白龍将軍の娘
プロローグ
木々の間をすり抜け、ひとりの女が駆けてゆく。
太陽の色をした艶やかな長い髪をなびかせ、暁を思わせる紫の瞳が、印象的な女だ
った。
女は、何かから逃げるように、時々振り返る。腕には、しっかりと、赤ん坊を抱え
て――。
森の中に、小さな湖が現れた。鬱蒼と生い茂った青い木々の間に、
ぽっかり出来たその湖のほとりには、ひとりの老人が座り込み、木の枝から垂らした
草のつるが、水面に浮いている。
女は、夢中で、老人に駆け寄った。
「もしや、あなたは、大魔道士ゴールダヌス様ではありませんか? 」
赤ん坊をしっかり抱いたまま、女は尋ねる。
老人は、女に話しかけられたことも、しばらくわからない様子であったが、その
うち気が付いたのか、驚いた顔をして女を見つめた。
「大魔道士ゴールダヌス様を、ご存知ありませんか? 」
始めに尋ねた時よりも、冷静になって、女は再び尋ねた。
「ああ? なんだね、お前さんは? 」
背中の曲がった、小柄な老人は、ゆっくりと問い返した。
「時間がないのです。彼らがやってくるわ。お願いです! ゴールダヌス様をご存知
なら、この子を……この子を、あのお方に預けて頂けませんか? 確かに、この森に
いらっしゃるはずなのです。昔、わたくしの師匠であった、あのお方が――! 」
まだ若いであろうその美しい面は、疲労と、連続する緊張のあまり、
憔悴していた。
けれども、老人は、女の言うことが、わかっているのか、いないのか、きょとんと
した顔で、女を見つめているばかりだった。
「時間がないわ。とにかく、この子だけは、彼らに渡さないで。お願い! でないと、
この子は……殺されてしまう! 」
女は早口にそう言うと、老人に無理矢理赤ん坊を押しつけ、湖から姿を消した。
「こっちだ! 」
フード付きのマントを頭から被った、黒ずくめの男が数人、女の現れた方向から、
ずかずかとやってきた。
「おのれ、どこへ……。おい、貴様、赤子を抱いた女を見なかったか? 」
横柄な物言いで、黒マントのひとりが、老人に近付く。
「……あ、ああ? 」
湖の浅瀬に、足のすねまで浸かっている老人は、わけがわかっていなさそうに、
黒ずくめの男たちを、口を半開きにして見つめているばかりだ。
「耳が遠いのか? おい、じじい、今ここを、白い神官服の女が通らなかったか? 」
先よりも声を大きくし、ゆっくりと、男は尋ね直した。
「知らんなあ、女など」
老人は、ほとんど歯のない、ふにゃふにゃした言い方であった。
「それよりも、今日は大漁じゃ! 見よ、こんなに大きなお魚殿が――」
先程から両腕いっぱいに抱いている大きな魚を、老人は、嬉しそうに見せる。
「じいさん、悪いが、あんたの暇つぶしに付き合ってられるほど、俺たちは気が長く
ないんだ。女は、どっちへ行った? 答えろ! 」
男のひとりが、老人の胸ぐらを掴む。
老人の手からは、大きな魚が、ぼちゃんと、こぼれ落ちた。
「やめてくれい! お魚殿が逃げてしまう! 」
仲間たちに放すよう促されると、男は、老人を、乱暴にその場に転がせた。
「先を急ぐぞ」
女の消えた方へと、彼らは姿を消した。
「大丈夫かい、お魚殿」
浅い水面には、老人の抱いていた大きな魚が、ぴしゃぴしゃと水しぶきを上げて
いた。
老人は、大事そうに魚を救い上げ、胸に抱いた。
「おお、よしよし。……ほう、たいしたもんじゃ。泣きもせぬわ」
魚は、老人の手に抱かれているうちに、女の預けた赤ん坊の姿へと、みるみる移り
変わっていったのだった。
「生かして連れて帰るよう言ったはずだ」
「申し訳ありません」
ある暗い一室では、先の黒いマントの男たちの他に、もうひとつの影があった。
「赤ん坊は」
「は。それが……彼女を見付けた時には、既に連れておりませんでした」
男たちは、石の床に膝を付き、深々と頭を下げたままで答える。
その様と、窓際でひとり背を向け立つ者の威厳からすると、彼らの間は、ただの
主従関係ではなく、それは絶対のものだというのが、見て取れる。
「そなたたちは、ジャンヌを捕らえられなかった上に、赤子までをも、みすみす逃し
たというのか! 」
彼らの雇い主らしき人物が、窓の外を見つめていた顔を振り向かせた時、月明かり
が、その顔を照らし出した。
その大柄な体格と、低い声色からは想像もつかないことであったが、それは女で
あった。
「ですが、王妃様、我々も全力を尽くし……」
「言い訳などは、聞きとうない! 」
女は――ベアトリクス国王妃イフギネイアは、太い声で打ち切った。
「やはり、魔道士にでも頼むべきであった……! ジャンヌめ……! 神殿から姿を
消したと聞いたが、まさか、赤子を産み落としていようとは――! 拷問にかけ、
この私の手で、殺してやりたかったのに……! 」
王妃は、ぎりぎりと歯を鳴らし、両の拳を握り締めた。
その様子は、はたから見ても、尋常ではない。
黒ずくめの男たちは、更に、頭を低くした。
「まあ、凄い風ですこと」
「今夜は、嵐になりそうだな」
「そのようですわね。つい先程までは、穏やかな風でしたのに」
青い花模様のドレスを着た中年になろうという女と、精悍な顔つきの、やはり同じ
ような年頃の男が、豪華な敷物の敷かれた広間で、ゆったりとソファに腰掛けていた。
「ご主人様、お休みのところ、申し訳ございませんが、是非、お会いしたいという
方がお見えです」
執事が、ノックをして入ってから、そう告げる。
「こんな時間にか? 」
主人は、手にしていた本から視線を執事に向ける。
女も、編み物の手を止め、どうしたものかと、夫の顔を見つめる。
「明日ではだめか? 」
「是非、今日のうちに、お話ししなくてはならないと、その一点張りでして……」
「一体、誰なのだ? 」
「魔道士のような黒いマントの男で、……自分は、予言者だと、そう言い張っておら
れて……」
執事も、しどろもどろに答える。
「予言者だと? 」
主人は、いかにも疑わしいというように、執事を見る。
「頭のおかしい輩か、ごろつきだろう。なぜ、そんな者を、館へ入れた? 」
「それが、その……ティアワナコ神殿の遣いというので……」
主人は、執事の案内した部屋の扉を開けた。
執事の言う通り、頭からすっぽりと黒いマントで全身を覆った中肉中背の男が、
部屋の中央に立ち、主人の姿を認めると、深く頭を下げた。
「白龍将軍ルイス・ミラー伯爵であられるな」
「いかにも。あなたは? 」
主人ルイスは疑い深い目で、一見して魔道士とわかるその男の言葉を待った。
男はフードの中から青く表情のない瞳で、見返す。頬はこけ、黒い髪がのぞく。
年齢は、中年くらいだろうと、ルイスは踏んだ。
「実は、そちらに預かっていただきたいものがある」
「私に……? 」
魔道士はマントの中から赤ん坊を取り出した。
白い布に包まれた、まだ生え立ての柔らかなブラウンの髪をし、すやすやと眠って
いる。
魔道士に促され、ルイスは手を伸ばし、赤ん坊を抱く。
「この子は、どうされたのです? 」
「我がティアワナコ神殿に縁のある者と言える。この子は、戦士としての
才覚に恵まれるであろう。大事に育てるがよい」
「一体、何のことだね!? ……はっ! 」
魔道士の身体は、宙に、ふわりと浮かんでいた!
「よいか、必ず戦士として育てるのだぞ。彼女は、必ず、ベアトリクスに勝利を導く
女神となるだろう」
「彼女!? ……では、女の子なのか!? 」
ルイスの問いかけに答える間もなく、魔道士の姿は、ふうっと、空気に溶け込む
ように、消えてしまった。
目の前の出来事は、彼にとって、到底信じられるはずもなかった。
だが、彼の腕の中には、生まれて間もない赤ん坊が、静かに寝息を立てているのだ
った。
第一部『ミラー伯爵家』 1. 白龍将軍の娘
「ご主人様、金獅子将軍ランカスター伯爵様が、お見えになりました」
「おお、そうか。今行く」
ここベアトリクス王国において、白龍将軍の称号を持つルイス・ミラー伯爵は、
書き物の手を止め、羽根ペンを置いた。
古くからの友人であるランカスター伯とは、チェックという、貴族たちの間で流行
っている、ガラスで出来た駒を進めるゲームの仲間でもあった。
彼は、いそいそと書斎を後にした。
「待たせたな、ジョン。久しぶりだな! 」
「おお、ルイス! 」
庭の一角では、黒髪を後ろで束ねた、背の高い、がっしりとした体格の男が、厳格
な顔つきをほころばせて、振り向く。
ベアトリクス王国の勇猛武将と言われる、金獅子団の将軍ジョン・ランカスターで
ある。
一方、王家の護衛を主に任される白龍団の将軍であるルイス・ミラーは、彼と同じ
く丈の長い上着をはおり、金色の髪を、同じように後ろに束ね、目付きの険しい精悍
な顔立ちであった。
ランカスターほどの背丈はなくとも高い方ではあり、鍛えられた体格ではあったが、
彼と並ぶと、猛々しさは抑えられてしまい、思慮深い印象の方が残る。
「相変わらず、綺麗な庭だな。拝見させてもらっているよ」
「妻も私も、花が好きなのでな」
中庭の中央には、小さな池があり、人の等身大ほどの白い女神の像があった。それ
が手にしている水瓶からは、ポンプで汲み上げられた水が常に流れ出している。
色とりどりの花が、種類毎に植えられ、鮮やかな緑色の葉の上で、咲き誇っていた。
どの花も、目の前で見る事ができるよう合間を縫って道があり、中央の噴水の周り
を、花のない緑色の、背の低い草が囲んでいる。
中庭をぐるりと、樹木も立ち並んでいて、それは、まるで花園のようだった。
「後で、私の部屋で、久々に一戦やろう」
「おお、それも本当に久しぶりだ。是非! 」
ふと、ルイスは視線を低く落とす。ジョンの後ろには、まだ幼い少年がいることに
気が付いたのだ。
少年は、ジョンと同じ黒い髪をしていて、貴族のような服を着てはいたが、少々
窮屈そうであった。
その黒い瞳は、幼さの割りには、既に、しっかりとした意志を思わせる光が浮かん
でいた。
「彼は? ご子息とは違うようだが……? 」
ジョンは微笑みながら、少年の頭を撫で、ルイスの質問に答えた。
「貴族ではないのだが、私の遠縁に当たる者でな、なかなか見込みがあるもんだから、
今年、士官学校に上がったと同時に、うちで面倒を見ることにしたのだよ」
「ほう。道理で、芯の強そうな目をしているわけだ」
ルイスは感心したように少年を見つめた。少年も、ルイスのエメラルド色の瞳を
見返す。
「将来は、私たちのように、ベアトリクスの精鋭たちを率いるようになりたいのだ
そうだ」
「それはそれは、頼もしい限りだな」
「まったく、恥ずかしいことに、我が息子たちは、剣の才能がなくてなぁ。この子が、
私の後を継いで、金獅子団を引き継いでくれればと願っておるのだよ」
二人の将軍は、バルコニーへと向かう。バルコニーでは、執事によって、既に、
お茶の用意が成されていた。
「最近、ティモーネ王国の新しい国王は、何かとやり手で、我がベアトリクス王国の
武器や防具を、今までの倍欲しいと、申し出ているそうだ。戦闘でも始めようという
のではあるまいかと、我が騎士団の間では、警戒しておるのだ」
「なるほど。確かに、この国の武器も防具も、一級品だからな。しかし、道具ばかり
がよくても、それを使いこなせる腕がなくては、しょうもない話ではあるがな」
二人の伯爵は笑いながら、カップの紅茶を啜った。
ジョン・ランカスターの隣では、少年が紅茶にも手をつけようとはせず、ただ落ち
着かなそうに、もぞもぞし、庭をきょろきょろ見ていた。
その時だった。
「お嬢様! 危のうございます! 」
「お戻り下さい! 」
屋敷に仕えるメイドたちの悲鳴が、突然聞こえてきたかと思うと――!
ガシャーン!
「うひゃあっ! 」
「うわあっ! なんだ!? 」
バルコニーの白いテーブルの上に、いきなり降ってきたものがあった。
陶磁器のカップは割れ、テーブルも壊れてしまい、菓子は足元に散らばった。
バルコニーに、一瞬にして破壊を招いたのは、オレンジ色のドレスを着た、その
ドレスと同じ色に輝く髪をした、色の白い、まだ幼い娘であった!
「あら、おとうさま、おじちゃま、こんにちは」
娘は、むっくり起き上がり、その愛らしい顔を、嬉しそうに、ほころばせた。
「マリス! 一体、何をしているのだ! どこから落ちてきたのだ!? 」
ルイスは紅茶を引っ掛けた服に構うことなく、驚愕のあまり、娘を叱るどころでは
なかった。
驚いて尻餅をついているランカスター伯も、目を白黒させている。連れの少年も、
ただ唖然と、口を開いたまま、何が起こったのか理解も出来ない様子だ。
「申し訳ございません! ご主人様! 」
メイドたちがわらわらと、必死の面持ちでやって来る。
「ちょっと目を離した隙に、お嬢様が屋根の上を、お歩きになっていらして――! 」
「私たちの止める間もなく、足を滑らされたのでございます! 」
「どうか、お許しください! 」
メイドたちは口々に弁解し、頭を何度も、深々と下げる。
当の幼女は、かすり傷を負ったくらいのもので、たいした怪我もなく、にっこり
笑って立ち上がっていた。
「まったく、このお転婆娘が! 打ちどころが悪ければ、死んでいたのだぞ! 」
ルイスは、幼女を脇に抱えると、ドレスの上から尻をぱんぱん叩いた。
「や~ん、おとうさま! やめてー! 」
娘は、途端にわあわあ泣き叫ぶが、彼は手を止めなかった。
「危ないことはするなと、何度言ったらわかるのだ! 特に、お前は、女の子なのだ
ぞ! 」
「ごめんなさい! もうしないから! 」
二人の客は、呆気に取られて、その様子を見ていたが、そのうち、見兼ねたジョン
がルイスを止めたので、幼女は、尻叩きから解放されたのだった。
オレンジ色のドレスをはたくと、娘は、何事もなかったかのように、けろっと泣き
止んでいた。
それは、いつものことであったのだろう。
ルイスは憎々し気に、彼女を横目で見ていた。
「いやあ、マリスちゃんは、いつも元気がいいなあ」
ジョン・ランカスター伯は、片頬を引き攣らせて平静を装い、彼女を抱き上げて
いた。
マリスは、きゃっきゃと喜んでいる。
「そうだ、ダン、お前、マリスちゃんの遊び相手になってあげなさい。年も、お前の
一つ下だからちょうどいい。大人の話に付き合っていても、面白くないだろう。二人
で、庭で、お・と・な・し・く、遊んでいなさい」
ランカスター伯に言われて、少年は、マリスを見つめた。
マリスも地面に降ろされると、ダンを見上げ、彼の黒い髪と黒い瞳を、珍しそうに
見つめていた。
ダンも、マリスのカールしたオレンジ色に近い茶色の髪と、なによりもガラス球の
ように透明な、不思議な感じのするバイオレットの瞳に、しばらく魅入っていた。




