いったい何者なの!? 」
エリザベスの後ろには、黒い影が、跪いているように蹲っている。
「あの娘は、よほど運が強いと見えます。はっきりしたことはわかりませんが、
どうも強力な守護神か何かでも、ついているのではないでしょうか」
男の声が、蹲った影から聞こえる。
「強力な守護神ですって? なんなの、それは? 」
彼女の声には、イライラした様子が伺えた。
「はあ……、例えば、勝利の女神のような……」
魔道士は、いくらか自信のなさそうに、小さく答えた。
「勝利の女神ですって? ふん、馬鹿馬鹿しい! 単に、運が良かっただけだわ!
次は、こうはいかないんだから! 」
「おそれながら、殿下。殿下が、もうじきこの国の女王となるのは、もう秒読みで
しょう。となると、セルフィス殿下が王太子となるのも確実であり、あなたの後を
継いで、後のベアトリクス国王となることは、もう目に見えています。あなたの目的
は、これで、もう、ほとんど達成されたようなものです。
なのに、なぜ、あの王女に、そうもこだわるのですか? あの王女には、あまり
地位や名誉、権力などには興味がないように思えますが? グレゴリウス王の血筋を、
絶やしてしまうおつもりですか? 」
夫人は、ゆっくりと口を開いた。
「わたくしのセルフィスには、わたくしの決めたお方と、一緒にさせたいのよ。
美しくなくてもいいから、おとなしく、やさしい娘をと、ずっと決めていたのです。
しかし、突然、降って湧いたように、王女として出て来た、あのような跳ねっ返りの
わがまま娘などと、お兄様は、勝手に許嫁と定めてしまったわ!
あれでは、わたくしの思い通りになど、なりはしないではないの!
しかも、セルフィスは、あの子に夢中だわ! わたくしは、あんな小娘などに、
セルフィスを取られたくはなかった! 」
しばらくの沈黙のうち、再び夫人の口が開かれた。
「あんな娘に、セルフィスを渡してなるものですか……! そうよ、今度は、もっと
危険な戦地へ……! 」
暗闇の中で、血のように赤く塗られた唇が、吊り上がる。
蹲る黒い影でさえもが、ぞっとするほど、それは、恐ろしい企みに、狂喜している
のだった。




