出生の秘密
「おお、イフギネイアよ、苦しいか」
王は、ベッドの傍らで、王妃の手を握り締めていた。
がっしりとした頼もしい体格であった妃の身体は衰弱しきり、角張った顔も、頬が
げっそりとこけ、その手も骨と皮ばかりかと思われるほど、か細いものとなっていた。
寝室の壁際には、ずらっと宮廷医師たちが立ち並び、顔を床に向けている。
ベッドの脇でも、黒いマントの魔道士と、年老いた医師が沈黙していた。
彼らの雰囲気から、それが、王妃の臨終を看取る場であることは、一目瞭然で
あった。
王は、最後の最後まで、王妃に声をかけ続けていた。
「……」
イフギネイアの口が、微かに動いた。だが、既に、意識は朦朧として
おり、話すこともままならないはずであった。
「王妃よ、どうしたのだ? 何を言おうとしておるのだ」
王は身を乗り出し、彼女の手を強く握り締めた。
立ち並ぶ医師たちも、思わず、顔を上げる。
「……く……や……しい……! 」
絞り出すような嗄れた、まるで男のような声が、王妃の唇から漏れた。
王も医師団も、じっと耳を傾ける。
「……さいご……まで……みつけ……られ……なかっ……た……あの……おん……
な……! 」
「おお! どうしたのだ、イフギネイア! 何を言っておるのかね? 何が見付け
られなかったというのだ」
王妃は、苦しそうに、しばらくは呻き声しか発しなかったが、譫言は
続けられた。
「あのむす……め……だけ……は……、いっしょう……ゆる……す……もの……
か……! こども……も……いっしょ……に……のろって……やる……! 」
王は眉をひそめて、自分の向かいに立つ魔道士の顔を見た。
「いったい何を言っているのだ、王妃は」
「王后陛下は、昏睡状態にあられます。ご自分でも、何を言っておられるのかは、
わかっていらっしゃらないのでしょう」
「どうも、どなたかを深く憎んでおられるようですな」
魔道士の男に続いて、最年長の医師も、口を添えた。
王は、再び、妻に視線を戻す。
「……あのおんな……だけ……は……ぜっ……たい……に……」
「イフギネイアよ。いったい、誰をそんなに憎んでいるのだ? 」
その時、カッと、王妃の目が見開かれた! 王も医師たちも驚き、彼女に注目する。
妃は、その目を、ゆっくりと王に向けていく。
「……あなた……の……ちょうあい……を…いっしんに……うけ……た……あの……
おん……なが……にく……い……! 」
勇猛な武将であったこの王も、この時ばかりは彼女の凄みのある形相にたじろぎ、
その青い瞳には動揺が走った。
「……あ……の……おんな……を……ほんき……で……あい……した……あなた……
も……にく……い……! 」
王妃の見開かれた瞳の端からは、涙が溢れ出ていた。
「まさか、……そなた……」
王は動揺のあまり、妃の手を思わず放す。
「あの……むすめ……の……あかご……も……みつけ……られ……な……かった!
くや……し……い! ころ……して……やり……たかった……の……に……! 」
王の顔色が変わった。
「なんだと? ……彼女が……ジャンヌが、……子を生んでいたというのか!? 」
王妃は苦し気に一言呻くと、がっくりと首をもたげ、もう何も言葉は発しなかった。
そのすさまじい形相は、いつまでも、王にむけられていた。
「……なんということだ……! 」
王はうろたえ、がっくりと、床に膝をついた。
医師が、妃の目を閉じる。沈黙が室内に広がっていた。
王妃の葬儀が、国を挙げて盛大に執り行われてから、一年が過ぎていた。
その夜、王は書斎に引きこもり、側付き魔道士のみを伴っていた。
「バルカスよ、……もう、口に出しても良いだろうか」
この一年、王が塞ぎ込んでいたのは、王妃の死に限らないと勘付いていた魔道士は、
頷いた。
「口にすることで、今の陛下のお気持ちも、報われると思われます。ここは、私の
結界の中。どうぞ、思うままに、お話し下さい」
「イフギネイアの最後の譫言……あれは、誠であろうか……」
王は呟いた。
「余は、あの言葉を聞いて以来、この一年間満足に眠れたためしはない。もしも、
王妃の言ったことが本当であるならば、……余は……余は、会わねばならぬ。
彼女とーーティアワナコ神殿に仕えていた巫女……ジャンヌと……! 」
魔道士バルカスは、ゆっくりと王を見つめる。
「三王子とイフギネイアの喪に服してから、一年が過ぎた。愛のない政略結婚で
あったにも関わらず、彼女が、余を愛してくれていたことに、最後まで気付いて
やれなかった。
彼女は知っておったのだ。余が、彼女以外の女性を愛していたことを……!
余の前では気丈に振る舞っていた彼女も、実は相当に苦しみ、悩んでいたのだろう。
気付いてやれなかった愚かさから、余としては、せめて一年間は、イフギネイアへの
償いの意もあり、彼女のために喪に服してきたつもりであった。
だが、愚かさは繰り返される。頭では、妃に尽くすものと思ってはいても、心の中
では、彼女の譫言にあったジャンヌのことが、一時も、頭を離れなんだ……! 王妃
はもちろん、ジャンヌこそ、そんな余の犠牲者でもあるのだ! 一刻も早く彼女に
出会い、余を許して欲しいと詫びたい! 」
王は、黙って頭を下げたままのバルカスを、椅子の上から、静かに見下ろした。
「やはり、余は、今でもジャンヌを愛している。愛する者を、これ以上不幸には
したくはない! バルカス、お前、ジャンヌを探して来てはもらえぬだろうか?
どうような手段を浸かってもよい。直ちに彼女を見つけて欲しい! 」
「陛下……! 」
バルカスが、思い切ったように王を見上げ、口を開いた。
「王のその言葉を聞いて、わたくしも決心が付きました。おそれながら、わたくしは、
王に隠していたことがございます。王妃様が、ヤミの魔道士を使い、ジャンヌ様を
追っていることを察知し、ジャンヌ様と御子様を陰謀の手から護るために、陛下にも
内密に、独断で、ジャンヌ様を逃がしたのは、このわたくしめにございます」
「なんと……? 今、なんと申したのだ! 」
王は椅子から立ち上がった。
「王妃様の残虐性も心得ており、お心の優しい陛下がお心を痛めないよう、すべて
内密にしておりました」
王は驚きのあまり、言葉を告げられないでいた。
バルカスは、一層頭を低くして、話を続けた。
「ジャンヌ様が赤子連れで逃げるのは難しいと思われたので、お子は、ベアトリクス
のどこかに匿うよう説得し、ジャンヌ様も、それも国王の愛人の運命
であろうと……ご自分だけのお子ではないのだと、泣く泣くご決断されたのです。
とにかく、わたくしには、ジャンヌ様と御子様の身を守ることが最善でありました。
しかし、ジャンヌ様からの連絡はなく、健在であるとの確信もないままでは、ぬか
喜びをさせてしまうことを恐れたため、陛下に告げることもままならず、このような
事態に……。
長い間、隠し通していたことを、陛下への裏切りとお受け取りになられても、弁解
の余地もございませぬ。どうか、お気の済むほどに、わたくしめを罰してください
ませ」
片膝を付いたバルカスの苦悩は、王には充分伝わっていた。
「余は、なんと愚かであったことか……。バルカス、お前を罰するなど、どうして
そんなことが出来ようか。罰を受けるとすれば、それは、余しかおらぬ」
よろめきながら腰かけ、王は頭を抱え込んだ。
「ジャンヌが、余を置いて姿を消してしまったと勝手に思い込み、ひとり傷心の日々
に暮れていた。だが、彼女は、身ごもっておったのだ! 生涯独身か神に使えるもの
としか結婚を許されてはおらぬ身の上が、赤子を身ごもったとなれば、当然、神殿を
追い出されたであろう。彼女は、きっと、ただひとりで赤子を産み落とし、今でも
育てているに違いない! 」
王は、同じく遣る瀬なさを浮かべていたバルカスの瞳を、見つめた。
「そちだけが頼りだ。もう一〇年以上が経つが、急いで、ジャンヌと、まだベアト
リクスにいるであろうその子を、探してきて欲しい。彼女とその子を、すぐには無理
であっても、いずれは、この城に迎えたいのだ。それが、せめてもの、余の、罪滅ぼ
しなのだ」
「しかと承りました」
深々と頭を下げると、魔道士の姿は、そこからぼやぼやと湯気のように消え失せた。
「……頼むぞ、バルカス……! 」
王は、いつまでも、魔道士の消えた跡を見つめていた。
王妃の喪も明け、王のはからいもあり、貴族たちが控えて来た舞踏会などの華やか
な場も、少しずつ増えてきていた。
アークラント大公家でも、舞踏会を主催することになっていた。
「必ず来てくれよ、ダン」
セルフィスが、幼馴染みである、今では金獅子団に所属しているダン
に、招待状を手渡した。その後ろとなる扉近くには、公子の護衛マリスがいる。
「舞踏会ねえ……。俺は、舞踏会ってガラじゃねーだろ」
ダンは招待状を受け取ると、興味のなさそうに、上着のポケットにつっこんだ。
「そんなことないよ。ダンは、金獅子団の一員なんだから、立派な貴族じゃないか。
美味しいものもたくさん出す予定なんだからさ、絶対来てくれよ」
美味しいものと聞いて、ダンの眉が、ぴくっと動いた。
「……まあ、それなら、行ってやらないこともないけどな」
まんざらでもなさそうな彼の表情に、マリスが、いたずらっぽい瞳を向ける。
「相変わらず、食い意地が張ってるわねえ」
「うるせーな」
ダンが、わざとマリスをぶつまねをする。
マリスは、きゃっきゃ笑いながら、それをよけた。
「あ、そうそう。当日だけどね、ある伯爵家の令嬢をエスコートしてもらいたいんだ」
セルフィスが言った。
「ああ? 伯爵令嬢? どこのだ? 」
ダンが途端に面倒臭そうな表情になる。
「ルイス・ミラー伯爵家のご令嬢さ」
セルフィスが小声で、マリスに聞こえないように、ダンに打ち明けた。
ダンが、呆気に取られた顔になった。
「……それって、そこにいる、そいつのことか? 」
マリスを顎で指すダンに、セルフィスがにっこり頷いた。
「当日の護衛は、他の者に任せるつもりさ。マリスだって女の子なんだから、
たまにはドレスだって着たいと思うんだ」
「あいつが? ……そうかな」
「そうだよ。それに、ダンだって、彼女のドレス姿、見てみたくない? 」
「お、俺がぁ? ………………………………………………………………………別に」
ダンがそっぽを向いた。セルフィスはにこやかなまま言った。
「僕は見てみたいと思うけどなあ。こう言ってはなんだけど、貴族の女の子たちの中
でも、彼女、結構綺麗な方だと思うんだ。ドレスだって、案外似合うんじゃないかな」
「物好きな! 」とても言いたげに、ダンが顔をしかめて彼を見る。
「じゃ、よろしく頼むよ」
セルフィスは、ダンの肩を軽く叩いた。
そして、舞踏会当日。ダンが正装してミラー家を訪れた。
「お嬢様は、お支度に、もう少々お時間がかかりますゆえ、どうぞこちらでお待ち
下さい」
「はあ……」
執事に案内された部屋に彼が行くと、先客がいた。
「……ラン・ファ先生……! 」
「あら、ダン。久しぶりね」
そこには、淡い水色のドレスに身を包んだ東方の女騎士の姿があったのだった。
ラン・ファは、黒い艶やかな髪を高い位置で横に一カ所にまとめ、二本の縦ロール
を作っていた。豪華な大粒のきらびやかなダイヤのネックレスに、肩を出したベアト
ップのドレスは、彼女の身体の線を強調し、最も美しく描いている。
透けた水色の、肘までも覆う手袋の手首には、ネックレスよりも小粒であるダイヤ
モンドのブレスレットが巻かれている。
「いやあ、先生、今日は随分お美しいですね! 」
ダンが眩しそうに顔をほころばせて彼女に近寄り、手の甲に口づけた。
「まあ、ダンこそ貴族らしくなってきたじゃないの」
「今日だけは、セルフィスの顔を立ててやらないとね」
ダンは濃い青色の、主に騎士が着るとされている礼服を着ている。短い黒髪は
そのままだが、幅広の詰め襟の中には白いスカーフをし、はっきりとした青い
サファイアのブローチで止めていた。
そうしていると、彼ももうわんぱく小僧の面影はなく、どこから見ても貴族のよう
であった。
ラン・ファとダンが話を弾ませていると、二階へ続いている階段から声が聞こえて
きた。
「ほら、もうそれでいいから、早くしなさい」
「いやん、お父様。もう少し待って。こちらの髪飾りとこちらと、……ああ、どちら
がいいかしら! 」
「お嬢様、もう少し、じっとしていて下さいな。お化粧が曲がってしまいますわ」
二階からは、ルイス伯とマリス、召使いたちの賑やかな声が聞こえてきていた。
「なにやってんだ、あいつは」
ダンが呆れたように眉間に皺を寄せた。ラン・ファもくすくす笑っている。
「あんなに男装が好きだったマリスも、ちょっとは女の子らしくなったのかしらね。
舞踏会に出るの、楽しみにしていたみたいよ」
「ええっ? あいつが? 」
ダンは、ラン・ファを意外そうに見た。
「そうよ。ドレスを新調する時だって、もう大騒ぎだったんだから。あーでもない、
こーでもないってね。しまいには、デザイナーさんとケンカしちゃってたくらいよ」
「へー、……あいつに美的感覚なんて、あったんだ」
ダンが目を丸くする。
「公子様の警備で、貴族のお茶会なんかに立ち会うことが多くなっていて、自然と、
宮廷ではどんな衣装が着たいか、イメージが浮かんでいたみたい。今まで興味が
なかったものの、やっぱり、あの子も、ドレスが着たくなる年頃なのかしらね」
「ふ~ん、……女って、そんなもんなのかなあ」
ダンは両手を頭の後ろで組み合わせた。
「だけど、あいつ、男顔じゃん。ドレスなんか本当に似合うのかなあ。無理して
ドレスなんか着る必要ないのにさー。男女に見えるのがオチなんじゃないかなー。
俺は、それだけが心配だぜ」
ラン・ファが笑った。
「士官学校時代までは、家ではドレスで、伯爵家の令嬢らしい教育もされていたから、
立ち居振る舞いは、身に付いていたわよ。ま、見てのお楽しみね」
ダンは、マリスのドレス姿になど、全然興味はなかったので、椅子に腰かけ、
ぶらぶらと待つ。
(マリスにドレスなんか似合ってたまるか。あいつが一番似合うのは、軍服だ。女で、
あそこまで軍服が似合うのは、あいつとラン・ファ先生ぐらいなもんだ。俺は、
あいつには、キリッとした格好でいて欲しいんだ。貴族の女どもみたいにドレス着て、
ちゃらちゃらと、貴族の『青びょうたん』の男どもと、ヘラヘラ笑いながらダンス
なんか踊るのなんて、あいつには似合わない!
あいつは、剣を振り翳して、的の中で戦っている時こそ、最も美しいんだ!
……そうさ、それでこそ、俺のマリスなんだ! )
ラン・ファは、むっつりと黙ってしまったダンの横顔をじっと見下ろしていた。
「随分と、お待たせ致したな」
ルイス将軍の声に、ダンもラン・ファも振り返った。父の手に引かれて、しずしず
と部屋に入ってきた少女に、二人の視線は集まった。
鮮やかなオレンジ色が二人の目に飛び込む。
貴族の姫君たちに好まれるフリルをふんだんに使った、幅の広がったドレスでは
なく、シンプルなデザインであった。
ラン・ファと同じように肩を出したベアトップのドレスで、胸の中央に向けて生地
が寄せられ、そこに白い花のコサージュが止められ、透けた布がひらひらと長く降り
ている。
腰からは、少しふんわりと、少々透き通った柔らかい布が、花弁のように重なり
合い、床まで降りていた。ところどころ金色の縫い取りが分散されて、キラキラと
輝いている。
肩まで伸びた髪は外に向かってカールされており、細めのオレンジ色のリボンが
編み込まれているところへ、小粒のパールがちりばめられている。片方の耳の上には、
コサージュと同じような白い花に緑色の葉のついた髪飾りが、いやみなくついていた。
両方の耳たぶについたイヤリングも、同じデザインのものを小振りのものであった。
そして、ドレスに合わせて、彼女の顔も、オレンジを基調としてメイク・アップ
されていた。
暁のようなアメジストの瞳は、いつもの活発さを抑え、少しだけ大人びた表情を
浮かべている。朱に近いオレンジ色の唇は輝き、にこりと二人の来客に微笑んだの
だった。
「今晩は。ダン、ラン・ファ。ご機嫌麗しゅう……なんちゃって! 」
「これ! 」
美しく品のある姫の姿に反してマリスがふざけたので、ルイス伯爵が、コツンと
軽く彼女の頭をこづく。
召使いとともに並んでいた夫人は、彼女の姿に感動し、弱い涙腺を潤ませていた。
ダンは驚き、ずっと、マリスから目がそらせないでいた。
(……むちゃくちゃかわいいじゃねーか! )
彼は、次第に自分の鼓動が高まっていくのを覚え、慌ててそれを抑えようとした。
(……いけねえ、いけねえ。今さっき、戦っている姿が一番だと思っていたばかり
じゃないか! きっとドレスが綺麗なだけだ! そうさ、こういう姿が見慣れなくて、
つい似合っているように見えてしまっただけなんだ! )
彼は意地になって、自分自身にそう言い聞かせていた。
「マリス、綺麗よ」
ラン・ファがにっこりとマリスに微笑んだ。
「本当? ダン、ダンはどう思う? 」
マリスが嬉しそうに、今度はダンを見た。
(……まあ、馬子にも衣装だな)
そう言おうとして、彼は、はっと口を噤んだ。ルイス将軍の前で、それはあまり
にも失礼だと思い、慌てて言い直したのだった。
「まあ、似合うんじゃねーの? お前って、そーゆーカッコも、結構似合うんだな」
「本当!? 嬉しい! 」
マリスは両手を組み合わせ、ひとしきり喜んだ後、うつむき加減に、そっとダンを
見上げ、はにかむように微笑んだ。
「良かった、ダンにそう言ってもらえて……」
彼は、鼓動の音が大きくなっていくのを、もう止めずにまかせておいた。
(やっぱり、かわいい! )
彼は、素直に、マリスの美しさを認めた。
「前に、セルフィスに言われてたの。『いつも元気なきみには、オレンジ色がよく
似合うよ』って。ダンも褒めてくれたし、やっぱりドレスは、この色にして良かった
わ! 」
ピキッと、ダンの表情が引き攣ったのを、ラン・ファは見逃さなかった。
だが、そんなことには気が付かないマリスは浮かれていた。
「ああ! セルフィスは、いったい何て言うかしら! 似合うよって言ってくれる
かしら? 髪飾りはお花じゃなくて、やっぱりパールにすればよかったかしら?
それよりも、さっきつまみ食いしちゃったお菓子の粉が、ドレスに残ってやしない
かしら! 」
マリスは急にドレスを気にし始めた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。お菓子のカスは払っておきましたから」
召使いのひとりが、困った笑顔で言う。
「そお? ……ねえ、やっぱり、髪飾りはパールの方が大人っぽくない? 花だと
子供っぽく見られないかしら? 」
「いいから、マリス。それでも充分綺麗だから、いい加減、少し落ち着きなさい」
ルイス将軍も呆れた声を発してはいたが、やはり娘の久々に見るドレス姿は嬉しい
ようで、表情は終始にこやかである。
「旦那様、ただいま宮廷の使者から、このようなものを言付かったのですが」
楽し気な団欒のさなか、執事が封書を伯爵に渡す。
「宮廷からだと? ……いったい何事だ」
怪訝そうな顔で封を切り、手紙に目を通していくうちに、彼の顔色が変わっていく。
「急用が出来た」
彼の険しい顔を見て、ただ事ではないことを悟った夫人と彼らは、お互いの顔を
心配そうに見合わせた。
「どうかなさったのですか? 」
夫人が、夫の顔を覗き込む。
「国王陛下のところに行かなくてはならなくなった。支度をしてくる」
それだけ言うと、伯爵は険しい表情のまま、出て行った。
「今日はお休みを頂いていたはずですのに……急にお仕事が入ってしまわれたの
かしら? 」
夫人は、きょとんと、夫の出て行ったドアを眺めながら、首を傾げた。
「すみませんね、ラン・ファさん。主人は、行かれなくなってしまったようですわ」
内気な夫人の代わりに、ラン・ファがルイス伯と舞踏会に出ることは珍しくなかっ
た。
「いいえ、おかまいなく」
ラン・ファとマリス、ダンの三人は、表に待たせてある馬車に、何事もなかった
ように乗り込み、大公家の舞踏会へと向かった。




