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『星の一角、降り給う』
物語のような言葉から始まった詠唱は優に30分は続いていた。続いて、まだまだ終わりそうにもない。
最初にその言葉がグラムエインの口から発せられた時、副師長であるシャイールサリノはわずかに顔を強張らせた。
それは魔術師以外には秘匿されている、儀式の際して描かれる魔法陣の解読内容だったからだ。
すでに陣は描かれている。グラムエインはさらにそれを一から読み上げることで必要を超えた膨大な魔力をそそぎ込んでいた。
過去に別の魔術師の手による儀式を経験している者は一人しかいなかったが、それでも皆、薄々これはおかしいんじゃないかと気づいてはいた。
これほどの長時間にわたる詠唱など聞いたことがない。
しかし、始まってしまった以上は止められないし、後ろでごそごそと相談するような場面でもない。ただ一人、いや二人か、月神官と副師長補佐は嬉々とした顔で延々と続く詠唱に聴き入っていた。
『罪を犯せしもの、是の血を捧ぐ』
小一時間も経った頃。
やっとのこと、この場面の主役であるガルフラウの出番がやってきた。
額にじっとりと汗を掻いたグラムエインが彼を示すと、あまりに長い詠唱に意識を呑まれかけていたギルド員たちは、恍惚たる呪縛から解き放たれてはっとした。
猿轡を咬まされ、後ろ手に縛り上げられ、足首にも枷をとりつけられたガルフラウは、儀式の最初から魔法陣のまんなかでギルド員二人に押さえつけられている。
その目に意志の光はない。儀式にとりこまれて魔術的に自由を奪われている。それを確認してから、二人は腕と胴体を縛る拘束具を外し、彼をうつ伏せに寝かせた。
ぴくりとも動かない、ガルフラウの左の二の腕めがけて、一人が巨大な戦斧を叩き落とす。
見事、一撃で腕が斬り離され、床上に転がる。わずかに飛んで跳ねて。
と同時に。
石の床いっぱいに描かれ、輝いている魔法陣から、ひとの丈を超える巨大な黒い手のようなものがあらわれた。切断されたガルフラウの腕を受け取るべく。
捧げられた腕は、その黒きものと接触したところから、あたかも最初から何もなかったかのように消滅していった。
それはやはり手に見えた。
ひと一人、その掌に握り込めそうな巨きな手は、光を反射しないなにかだった。そこにあるのに在るということが視えない。ひとの手を模した闇の穴が空いていた。
羽の如き優雅な動きで、ひらりと手がひろげられる。それから続く腕は細く、雷光にも似た奔放な形状の、同じく闇で。ぬるぬると立ちのぼり、姿をあらわしたなにものかは、闇の身体に獣の頭蓋に見えるなにかを頭としていた。その部分だけはくすんだ暗灰色。
グラムエインはなにものかの前で両膝を突いて腕を組んで頭を下げた。
『――裁定を』
闇が凝ったなにものかの周囲には濃い魔力が渦巻いている。グラムエインが儀式に捧げた魔力だった。膨大なそれのおかげで辺りには何の変化もない。影響もない。
なにものかの前ではとても口にはできない彼の存在のように、強大なものがこの世にあらわれているにもかかわらず。
まるで当たり前のようにそこに在った。在ることが可能になっていた。
なにものかの腕は左しかない。受け取られたのは左腕。
その左で、なにものかはガルフラウの切断された腕の傷口に触れた。大量に噴き出た血液は蒸発でもしたかのように消えている。床にぶちまけられた分もすべて跡形もなく。
ある意味で綺麗な切断面に光が宿った。ごうっと薄紅の炎光があがる。
『罪は在る。断罪しよう。想いは有る。祝福しよう』
そう告げると、なにものかは姿を消した。まことにあっさりと。捧げられた膨大な魔力ごと。
ガルフラウの左腕には、薄紅の炎の如き斑紋が残った。
彼はリオを犯そうとしたが、彼女への想いはホンモノである。狂った思考を人知を超えたものに認められた証だった。
祝福という名目の下、生涯にわたる枷がつけられたのだ。
儀式終了の合図もギルド長レスフィナンドが出した。
「判決は下った。以上だ」
簡潔だ。副長ソルブレノが嫌そうに顔を顰める。いきなり「以上」で終わりとかねえよ、後始末とか手当てとか色々やることがあんだろが。そう思ったが、いくら彼でもこの場で怒鳴る気にはなれなかった。
「トルム、ナル、手当と回収、頼む」
魔法陣のど真中でガルフラウを押さえていた二人に声をかけた。いつでも冷静沈着、よく訓練された彼らだからこそ、任せることのできた役だった。
二人は「おう」と短く答えて、頼まれた通り、ガルフラウの腕を縛って止血をはじめた。ふたたび溢れ出した血で池ができる前に手当をする必要があった。
断罪者に与えられた傷には、癒しの術は効かない。
彼のなにものかの理の方が上位命題であるからだ。つまりはこの獣人世界の理は、救いよりも断罪が優先されるという、なかなかに切れ味鋭い構成なのだ。
「いやあ、いいもの見せていただきましたー」
月神官はのんびりと言いながら、魔力をグラムエインに受け渡していた。互いにあわせた掌から流れ込んでくる魔力はよく練られている。個人のクセはあるものの、なめらかでひっかかりがない。
秘密を溜め込むことに重きをおいているとはいえ、神官である。浄化や癒しの術は当然得意だし、魔力が尽きかけている魔術師がいたら、己の魔力を分けてやるのはやぶさかでない。
他者を助けることも、神官や巫女のおシゴトの一環なので。
「お見事です」
「ありがとうございます。ちょっとやってみました。敷地内の場所をお貸し下さったので……。こちらの神殿だと魔力の親和性が高くていいんですよねぇ」
「ああー、そういえば、いつもお布施をありがとうございますー」
「フォルリディアナの神秘に」
「神秘に」
「僕は罰当たりな魔術師ですが、こちらの神官長様はお受け取り下さるのでとても救われております」
他の職業に比べて秘匿性の高い知識を「使う」魔術師は、知識を「隠す」月神殿の教えと対立しがちだが、まぁそう言ったら、知識を使わない仕事なんて殆ど無いし、突き詰めれば教義を伝えることもできない。
学者ともよく角突きあわせているが、実際的でない彼らの職業よりも、より現実的に活用され、なる者も多い魔術師とのいさかいの方が少しだけ目立つ。
そんな事柄自体、月神官たちは隠匿したがったりもする。何もかんもだ。
「そうですかあ。罰は女神様の御気持次第ですから、私ども如きにその判断をする権利など無いと、神官長様が仰られていたことがあります」
この神官長の発言は公然と為されたものなので殊更に隠す必要はない。それでも、伝聞をするのは月神官にしてはサービスのいいことで、彼の修行が足りないのか、不遜なのか、それともグラムエインのお布施金額が破格なのか。
「……神官殿、お耳を拝借できますか」
「はい」
すっと月神官はグラムエインの口許へ耳を近づける。何事かの礼にと、彼らに「小さな秘密」を捧げる信徒が多いので、その仕草は慣れていて自然だった。
ごにょごにょごにょごにょごにょ。
けっこう長く続いた囁きの後、月神官はこくりと肯いた。その顔は無表情と言うには穏やかで、聴いた内容を覚らせるような何かが一切窺い知れない。
「フォルリディアナの神秘に」
掌をあわせて会釈しあう成人男性二人という、いささか奇妙な構図であったことも手伝って、居合わせたギルド員たちのなかには薄らと寒気をおぼえた者もあったとかなかったとか。
そして、秘密の内容は気になるが、聞かない方が身のためだと思ったとか何とか。