東方の武術
「あ~ん、ダン、待ってよー」
「こっちだ、マリス」
ジョン・ランカスター伯爵が、ルイス・ミラー伯爵の屋敷を訪れるたびに、ダンを
伴ってくるようになっていた。
二人は、広々した裏庭を走り回っていた。
マリスがダンを追いかけて行くうちに、二人は訓練の場として設けられた、
広い庭に来ていた。
そこでは、ルイス伯爵の息子たち――マリスの兄に当たるものたちの、剣の訓練の
最中であった。
「にいさまたちの、おけいこだわ」
ダンもマリスも、三人の少年が訓練用の剣を持ち、一斉に同じ動作をしているのを、
黙って見ていた。
そのうち、彼らの前に立っている剣の師匠が気付き、二人を振り返った。
はっと、ダンは、息を飲んだ。
師匠は、女であった!
浅黒い肌に、緩やかなウェーブのかかった長い髪を、高い位置で結い、黒曜石の
ように輝く切れ長の、少しつり上がった黒い瞳、貴族の男性が着るような、丈の長い、
幅広の詰め襟の上着をはおった、美しく、華のある女性であった。
彼女は、ダンとマリスの姿を認めると、にっこりと微笑んだ。
「ラン・ファねえさま! 」
マリスが嬉しそうに叫び、走り寄っていった。
「こら、マリス。まーた、こんなにドレス汚しちゃって、おかあさまに怒られちゃう
わよ」
足に抱きついているマリスの頭を、微笑みながら、彼女は撫でた。
「お友達が来てるの? 」
「うん、ダンっていうの」
ダンは、マリスに手招きされ、歩み寄る。
ラン・ファは、彼にも、にこりと笑いかけた。
「コウ・ラン・ファ子爵……! 」
彼の口から、思わずこぼれていた。
「東洋出身の女戦士で有名な……あのコウ・ラン・ファ子爵だ……! 」
「私を知っているの? 光栄だわ」
ラン・ファは、改めてダンに微笑んだ。
「ダンはね、『しかんがっこう』に行ってるの」
マリスがにこにこと、ダンとラン・ファとを見比べて言った。
「そう、だから、私のことも知ってるわけね」
「はい。一度、授業でお見かけしたことが……」
士官学校では、通常の教官の他に、この国で活躍する騎士たちが、たまに授業を
することがある。生徒たちの憧れの騎士たちに直接教わることができ、ますます訓練
に身が入るようになっていくのだった。
特に、ラン・ファは女性ということもあり、また東方から来た珍しい人種でもある
ことから、士官学校の生徒たちに限らず、一般の戦士たちの間でも有名であった。
東方の女傑族の編み出した独特の体術を操り、戦闘でも男性騎士たちに遅れをとる
ことなく、国王からも認められ、業績を上げていっている女騎士だ。
ルイス伯爵とも気が合い、彼の息子たちの剣の師匠として招かれ、たびたび一緒に
食事をとるなどと、ミラー家には頻繁に出入りしている。
二人が、しばらくそのような会話を交わしている間、マリスは、素振りをしている
一番下の兄の腕を引っ張っていた。
「危ないよ、マリス、どいてろよ」
「おもしろそう! マリスにも、やらせてー」
「だめだよ、あっち行けよ」
「貸してー、貸してー」
マリスが、とうとう兄の剣にぶら下がり始めた。
「先生、妹が邪魔をするんです! 」
三男は十歳であったが、いつもこの五歳の妹には手を焼いているらしく、泣きそう
になりながら訴えた。
「ほら、よしなさい、マリス。あんたは女の子じゃないの。こんなことマネするん
じゃないの」
仕方がなさそうに笑いながら、ラン・ファが剣からマリスを引き剥がす。
「ラン・ファだって女の子でしょう? どうして、マリスだけやっちゃいけないの? 」
マリスの大きなバイオレットの瞳が潤んだ。
「う~ん、そうねえ……。マリスは、伯爵家のお嬢さんでしょう? てことは、お姫
様なのよ。お姫様っていうのは、綺麗なドレスを着て、綺麗に着飾って、そして、
大きくなったら貴族の素敵な男の人と結婚して、幸せに暮らすものなのよ。だから、
マリスは、こんなもの振り回したりしてないで、おとなしく遊ばなくてはだめなの」
「ラン・ファだって、姫ってみんなに言われてるじゃないの。だけど、いつも男みた
いなカッコして、こうやって、おにいさまたちに剣を教えてるし、戦争にも行くんで
しょう? マリスが剣をいじっちゃ、なんでいけないの? 」
ラン・ファは困ったように笑った。
「私はもともとお姫様なんかじゃなかったからね。この国へ来てからよ。戦闘で手柄
を立てたから、王様から、子爵の地位を頂けたの。だから、本当は騎士だけど、舞踏
会でドレスを着る時は、皆は、子爵じゃおかしいから『姫』って呼んでくれるだけよ」
「じゃあ、マリスも、後から『姫』になる」
「マリスはもう姫だから、だめなのよ」
「なんで? なんで? どうして、マリスだけ、やっちゃいけないの? どうして?
どうして? 」
とうとうマリスが泣き出してしまった。
「う~ん、困ったわねえ……。ダン、とりあえず、マリスを連れて、どこかで遊んで
てくれない? 」
ラン・ファに言われて、ダンは、泣いているマリスの手を無理矢理引っ張り、その
庭から消えた。
遊んでいた裏庭に戻ると、マリスはしくしくとしゃがみこんで泣いていた。
「泣くなよ」
見下ろして、ダンが言う。
「だって、だって、おとうさまも、おにいさまたちも、ダンだって剣のおけいこを
するでしょう? どうして、マリスだけ剣にさわっちゃいけないの? お姫さまが
剣を持っちゃだめって、誰が決めたの? 」
マリスは余計に顔をうずめて泣き続ける。
しばらく、ダンは、そんなマリスを見つめていた。
「おれの行ってる学校では、女だって、みんな剣の練習をしてる。貴族も平民もいる。
中には、貴族の女の子だって、いるかも知れない」
マリスが顔を上げた。
「だから、マリスも、おれと同じ学校に通えば、剣を持っても怒られないようになる
よ」
「ほんとう? 」
しゃくりあげながら見上げるマリスに、ダンは、こくんと頷いた。
「ただし、士官学校は七歳になる年からだ。だから、マリスが入れるのは、来年に
なってからだよ」
「うん。マリス、絶対に、ダンと同じ学校にいく! 」
彼にも、女性だから剣を持ってはいけないという大人たちの理由が、いまいちわか
らなかった。
士官学校では、数は少ないが、同じ年頃の女の子たちが、男の子に混じって、騎士
になるための訓練を受けているのだ。中には、そこそこ腕の良い女の子もいる。
彼は、マリスが少し可哀想に思えたのだった。
それから、月日は流れ、マリスは、ダンと同じ士官学校に通うようになっていた。
もともと将軍家の娘として育ったこともあり、ダンも、マリスと一緒に頼んだので、
ルイスの許可を取るのは、普通の貴族の家庭に育った娘に比べれば、断然すんなり
いったのだった。
ルイスとしても、マリスのお転婆振りには、普段から手を焼いていて、士官学校の
ような厳しいところにでも通わせて、剣の腕を磨くついでに、行儀の方もよくなって
くれればと、そのような願いもあり、許したのだった。
『この子は、戦士としての才覚に恵まれるであろう』
あの時、予言者は、確かに、こう言っていたと、そのことも、頭を掠めなか
ったわけではなかった。
ルイスの妻だけが、最後まで反対していた。
彼女は、伯爵家唯一の女児であるマリスには、貴族の娘らしい教養を身に付けさせ、
普通に貴族の娘としての幸せを掴ませたいと、泣いて主張し、ある条件を突きつけた。
士官学校に通いながらも、家の中ではドレスを着て、伯爵令嬢らしく振る舞うこと、
本を読み、茶の作法を身につけ、歌や楽器の演奏、社交ダンス等を学び、そして、
一六歳になったら社交デビューが出来るくらいにまでなっていることを、マリスにも、
家族にも協力するよう約束させたのだった。
マリスにとっては、少々窮屈ではあったが、行きたい学校に通えるのならと、その
先のことはあまり考えずに、うかれていた。
「ラン・ファ」
呼びかけられて、東方の女戦士は振り向いた。
そこには、平民の男の子のような服を着たマリスがいた。
「どうしたの? 傷だらけで。今日も、またケンカしてきたの? 」
くすっと笑うラン・ファに、マリスは、ぶすっとした顔になった。
「あたし、今度こそ、絶対あいつに負けたくない。だから、手ほどきして」
「あいつって? 」
「ドミニクスよ」
(ああ、あのガタイのいい子ね)
ラン・ファは、すぐさま、彼を思い浮かべる。
「あの子だったら、ダンの仲間じゃないの。ダンには、話したの? 」
マリスは、首を横に振る。
「負けたなんて、みっともなくて言えるかってのよ。それに、ダンは、女となんか、
つるんでられるかって、あたしを仲間にも入れてくれないんだから」
ぽろっと、彼女の頬を悔し涙が伝う。
すくすくと育っていったマリスは十歳となり、背も伸び、今では、女でも一七〇
セナを越える長身のラン・ファの胸の辺りまでになっていた。
つい最近まで、可愛らしいドレスを着て走り回っていたお転婆娘が、年を追うごと
に、中性的な顔立ちになっていき、士官学校に通っているせいか、男性的な服装も
増えたこともあり、今では、ルイス伯爵婦人の理想からは遠い、まるで少年のようで
あった。
「強くなりたい? マリス」
ラン・ファの質問に、こぼれた涙を手で拭いながら、マリスは頷いた。
「よーし、じゃあ、ちょっとだけ、勝てるコツを教えてあげようか? 」
マリスが、はっと顔を上げると、ラン・ファが、にんまりと笑っていた。
「やい、男女! 」
その日の帰りも、いつものように、大柄なイガクリ頭の少年が、マリスにつっかか
っていった。マリスが、横目で睨む。
「いっつも俺さまに負けるくせに、泣きもしないで、おめえは生意気なんだよ」
少年は、丸い、あまり整ってはいない顔で、彼女を覗き込む。
ふっと、彼女の口元がほころぶ。
「あっ、何笑ってんだよ。てめえ、今日もやっちまうぞ! 」
「ふん、望むところだわ! 」
マリスが、ひらりと飛び上がり、彼を距離を取り、構える。
「生意気だぞ、男女! 」
マリスよりも背丈も体重もある大柄な少年も、手にしていた棒切れを、剣の代わり
に構える。
「やーっ! 」
少年が、マリスに向かい、棒を突き出した。
ばしっ
棒は、彼女に簡単にあしらわれ、彼はよろめいた。不可思議な顔になるが、構わず
に、再び彼女に棒を突き出し、突進していく。
ぱきん……
棒は折れ、少年は、バランスを崩し、どうっと地面に倒れた。
「……て、てめえ……! 何をした!? 」
「別に」
マリスは、素知らぬ顔で腕を後ろに組み、口笛を吹いてみせた。
「このやろーっ! 」
イガクリの少年は、むきになってマリスに殴りかかっていくが、拳を彼女に捕らえ
られたと同時に、彼の身体は、宙に浮いていた!
そして、気が付いた時には、地面に打ち付けられていたのだった。
彼は、信じられないという顔で、マリスを見上げた。
(……やったわ! ついに、出来たわ! )
マリスは、自分の両手を見つめて、声に出さずに感動していた。
「……てめえ……! 」
少年が、膝をついて、立ち上がる。
「なんどでも、かかってらっしゃい」
不敵な表情で彼を見るマリスに、またしても、少年の本気の拳が飛ぶ。
「うわわわわあああ! 」
今度は少年にも、自分の身に何が起きたのか、はっきりとわかった。
自分の繰り出した拳を僅かによけ、その腕を取り、勢いを利用して、そのまま彼女
が背負い投げたのだった。
どさっと、少年が仰向けに倒れた時、今度はマリスの拳が飛んで来るのが、はっき
りと見えた。
「うわあああーっ! 」
少年は、両手で顔を防御する。そこに、彼女の拳が打ち付けられる――はずだった
のだが、いつまでも、そうはならなかった。
彼が、おそるおそる手を引っ込め、目を開いてみると、その手前で、彼女の拳は
止められていたとわかった。
にやっと笑う彼女の顔が、そこにあった。
「勝負あったな」
後ろからした声に、二人が振り返ると、十人ほどの、同じ年頃の少年たちを引き
連れた、黒髪の少年が、腕を組んで立っていたのだった。
「ダン! 」
「大将! 」
マリスと少年は同時に叫び、立ち上がった。
「大将! いいところに来た! この女、生意気なんだぜ。俺のこと、ぶん投げやが
ったんだ! だからさ、大将、やっちゃってくれよ! 俺の敵を取って
くれ! 」
少年がダンの背中に隠れ、そこからマリスを、してやったりと覗き見る。
ダンは、じろっと、マリスを見下ろした。
マリスも、キッと、ダンを睨み返す。
「ドミニクス」
「へ、へえ! 」
呼びつけるダンの声に、いくらか怯えたように、彼は返事をした。
「お前の負けだ。お前は、いつも、棒や板で、マリスにケンカを売っていた。それに
比べて、マリスはいつも素手で対抗していた。それだけでも、お前、マリスの方が、
根性があると思わねえか? 」
ちらっと目だけを、後ろにいるイガクリ頭に向ける。
少年は言い訳しかけたのだが、すぐにダンに打ち切られてしまった。
「マリスは女だが、根性がある。根性で、ドミニクスを負かしたのは、皆も見ていた
な? 今日から、マリスは、俺たちハヤブサ団の仲間に入れる! 皆、いいな? 」
「おう! 」
ダンの後ろに控えていた少年たちは、拳を上げた。
マリスの表情が、次第に警戒を解き、明るくなっていった。
「団の中では、ケンカは禁止だ。わかったな、ドミニクス? 」
「へ、へい……」
ドミニクスは、ばつの悪そうな顔をマリスに向けると、定位置のようで、後ろに
並ぶ者たちの間に入ったのだった。
彼らがいつも溜まり場にしている小高い丘へ、わいわい喋りながら向かう。
「物事には、順序ってもんがあるんだ」
ぼそっと、マリスにダンが言う。
「いくら幼馴染だからって、いつも女となんか遊んでられるか。堂々
と仲間に入れるには、お前が、自力で、ドミニクスを負かすしかなかったんだ」
マリスが、にこりと彼に笑いかけた。
「男って、めんどくさいことが好きなのね」
「仕方ねえじゃねーか。こいつらにも納得してもらった上じゃないと、お前を仲間に
するのは、難しかったんだから。いくら俺がリーダーでも、『しょっけんらんよう』
は、いけねえ。リーダーってのは、いつでも公平で、しかも、みんなから信頼されて
なくちゃならないもんだからな」
前方を見たままそう言う彼を、マリスは、感心したように見つめていた。
この人は、既に、武将としての風格を身につけ始めている――まだ幼いながらにも、
漠然と、そう感じ取ったのだった。