ティアワナコ神殿
アークラント大公家のひとり息子セルフィスが、ベアトリクス城に隣接する魔道士
の砦に修行に入り、三ヶ月が経った。
彼が数年間過ごした森の中の小宮殿は引き払われ、大公夫妻の住む、城に近い
本宮殿に戻る準備がなされていた。
その間、マリスは護衛兵として訓練を受け、彼が宮殿に戻ってからの専任となる。
護衛兵の訓練は、士官学校、流星軍を経て来た彼女にとっては、少々生温いもので
あった。城の警備が主な仕事なので、訓練の時間も短ければ、内容もたいしたもので
はなかった。
そして、マリス、初の護衛の日がやってきた。
魔道士砦から戻って来たセルフィスが、次に、神殿に修行に行くこととなり、
その供についていくというだけのものであったが、彼に久しぶりに会えることで、
決して浮き足立つまいと、マリスはキリッと気持ちを引き締めて家を出た。
「魔道士の砦で、基本的な魔道を習得した後で、聞かれたんだ。黒魔道にするか、
白魔道にするかってね」
「黒魔道に白魔道? 」
馬車の中で、マリスは、セルフィスの話を、興味深そうに聞いていた。
「マリスも知ってる通り、炎の術や、氷の術を始め、この世界にはいない生き物など
を、違う次元から呼び出したりする召喚魔法などが黒魔法、主に、怪我や病気の治療
などをするのが白魔法さ」
「ふうん。それで、セルフィスは、どっちを選んだの? 」
「僕は、迷うことなく、白魔道って答えたんだ。実は、王族は、白魔道を選ぶことに
決まってるから試されたのと、『自分で選んだ』という形式が必要だったからなんだ」
「そう。王族って、回りくどいことしないといけないのね。でも、話を聞いていると、
黒魔法の方が面白そうよね」
セルフィスは、笑った。
「そうかも知れないけど、代々、王家では、白魔法を身に付けるものとされているの
は、ここの国だけではないんだよ。世界の殆どの国が、そうなんだ。といって、王族
が皆白魔法を極めているかっていうと、個人の魔力の高さにもよるから、極めるまで
はいかないのが普通だけど。
黒魔法は、つきつめればつきつめる程、『魔』に近付いてしまう。中には、魔獣を
召喚して操り、世界を征服しようと邪心が芽生えてしまい、呼び出した本人が、その
魔獣をコントロールする力がなく喰われてしまったなんて話もあるんだ。
人々の憧れの魔道だけど、何でも出来過ぎてしまうと、人はすぐに悪い方へと流れ
がちだ。しかも、最大級の黒魔法の破壊力はとても凄まじく、世界を滅ぼしかねない
危険なものなんだ。
常に正しい心を維持出来る者が使わないと、本当は使ってはいけないんだけれど、
使っているうちに、心が歪んでしまうものが多いと聞くよ。
それに対して、白魔道は『神』に近いものなんだ。神を敬い、進行していきながら、
術を覚えていく。特に王族は、なにか大きなことを決断しなくてはならないことが
多いでしょう? そういう時に、国が滅亡しないよう、正しい判断をしなくては
ならない。清く正しい心でいなくては、神の神託は下らない。だから、常に正しい
心を持っていなくてはいけないんだよ。……そう考えると、どちらが王族に相応
(ふさわ)しい魔法かわかるでしょう? 」
セルフィスが、やさしくマリスを見る。
「それはわかったけど……、でも、以前みたいに、魔物とかが襲ってきたりした時は、
ラン・ファが使ってた攻撃力のある黒魔法の方が有利なんじゃないかしら? ほら、
この国の外れには、魔物が棲むって言われている辺境があるじゃない? そんな奴等
を一掃するには、黒魔法を身に付けておいた方がいいと思うわ。セルフィスなら、
きっと心が歪んだりはしないわよ」
彼は笑った。
「確かに、黒魔法で魔物を撃退することは出来るけれど、でもね、あまりにも魔の力
が強いものーーつまり、上級の魔族が現れた時なんかは、生半可な黒魔法では通用
しないそうなんだ。その時は、白魔法の奥義が有効なんだって。やはり、悪には白い
清らかな力が勝つんだよ」
「ふうん、そうなの? 」
マリスは、森の中にひとりで住んでいた老魔道士のことを思い出していた。
軍隊に入ってから、忙しくなってしまったこともあるが、なによりも、尊敬する
女戦士ラン・ファに止められてからは、なんとなく行き辛くなってしまったのだった。
(ゴドーは元気かしら? 彼の使っていたのは、間違いなく黒魔法だわ。だけど、
それを悪用したりなんて、していなかった。幼かったあたしやダンを楽しませ、
喜ばせてくれただけだわ。
セルフィスや魔道士たちが言うほど、そんなに、黒魔道っていけないものなの
かしら? 聖なる力だけでは、邪な魔物たちを葬ることはできても、悪者
は何も魔族だけじゃなくて、野盗とか悪い人間には、白魔法は通用しない。
圧倒的な力で、邪悪なものを押さえつけるには、綺麗事は通用しないと、あたしは
思うんだけど……)
マリスは漠然と頭の中で、そう考えていた。
だが、その考えは、異端に近かったので、口には出さずにおいた。
「あ、マリス、外をご覧よ」
セルフィスに言われて、彼女は馬車の窓の外を覗いた。
辺りは、緑の美しい山々が帯びのように連なっている。
「まあ! ……ベアトリクスにも、こんなところがあるなんて……! 」
どこまでも続く緑色の山に、馬車の通る道の両側には、いろいろな草花が彩って
いる。その合間に、民家がぽつんぽつんと見えているだけであった。
「ちょっと馬車を止めて」
セルフィスが御者に言うと、扉を開け、外に出て行った。
「どうしたのです、殿下」
二人きりの時は友達同士の口調であるマリスは、護衛兵の顔になり、慌てて彼の
後を追った。
「ご覧よ、マリス。なんて綺麗な花なんだ! 」
彼は屈んで、花々に魅入っていた。
そのうち、その中の花を一本折った。
「まあ、セルフィス! だめよ、花を勝手に折ったりしては。可哀想だわ! 」
マリスは、ミラー家の庭園で、幼い頃、花を摘んで遊んでいたところを、両親に
きつく咎められたことが、今でも染み付いていた。
『花は命あるものなのよ。命あるものを無下にしてはいけません! 』
普段はやさしい母も、この時ばかりは、彼女を叱りつけていた。他のいたずらは
何度も繰り返して来た彼女であったが、それだけは、その後は二度としなかったのだ。
そんな彼女に彼は微笑むと、その折った花を、彼女の短い髪に挿した。
「こうすれば、花の命も報われる。きみには、オレンジ色がよく似合うよ、マリス。
この可愛らしいアリニアももちろんだけど、大輪の花ファナ・ローズが最も似合うと、
僕は思うよ」
マリスの頬が、紅く染まっていく。
「ファナ・ローズだなんて、からかわないでよ。だいいち、この男モンの護衛服に、
花なんかに合うわけないでしょう? 」
マリスが髪に挿した花を取ろうと手を伸ばすと、その手を、セルフィスがやさしく
掴んで止めた。
「そんなことないよ、とても似合うよ。ねえ、そこのきみも、そう思うでしょう? 」
セルフィスが御者に呼びかける。年配のその男も、彼とマリスとに微笑んだ。
「ほら、彼だって、似合うって言ってるよ。今日は、ずっとそのままでいなよ。
これは、命令だからね」
彼は、にっこり笑うと、マリスの背を軽く押して、馬車に戻った。
「結構、強引なのね。あなたって」
マリスが仕方なさそうに笑う。
だが、嬉しかった証拠に、バイオレットの瞳は、かわいらしく彼に向けられていた。
それから、しばらくして、馬車は、どっしりと構えた、ある建物の前で止まる。
数段を経て、白く丸い支柱がいくつも並んでいる上に、四角く厚みのある平らな
屋根があり、よく見ると、柱や、その屋根の側面には、神話を思わせる見事な彫刻が
施されていた。
「セルフィス公子様、お待ち申し上げておりました」
建物の仲からは、白い法衣に身を包んだ、真っ白な長い髪を後ろで束ねた老人が、
同じく白い衣に包まれた数人の神官を連れて、彼を出迎えていた。
「三日間、お世話になります、祭司長様」
セルフィスは、老人の前に進み出て、優雅な最敬礼をした。
「お噂通りのお美しい公子様であられる。どうか、お顔をお上げ下さい」
祭司長は微笑み、セルフィスも顔を上げる。
ふと、祭司長は、後ろで片膝を付き、頭を低くしているマリスに目を留めた。
「……ほほう。女性の護衛兵の方ですかな? 」
「ええ。彼女は女性でも腕が立つので、僕の護衛にと引き抜いたのです」
セルフィスは、にっこり笑顔で答えた。
マリスも顔を上げ、立ち上がった。
「それじゃ、マリス、また三日後に」
「かしこまりました、殿下。三日後に、お迎えに上がります」
そうして、マリスが顔を上げた時、祭司長と神官たちの目に、僅かに同様が走った
が、セルフィスもマリスも気が付かなかった。
セルフィスが神官に囲まれ、白い石壁の神殿の中を進んでいると、沈黙していた
祭司長が、ふいに振り返った。
「あの女性の護衛の方ですが……」
「ああ、マリスのことですか? 」
「彼女は、どちらのご出身で? 」
「白龍将軍ルイス・ミラー伯爵のご息女ですよ。彼女がどうかしましたか? 」
「いや、特には……。ただ、その……大変珍しい瞳をしていらっしゃると思ったもの
で……」
祭司長が笑顔を取り繕う。
「そうですね。僕は、幼い頃、身体が弱くて、あまり人と接しなかったから、初めて
彼女を見た時も、珍しいとは思わなかったのですが、いろいろ人と会う機会が増えて
くると、彼女と同じ瞳の色の方は、滅多にいないことに気が付きましたね」
セルフィスが、にこやかに返した。
「わたくしも、過去にひとりだけ、彼女と同じ瞳をした女性に出会ったことがあり、
もしかしたら、彼女と縁のあるお人ではないかと、一瞬考えたものですから」
「へえ、マリスと同じアメジストのような瞳の女性ですか。どのような方だったの
ですか? 」
セルフィスが興味を惹かれたように、祭司長を見た。
「このティアワナコ神殿の巫女として、仕えていた者にございました」
「巫女……さん? 」
セルフィスは、意外そうに、目を丸くした。
「はい。十数年前、事情があって、この神殿を立ち去り、現在行方は不明ですが、
先ほどの方は、その彼女にどことなく似ているような……そのような気が致したので
すが、ルイス伯爵のご令嬢とあらば、ここの巫女などとは関わりはございますまい。
他人の空似だったのでございましょう」
「そうでしょうね。マリスが、巫女殿とご縁があるとは、僕にも思えませんから」
セルフィスは、クックッとおかしそうに笑い声を漏らした。
神殿で洗礼を受けるに当たっての、諸々の手続きを済ませ、彼を自室に案内した後、
祭司長と神官たちは、ひとつところに集まっていた。
「祭司長様、あれは、……ジャンヌの子では……? 」
「わたくしも、そう思いました。生き写しというほどではなくとも、あの紫色の瞳に、
あの髪の色ーーあれは、まさしく、ジャンヌのものと言えるでしょう」
神官たちは、次々とそのような言葉を口にした。
祭司長は、眉をひそめた。
「暁の瞳に夕焼け色の髪……。わしも、一目見たときは、ジャンヌを思い出した。
じゃが、もし彼女がジャンヌの子だとしたら、……彼女が、あの時身ごもっていたの
は、ルイス将軍の子ということであろうか? わしが神の啓示を受けた時は、この
ベアトリクスに、なんらかの影響をもたらすということであったが、たかが将軍の
隠し子如きに、この大国ベアトリクスが揺るがされるとは思えないんだが……」
「しかし、護衛兵は、身分は貴族の中ではたいしたことはなくとも、宮廷に出入りは
出来ます。となると、彼女が、宮廷に災いをもたらすことは、考えられぬことでは
ありませぬ」
「災いと決まったわけではないじゃろうが……」
祭司長は、難しい顔のままうつむき、考え込んでから言った。
「とにかく、公子様の多大な魔力にご期待するのじゃ。あのお方が、いざという時、
正しく対処してくれるよう、今は祈るのみじゃ」
重々しい祭司長の声に、神官たちも手で神の印を切り、祈りの言葉を唱え始めた。




